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2007年11月17日 (土)

泡川 半月山城 (반월산성)

ソウルから北に50kmほどの京畿道泡川市に残る、半月山城を訪ねる。地下鉄1号線議政府駅からバスで50分程北上した泡川市中心街から、川を挟んですぐ東側、青城山(283m)の頂上にある。 外周1,080mの石築山城だ。

李朝初期に修築した記録があり、言い伝えでは後高句麗の弓裔が築いたとのことだが、1995年から2001年まで6回に及んだ発掘調査の結果、それより遥かに古い城であることが確認された。発掘された遺物中、最も古いものは4世紀後半、漢城時代の百済土器である。長卵形土器などが出ている。続いて高句麗系の土器、新羅、統一新羅、高麗、李朝と、ほぼ全ての時代の遺物が次々に発掘された。そのうち、第1回の発掘で発見された銘文瓦が特に注目を集めている。「馬忽受蟹空口単」と書かれており、これは三国史記にある高句麗の地名、馬忽郡のことと考えられ、泡川が馬忽の地であることの裏付けになると考えられている。“受蟹空口単“は、馬忽の中の地名であろうとのこと(チェ・ビョンシク「最近発掘された百済遺跡(2007年)」)。

三国時代の山城としては大きい方で、周囲1,080mである。稜線に沿って細長く伸びた形状から半月城と呼ばれている。 眺望が四方に開けて天気が良ければ中々の景観だったろうが、残念ながらぐずついた曇り空だった。 近所の住民のハイキングコースになっているようで、朝から散歩する人たちが多かった。

現在残る城壁が何時の時代のものなのかは意見が分かれるようだ。懸門式の城門や、城壁基底部の補築などは新羅の山城に多く見られる特徴だが、百済土器はこの懸門式の城門の基底部から出ていたりして、どこからどこまでが何時の物か確定するのはかなり難しいだろうと思われる。

城壁は発掘調査後、かなりの部分が復元されていてあまり古城の面影を感じさせない。東側城壁の大半は失われていて、城の外周の全てを辿ることが出来なかった。

京畿道北部には高句麗の痕跡を残す遺跡が多く残っているが、規模としてはおそらくここが最大であろう。この城が百済から李朝時代まで継続して1,500年間も活用され続けたことから見ると、かつてこの地が南北の交通の要衝としていかに栄えたであろうかが想像できる。しかし北への交通が途絶え、単なる北辺の地に成り果てた今の泡川にはその面影も無く、寂れた地方都市の一つである。

2007年2月3日踏査

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▲泡川市バスターミナル付近から見た青城山。朝8:30、冬の朝日が顔を出すところ。

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▲市街の東側を南北に流れる泡川川を渡る。凍っていた。

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▲青城山の南側麓は戦没者記念公園になっており、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦死者を顕彰する碑や塔が立っている。

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▲▼李朝時代にこの地方で作られた善政碑がここに集めてある。

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▲公園の右手を上がっていくとこの鐘楼がある。

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▲鐘楼から北側に見える半月山城。ここからまっすぐ登って行く。

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▲ほんの10分も登って行くと、城壁が目に入ってくる。

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▲▼四角く城壁を突出させた、西雉城である。

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▲基底部に数段残った城壁の上に雉城を復元している。

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▲雉城の右脇から城内に入る。入って右奥に復元された城門があった。

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▲南門。門楼の礎石が残っている。

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▲石段の階段になっている。

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▲南門を入ってすぐ右手が小高い平地になっていて、ヘリポートがある。この辺りに建物跡が見付かっている。

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▲西側に泡川市街地が見渡せる。

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▲ヘリポートを後にして進むと、南門と同じような大きさの北門に行き当たる。

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▲門柱礎石が残る。

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▲門から外に出て見る。凹字型の懸門式である。

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▲大部分がこのような片築式の城壁である。斜面をL字型に掘削して、そこに城壁を築く方式。

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▲一部は城壁の内外両側に壁を築く、挟築になっている。

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▲北門を過ぎ、城壁に沿って進んで行く。

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▲大きくU字型に湾曲したように見える部分。左手前は復元された雉城の上端部。

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▲下から見た北側の雉城。

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▲雉城とU字型の湾曲部を過ぎて、甕城のように突き出た曲城の下を見下ろすと、補築城壁が見えた。

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▲このように基底部を補強する城壁がきれいに復元されている。

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▲この補築のある城壁区間の辺りで、復元城壁が途切れる。

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▲復元城壁が途切れた後は、このよな崩れた石塁が少し続いて、そここから先は城壁の痕跡を辿れなかった。

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▲城門の名残りかどうか道が通っていて、そこに史跡解説板もあった。

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▲史跡403号。泡川市では唯一の国家指定史跡である。

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▲元の道を戻り、北門から城外に出て、外からもう一度城壁を見る。

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▲最初に見た西雉城を側面から見る。雉城は城壁を登ろうとする敵を側面から攻撃するための突出部である。弓矢か投石器等の、飛び道具の射程内に配置したはずである。

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▲下山して泡川川を渡り、市街地のバス亭に向かう。

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