« 漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성) | トップページ | 虎巖山城(호암산성) »

2007年5月19日 (土)

河南市 ニ聖山城(이성산성)

漢江南側、ソウル市東隣の河南市にあるニ聖山城を訪ねる。 標高209mの低い山に築いた包谷式山城で、外周1.6kmを石垣による城壁で囲んだものだ。発掘調査20周年記念ということで、市内の博物館で特別展示会もやっており、現地と博物館と両方見ることができた。
この山城は、戦前から日本の考古学者らによって、その地理的条件から漢城百済の遺跡との説が唱えられてきたが、この20年間10回に及んだ発掘調査の成果で百済の遺物はほとんど見付からず、新羅の城という説が有力になった。

発掘調査により、現在残る城壁は初築石垣が崩壊した後、その外側に新たに積み直されたものであることが判明した。初築城壁を百済とし、大規模な改築後の二次城壁を高句麗とする説もあるが、発掘で大量に出てきた土器、瓦、木簡などの遺物は全てこの城の主が新羅であったことを示している。 新羅が6世紀に高句麗と百済から漢江流域を勝ち取った後に築城し、統一新羅時代まで通して使用していたようである。

この山城には興味深い点がいくつかある。
一つは、城内のいくつかの建物跡の中で、8角、9角、12角形(!)の建物の礎石が見られること。韓国内では他に公州の公山城にやはり新羅時代と見られる12角建物跡があるが、日本でも熊本県の古代山城、鞠智城(7世紀)に8角建物の礎石が見つかっている。8、9、12が何かを表しているのか謎。 軍事用の建物にしては懲りすぎで、宗教施設の跡かと推測されている。
もう一つの点は、唐尺と高句麗尺の両方の実物が貯水池跡から発掘されたこと。唐が定めた物差しである唐尺は中国でもほとんど見つかってないらしい。建築で使う物差しが、三国時代の高句麗尺から、統一新羅の唐尺へと変わって行ったことが分かる。
それから高句麗の官職名が記載された木簡や、戊辰年(608か668年と推定)の記載がある木簡などが出土しており、遅くとも7世紀にはこの城が使われていたことがわかる。韓国に山城はいくらでもあるが、年代を文字で特定できるところは少ない。 そういう点でも、大変貴重な遺跡と言える。
2006年10月21日踏査

2006_1021_095648aa_800_1 道路を挟んで南側から見た二聖山城。麓には写真のように飲食店が並ぶ。

2006_1021_074958aa_512 露地を入ってすぐのところに二聖山城の案内板が立つ。下に見える小さい看板は全て飲食店の案内板。

2006_1021_075820aa_800 上の案内板からほんの10分ほどなだらかな山道を進めば、この南壁にたどり着く。

2006_1021_075916aa_800

南壁のアップ。改築後の二次城壁。基底部の数段しか残っていないが、石を少しずつ後ろにずらしながら積み上げているのが分かる。

2006_1021_080000aa_640 南壁に残る、水口跡。板石で階段状に作った排水溝の底部が残っている。一番下の段は、城壁から舌を出すように飛び出しており、新羅の山城によくみられる様式。この上に城壁が残っていれば、独特の台形をした開口部になっていたと思われる。

2006_1021_081708aa_640 城内に二箇所残る石築の貯水池。

2006_1021_081924aa_640 建物跡の礎石群。

2006_1021_083139aa_640 9角建物跡

2006_1021_084125aa_800 東北側の崩壊した城壁跡。斜面に城壁の石が散乱している。

2006_1021_084301aa_800 山頂から見た河南市内。軍事用の山城として、当然見晴らしが良い。

2006_1021_084940aa_800 東側の雉城(突出部)を下から見る。発掘調査後、埋め戻されている。上部にわずかに露出する城壁も保護のためにビニールシートがかぶせられている。

2006_1021_085052aa_800 東門址。

埋め戻されていているが、発掘調査で出てきた初築城壁の上部がわずかに見える。

2006_1021_101732aa_800

発掘調査時の、東門初築城壁。改築後の二次城壁と違って、ほぼ垂直に積み上げている。

2006_1021_102047aa_800 発掘調査時の、東門址全景。

2006_1021_093218aa_800 2006_1021_093338aa_800

西南に僅かに残る城壁の基底部。

2006_1021_093403aa_640 2006_1021_093412aa_640

岩盤の上に直接積み上げている。

2006_1021_093434aa_640 2006_1021_093528aa_800

巨岩をうまく囲うように城壁を積み上げている。

2006_1021_094123aa_800 南西の城壁跡の緩やかなカーブを曲がると、

2006_1021_094304aa_800 南の城壁に一周して戻る。

水口跡が二つ見える。

2006_1021_101017aa_800

河南市博物館。公民館程度の規模だが、この特別展で二聖山城出土遺物を大量に展示しており、内容は素晴らしかった。

2006_1021_101550aa_800山城の推定復元模型。2006_1021_102331aa_512 2006_1021_102348aa_512

慶州皇竜寺址から出土する土器と類似したものが多く発掘されたとのこと。

2006_1021_103154aa_800戊辰年木簡。南漢城の字も見える。

2006_1021_103307aa_512

2006_1021_103319aa_512

左が唐尺。右が高句麗尺。

2006_1021_103434aa_512

2006_1021_103519aa_512_1 貯水池跡からは木簡や尺だけでなく、木製の楽器が出てきた。高句麗古墳壁画にも描かれた腰鼓と同じものと考えられている。

2006_1021_103545aa_512 こんな木製の人物像も出た。

« 漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성) | トップページ | 虎巖山城(호암산성) »

ソウル・京畿道の史跡」カテゴリの記事

山城」カテゴリの記事

寺院・宗教」カテゴリの記事

新羅の史跡」カテゴリの記事

コメント

只今、版築構造を調べています。
3月末に熊本県の7世紀後半に、大和朝廷(政権)が築いた山城鞠智城跡を訪問し、学芸員の案内で版築断面を見学させていたきました。
鞠智城と河南市の二聖城の発掘調査の結果から、社稷壇である八角建物の建物跡が発見されていることを知り、このweb上の八角建物の復元ジオラマの写真を非営利の論文等に転載できませんでしょうか。
よろしくお願いします。

古いブログ記事を読んでいただいてありがとうございます。写真はどうぞお使いください。
版築は奥が深くて面白いですね。
古代の多角形の建物址は、その後も韓国で次々に発掘調査で発見されています。こちらも中々興味深いです。

丁度、韓国文化財庁のHPに2020年の第14次発掘調査報告書が掲載されましたので、LINKを上げておきます。全部韓国語ですが、懸門構造と判明した西門の発掘調査結果です。図面や写真もたくさん載ってますのでご参考ください。

https://www.cha.go.kr/html/HtmlPage.do?pg=/seek/svmnctrdlist03.jsp&mn=NS_03_13_02

上記のリンクのページの下の方に、検索欄がありますので、一番上の入力欄「보고서명」のところに、이성산성 をコピペして入れれば関係する報告書が出てきます。2022‐4-11の日付が入っているものをクリックすればダウンロードのページに飛びます。

写真の転載許可ありがとうございした。
メールの送り先をお教えいただければ、今までまとめたものをおおくりします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 河南市 ニ聖山城(이성산성):

« 漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성) | トップページ | 虎巖山城(호암산성) »

フォト

にほんブログ村 ランキング

2023年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ