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2007年11月 3日 (土)

益山 弥勒寺址(미륵사지)~韓国最古・最大の石塔

全羅北道益山市を訪ねる。百済の最後の都があった扶余の南方、錦江の南側に位置し、百済の遺跡が多く残っているところである。

弥勒寺は、7世紀始め百済武王の頃に作られた、百済最大規模の寺。行って見ると、まず寺域が広大なことに驚かされる。また、伽藍配置も三塔三金堂で独特なもの。特に仏塔は、真ん中に巨大な木塔、東西にこれも巨大な石塔を二つ配するという豪華なものだが、残念ながらこのうち一部でも残ったのは石造の西塔だけである。元来9重の塔だったと言われるが残った部分は6層まで。それだけでも高さが14mもある。朝鮮半島に残る、どの石塔とも似ていない、大型で且つ細工が細かいのが特徴である。木塔を、石材でできる限り模倣して造ったのだろうといわれている。朝鮮の最古・最大の石塔とのこと。
崩壊寸前の状況(写真)2007_0128_112628aa_800_2  だったのを1915年に日本がセメントで補強して保存したが、1999年から10年計画で解体修復中である。2008年までに完了させる予定だが、他に例も無く、非常に複雑な構造(内部構造まで木塔に似せてあるらしい)のこの石塔、本当にあと2年で終わるのかな?と思わせるような進捗状況だった。戦前の日本の学者も、おそらくパズルが解けずに降参し、とりあえず崩壊防止だけ考えてセメントで固めたのではないだろうか。

おそらく百済の最新の技術の粋を集めたであろうこの弥勒寺、どうして都である扶余でなく、益山に作られたのかが謎である。扶余にもこれほどの規模の寺跡は残っていない。この疑問に対する答えの一つとして、ここに一時的にでも遷都したことがあるのではないか、という説がある。その説を支えている、いくつかの遺跡を続いて回ってみた。

2007年1月28日踏査

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▲弥勒寺解説。三国遺事の記載通り、元は池があったところを埋め立てた跡が発掘によって確認されたとのこと。

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▲▼広大な弥勒寺境内。大ハズレの天気予報で、到着した頃には一面の雪景色となっていた。右側の東塔は西塔を模して復元されたもの。左側の西塔はプレハブに覆われて解体・復元作業中。

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▲解体した西塔の部材が整理して並べられている。

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▲幢竿支柱。これは統一新羅時代のものらしい。高さ4m。90mの間隔を置いて、西塔の前にも立っている。幢竿支柱は、巨大な仏画や幟などを掲げるための幢竿を、両側から支えるための支柱。韓国で寺跡を訪ねると、石塔とこの幢竿支柱だけが残っているのをよく目にする。支柱の間にあるべき幢竿が残っているところは僅かしかない。調べたところ幢竿は日本にも伝わってはいたが、何故かあまり普及しなかったようだ。これもまた謎である。

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▲回廊や、金堂、講堂などの基壇や礎石は、意外に保存状態が良いと思った。

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▲プレハブの中は解体・修復中の西塔を見学できるようになっている。南東から西塔を見る。一層目より上が全て解体されてなくなっていた。

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▲西塔の南東角に置かれた、飛鳥の猿石のような石像。

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▲室内にも解体された部材が並べてあった。全て番号札が貼ってあった。

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▲二階にあがって見下ろしてみる。

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▲▼セメントで固めてあった西側部分。崩落した石材でぐちゃぐちゃである。

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▲石塔の西半分は、このような方形2段の石築壁で囲われている。西半分だけこうなっているのが不自然に見える。石築壁の内側には、ぎっしりと崩落した石材が詰まっているが、いつの頃か後代に補強のために追加されたものだろうか。

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▲▼西塔前の幢竿支柱。千年以上倒れずに韓国のあちこちの古寺に残っている。土台も構造もよほどしっかりしているのだろう。

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▲幢竿が差し込まれる穴が見える。

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▲幢竿を左右から支えるための構造物が入っていたと思われる長方形の穴。

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▲▼展示館も中々面白かった。推定復元模型。

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▲20世紀初頭の写真か。幢竿支柱と崩落寸前の西塔が耕作地の中にポツンと残っている。

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▲▼発掘された遺物が展示されているが、下駄そっくりな履物を発見!

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▲実際に履いて使われた摺れが残っている。発掘例は少ないとのこと。解説にも日本の下駄と似ていて両国の文化交流を表していると書いてあった。

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▲▼東院僧房跡から出土した雉尾。屋根瓦の先端に付けられる鯱のようなもので、古寺跡から何例か出土している。高さ99cm。

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▲セメントで補強された状態の模型。東面。

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▲東南面。西半分の石壁二段はやはり後代に付け加えられたように見える。

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▲南面。

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▲南西面。

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▲西面

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▲北西面

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▲北面

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