利川 雪峰山城 (설봉산성)~漢城百済の痕跡-4
東ソウル・バス・ターミナルから高速バスで東南方向に1時間弱で行ける京畿道利川市は陶磁器と温泉で有名で、観光コースにもなっているところ。雪峰山城は、陶磁器エキスポが開催された雪峰公園一帯の、低くなだらかな山の頂にある。利川バス・ターミナルからタクシーで10分とかからない。
三国時代の土器が多数発掘されており、城壁基底部から出た土器から見て、4世紀頃の漢城百済の山城との説が有力になってきている。ここから出た土器は、4~5世紀の百済系のものと、6~8世紀の新羅系のものが多い。高句麗系の土器は出ていない。発掘計画は全7回で、既に6回の発掘調査を終えている。一方で、その頃の百済なら土城がほとんどで、石築山城の技術はまだ無かったはずとの意見も根強いらしく、学会の意見が分かれているように見える。私見では、木簡や碑文などの文字資料が出ない限りは、ものさしとして使えるのは土器の編年しかないのであるから、まずはそれに従うべきだと思うのだが。反論があれば土器の編年を崩す論証を上げないと意味が無いと思う。
こういう見方で近年の山城の発掘成果を見ていくと、京畿道から忠清道にかけての南漢江流域に、初期百済の手になる山城と見てよさそうな城跡が増えてくる。これまで石築の古城と言えば、新羅か高句麗か、という目で見られていたようだが、4世紀の漢城時代の初期百済が相当な実力と高い築城技術を持っていたことが明らかになりつつあると言って良いだろう。
さて、この城は周囲1kmくらいの山城だが、1/3ほどが復元された真っ白い城壁で、公園としてよく整備されている。しかし、どうしても昔の城壁が残っている部分が見たくて、藪の中に棘を掻き分け掻き分け歩き回り、やっと見つけたのが僅かに北側に残る城壁の一部と、西側崖下の少し長い城壁だ。城内には建物跡や烽火台跡、八角形の社稷壇などが残る。そして驚いたのは城内に積み上げられた大量の土器片。最初、なにかの土俗信仰に関連したものかと思って近づいて見たところ、様々な文様が表面に刻まれた土器片の山でびっくり。まわりにもかけらと思われるものがポロポロ落ちていた。
2006年11月25日踏査
▲雪峰公園の湖と、雪峰山。
▲雪峰公園案内図。山城は右端の方にある。
▲20分ほど登ると、東門の復元された白い城壁が見えてくる。
▲東門
▲史跡第423号 雪峰山城解説版
▲東門から見渡した利川市内
▲東門付近
▲カル・パウィ(刀岩);この付近に建物跡などがある。
▲カル・パウィ(刀岩)の後ろから利川市内を望む
▲烽火台 李朝時代のものか
▲社稷壇;八角形の石積みの祭壇。ソウルの王宮の西にある李朝時代の社稷壇とは形状も大きさも異なる。いつの時代のものだろうか。
▲中国の春秋戦国時代に始まった社稷信仰は、朝鮮には三国時代に伝わったとのこと。
社=地の神、稷=穀物の神であって、先祖の宗廟とあわせて国家が祭るべき神である。日本には社稷ということばだけが国家を表すものとして伝わっているが、信仰自体は受け入れられなかったのだろうか。
▲社稷壇のあたりから市内を遠望
▲▼東西14.3m、南北5.7mの南将台址。統一新羅末頃の見張台である。
▲城内の建物跡などを見た址で、東門にもどり、左回りで城壁を一周して見る。
▲復元城壁部分
▲土器片の山
▲いろいろな模様の土器が混在している。
▲土器片はいくらでも散らばっている。こんな白っぽいのもある。
▲井戸の跡。今でも水が湧き出ている。
▲北側に残る古い城壁
▲よく整えた形状の長方形の石を「品」字型に積み上げている。
▲復元された北側城壁。斜面や大岩のある地形に沿って城壁を構築している。
▲▼わかりにくいが西側の谷に積まれた城壁が下に見える。
▲▼下まで降りて西壁に近付くが、潅木が密集していて容易ではない。
▲古い西壁の真ん前まで何とか近付く。切石は大きさが完全に規格化されてはいないが、厚さは同一にそろえたものを積んでおり、ほぼ水平になっている。やはり品の字型に積んでいる。
▲▼同じ場所から左右を写す。
▲▼一周して東門に戻る。
▲城壁は数度の修・改築を経ているらしいが、近年の復元部分と古い城壁の区別しかできなかった。より古い部分は下層に埋め戻されているのかと思う。地形は意外と複雑で、城壁が途切れている部分も多く、全体の構造が今一つ掴めなかった。
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