益山の百済遺跡~武王遷都説
益山には百済武王(580-641)が遷都したとの説がある。『韓国の古代遺跡(田中俊明・東潮著)』によれば、文献上では、南斉の『観世音応験記』の日本にしか残っていない写本に、武広王が遷都したとのくだりが見付かっている。武王の別名、武康王と朝鮮語音が似ている。また、帝釈精舎が落雷で焼けたとの記述もあるが、益山で帝釈寺銘の瓦が出土した百済時代の寺跡があり、これに比定できるとのこと。この帝釈寺跡には行って見なかったが、他のいくつかの遺跡を見てまわった。
まずは、五層石塔で有名な王宮里遺跡を訪ねた。
約500mx250mの長方形の土城が平地に築かれている。この中に五層石塔が残る。王宮里遺跡自体は、百済から高麗時代までの遺物が発掘調査で見付かっているが、どういう場所だったのかは不明で、今も継続中の発掘の成果を待つしかない。遺物の展示館があったが、残念ながら改装工事中で見られなかった。
この五層石塔は一見有名な扶余の定林寺石塔を思わせる百済様式だが、高麗時代の作とのこと。百済滅亡後も、百済の故地に作られる仏塔は百済様式を保ち続けていたようだ。また、この石塔が建てられる前には木塔が建っていたらしいことが最近の発掘調査で分かってきた。
次は、古墳。
益山双陵と呼ばれる二基の古墳が残る。盗掘されていて木棺以外の遺物は見付かっておらず、被葬者も確定できないが、横穴式石室の様式などから百済後期の古墳と推定され、弥勒寺を創建した百済武王と王妃の墓ではないかと言われている。
最後にいくつか残る山城のうち、益山土城(五金山城)を訪ねた。
標高125mの五金山に築いた周囲約700m程度の小規模な土城である。百済後期~高麗までの土器・瓦が発掘されている。南門跡など、後代に一部を石城に改築したことが発掘で確認されているが、これが百済時代かどうかは分からない。 土塁の基礎に、石列を並べてあることが発掘で明らかになり、日本の古代山城で見られる神籠石のルーツかと考えられる。
遷都説を裏付ける程のはっきりしたものはまだ見付かっていないが、これらの遺跡を見ていると、少なくとも離宮程度のものはあったのかもしれない、と思えてきた。
2007年1月28日踏査
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