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2007年9月1日の1件の記事

2007年9月 1日 (土)

扶蘇山城 (부소산성) ~百済最後の王城を守る山城

忠清南道扶余郡。538年から660年までの約120年間、百済最後の都があったところだ。百済の頃には泗沘と呼ばれた。新羅と唐の連合軍に徹底的に破壊されたためか、飛鳥文化の源流だった筈の百済文化は残念ながら僅かしか残っていない。 しかし、近年の発掘の成果で少しずつその姿を現しつつあると言って良いだろう。

まずは扶蘇山城。王宮があったと推定される地帯のすぐ北に位置する、標高100m程度の低い山に作った土城である。山の北側は錦江に面した天然の要害だ。百済時代をしのばせるのは、この山の頂上を囲む土城の城壁跡と、いくつかの建物址。 今回行ってみて意外だったのは、城壁の縄張りが思いのほか複雑だったこと。案内板によれば、一番外側の大きな外周部分、1.5kmが百済時代のものとのことである。内側に残るいくつかの城壁のラインは、その後の新羅時代と、高麗末~李朝初期に規模を縮小して作った部分だということが発掘調査の結果、分かってきたらしい。

山城の城壁のすぐ外の山腹に、寺跡が残る。西の山腹にあるから西腹寺と呼ぶが当時の名前は分からない。中門、仏塔、金堂の土台や礎石が残っている。伽藍配置は、これらの遺構が全て一直線に並ぶ、日本で四天王寺式と呼ばれる様式である。扶余にいくつも残る百済時代の寺跡は、大抵がこの伽藍配置である。日本では法隆寺の若草伽藍跡などの初期の寺がこの様式を取っている。

ちょっと面白かったのは、この山の南側山麓一帯を発掘中なのだが、これを一般公開していること。散策路が設けてあって、発掘現場を見て回れるようになっている。建物址、工房跡、大路跡、倉庫址などが散在しており、所々に簡単な解説版もあり、ここに百済の都があったことを想像させてくれる。百済の痕跡は、ほとんどが土の中である。

2007年1月20日踏査

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▲扶蘇山上から錦江を望む。

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