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2007年9月22日の1件の記事

2007年9月22日 (土)

扶余 羅城 (부여 나성) ~百済城郭都市の城壁

羅城とは中国式の都城制で街全体を囲む城壁のこと。
小説などでも有名な平安京の羅城門(羅生門)は、その羅城の南門にあたるのだが、平安京では街の区割りを碁盤の目にする条坊制は導入されたのに、街全体を囲む城壁は作られなかった。城門だけ。どうしてだろう。日本ではその後も羅城は一度も作られない。朝鮮ではこの百済を始めとして、その後羅城は李朝まで受け継がれていく。

百済では、この最後の都である扶余の泗沘城に初めて羅城が作られた。全長8.4kmと推定されている(下記追記注)。現在は一部のみが残っている。今回見てきたのは、陵山里古墳群近くの東門跡付近に数100m残る部分。写真の通り基本的には土城だが基礎部分が石積みになっている。唐が百済を滅ぼした記録に、まず郭に入って、次に城を囲む・・・・と書かれているそうで、街を囲む城郭があって、その中に王城があったことが文献からもわかる。しかし、せっかくこんな立派な城郭や、いくつもの山城で都城を守ったのに、いざ唐・新羅連合軍が来ると、この都は簡単に陥落してしまった。 これもまた謎である。

2007年1月20日踏査

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2007年10月28日追記;

この羅城の範囲及び総長については、諸説ある。「泗沘羅城研究の現段階;朴淳發著2007」によれば、80年代以降、現存しない西羅城、南羅城の存在が主張されていたが、1999年、2000年の発掘調査で西羅城の痕跡は認められなかったとのこと。結果、現在確認されている部分は、扶蘇山城と青山城を結ぶ北羅城0.9kmと、青山城から塩倉里までの東羅城5.4kmを足した総長6.3km。一番古い記録で、李朝初期の『東国與地勝覧』でも13,006尺(約6km)とあり現存の長さとほぼ合致するので、当初から西・南羅城は無かったと結論付けているようだ。韓国文化財庁のホームページの羅城の解説では総長84kmとなっているが、これは8.4kmの誤りで、80年代以降の説で西羅城を含む総長かと思われる。しかしこの最新の説によれば、泗沘の羅城は都市の外周を完全に囲ったものではなく、蛇行する錦江の半円の東側を閉じるような直線に近い構造ということになる。

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