雪城山城(설성산성)~漢城百済の痕跡-6
雪城山は、標高290.4mのなだらかな山。山城は、頂上と隣の峰との間の谷を、石の城壁で約1kmに渉って囲んでおり、包谷式山城と分類されている。
1999年から始まった本格的な発掘調査が今も進行中である。3次調査までの2003年の調査報告書がネットで公開されていて、これが中々面白い。あくまでも途中経過の報告で今後の発掘調査完了まで結果は出せないと断りつつも、以下のような見解が述べられている。
1.発掘調査結果、最初に土城があって後から石城に改築した形跡は認められない。
2.城壁基底部から出土する土器は4~5世紀の百済様式である。
3.新羅の土器は9世紀のものが中心で、8世紀のものが出ていない。
4.現時点で出土した土器の量はは百済式のものが大多数である。
4~5世紀というと、百済が最初の都を漢城(今のソウル)に構えた時代である。その頃の百済の城といえば版築土塁や木柵による土城ばかりで、石城はまだなかったのでは、と言われて来たが、この雪城山城の発掘調査によって書き換えられていくかもしれない。
近くの雪峰山城も、雪城山城と似ている点が多いとのことで、そちらの調査結果も見直すべきだとの話しが出ているらしい。
全7回の計画になっている今後の発掘調査結果が楽しみである。
2007年2月24日踏査
▲東ソウルバスターミナルからジャンホウォン(장호원)行きバスに乗って約1時間。テピョン(태평)ターミナルで降りる。ターミナルからタクシーでジャンホウォン方面に向かい、15分ほどでこの案内板が見える。ここから右に入って2.5km。城門まで車で行ける。
▲城内へ通じる道路の為に切開された東城壁断面。内部までぎっしり石が詰められている挟築構造。
▲▼これも東城壁の残存部。少しずつ後ろにずらしながら積み上げている。
▲東城壁全体を俯瞰。道路を通した辺りは、大量の石塁が散乱していた。
▲東壁を北に向かって登りきると、平坦地に出る。下にお寺の屋根が見える。
▲城壁に沿って西側に回りこむと、城址保護と書いた大きな看板。ずいぶん古びていたが何時からあるのだろう。ちょっとほかでは見たことがない。
▲▼城壁の内側は、数段だけ石積が残っているところが多い。途切れるあたりにビニールがかぶせてあり、そこが西門址である。
▲外から見た西門。雑草が多くて見づらいが、凹字型の懸門である。はしごなどを掛けないと入れないような高さに門を設けている。
▲▼この西門右下に、水門が開いている。城内の排水路からつながっている。地表面は発掘後に埋め戻してある。本来の城壁基底部はもっと下である。
▲城内側の城壁。4段が露出している。古代山城の城壁上部はたいていの場合崩れて残っていないので、城壁の最上部がどういう仕上げになっていたかが分からない。
▲城内中央部から見た南側高台
▲東城壁をパノラマで。
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