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2008年5月12日 (月)

姑母山城(고모산성)~高句麗の南下に対抗か?急成長する5世紀新羅の山城

慶尚北道聞慶市の姑母山城を訪ねる。

聞慶市の観光地図には載っているが、史跡としての指定は受けていない。一方で山城の資料などでは新羅の城として紹介されていて、前から気になっていた城だ。
聞慶市はソウルから高速バスで二時間。そこから市内バスに乗り換えて15分ほどで着いた。バスの運転手から言われた通りに道なりに進んでいくと、すぐに左手に巨大な城壁と城門、それにぽっかりと空いた二つの水門が見えた!山城の一番低い西の谷の部分で、ほとんど平地になっているところだ。

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 この水門の形は、新羅系の山城でよく見られる、上が狭くなっている台形である。城壁の基底部は補助城壁で補強されており、城門は懸門式。石積みは小さく平たく加工した割石を緻密に積み上げている。 いかにも典型的な新羅の古城である!

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城門から中に入ると、重機を使っての発掘調査中であった。しかし、良いところに来た。こぎれいに復元されてテーマパークのようになる前の、ナマの姿を拝むことができた。
城門のすぐ内側では、貯水池跡を掘り返して、調査しているところだった。貯水池内側の石積みが見えた。また、城壁水門を裏側から見ると、石造の集水溝が水門に向かって伸びているのが見えた。2007_0421_090228aa_800

水門横の城壁の城内側が土に埋没しているのを、一部基底部まで掘り返していた。この下半分の3mくらいはありそうな城壁は、横の水門の高さよりも低い位置にある。最初から埋め殺しにしてあったのだろうか。埋没していたせいで石積みが綺麗に残っていた。この西門城壁の基底部からの高さは7~8mはあるかもしれない。

城内を城壁に沿って一周した。全長1.3km。谷を囲む包谷式山城だ。街道沿いから見える南西の城壁から南門までは、観光用にピカピカの新品に再現されていたが、他の半分以上の城壁は崩れた石塁の状態だった。南東城壁の頂部に石垣をセメントで固めて補強した塹壕跡らしきものが見られたが、2007_0421_093306aa_800_2 解説版によれば朝鮮戦争のときにも、ここは交通の要衝として重要な戦略拠点だったと書いてあるので、韓国軍がここに要塞を構えていたのだろう。

この山城には、16世紀末、文禄の役の時の記録も残っている。日本軍がその地勢と城郭を恐れて何度も偵察した挙句、もぬけの空であったことを確認して、喜んで歌を歌いながらこの要所を通過したとのことだ。
姑母山城の南門に向かって麓から一直線に延びる、翼城と呼ばれる補助城郭が復元されている。2007_0421_105019aa_800 全長401m。文禄の役で日本軍に素通りされてしまった後、街道沿いの南側の防御を固める為に1596年に作られたものを復元したものである。

さて、姑母山城を訪れてから二ヵ月後にプレスリリースがあった。発掘調査中の西門で大型の地下木槨庫を発見。12.3m(南北方向)×6.6~6.9m、高さは4.5m。同時に出土した木製品や土器から、5世紀の新羅のものと確定したとのこと。このような木製の地下貯蔵庫は、百済では数例があったが、新羅のものとしては初めての出土例。

この城は、小さく平たい割石を緻密に高く積み上げる様式や、基壇補築、懸門、水門の形状、包谷式で城門がほとんど平地に近い低地に作られている立地など、忠清北道報恩の三年山城と規模を除けばそっくりである。三年山城は470年の築城だが、この城も同じ頃に作られたのであろう。三年山城は百済との国境に、そしてこの姑母山城は高句麗との国境近くである。三国時代、最も後進で弱小だった新羅が徐々に実力を付けて、その国力を高句麗や百済に示威するために、このような城郭が必要だったのであろう。

高句麗は5世紀、広開土王、長寿王の頃に半島をどんどん南下してくる。475年には漢城百済を一時滅ぼして、漢江流域を獲得。百済は急遽南に遷都して公州で再興を図るが、高句麗の南下は止まらない。公州に迫るかのように、忠清北道清原郡や大田市の山城には、高句麗軍がかなりの期間駐屯した痕跡が残っている。

新羅が三年山城や姑母山城のような本格的な石築山城を国境地点に築いたのは、このような緊迫した時期である。何となく訪ねた姑母山城だったが、思いの外、重要で興味深い遺跡だった。

2007年4月21日踏査

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▲道路から入った奥に西門が見える。

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▲いきなり台形の二連水門が目に飛び込んできて驚かされた!

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▲フェンスに解説の書かれた幕がかけられていた。

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▲右端が城門。

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▲下の方は、基壇補築で補強しているのがはっきり分かる。

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▲西門

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▲斜め横から見ると、基壇補築の厚みが分かる。右側の水門は表面がかなり崩れている。発掘調査で発見されるまでは埋もれていたようだ。

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▲西門を近くから。門の高さまで地表面が盛り上がっているように見えるが、これは堆積土で、本来の基底部はずっと下のはず。

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▲城門右脇の城壁面。版石を緻密に積み上げている。

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▲城内から見た西門

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▲城内の取水口も同じ台形。集水溝の石列が掘り出されたが、取水口の底面より低い位置に石列が繋がっている。妙な構造である。写真は撮れなかったが、この左側の壁面を基底部まで数m掘り下げ、城壁基底部を剥き出しにしてあった。一旦、城壁を積み上げた後、下半分ほどの数mをこの取水口の底面あたりまで埋め戻したのかも知れない。

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▲解説板は何箇所かに立っているが、この西門脇のものが一番古そう。朝鮮戦争の時にも拠点として使われたと書かれている。

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▲南側に城壁を登って行って、上から西門を見る。上半分以上が崩れているのが分かる。基壇補築の底部から、城壁最上部まで、当初は10mくらいはあったのかも知れない。

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▲街道から見えるところの城壁が復元されている。南門まで続く。

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▲陸路・水路の両方を監視できる。

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▲西城壁から城内を見渡す。

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▲復元された南門を城内から。

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▲城外から見た南門。懸門式で、観光用に階段が設置されている。

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▲南門の開設板。奥行き16m、幅5~5.8m。門楼や建物の痕跡は無く、凹字型の城壁そのままの状態だったようである。

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▲城門左横の雉城。城門に近づく敵を側面から攻撃する為の突出部。

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▲南門を東側から。復元城壁以外は崩れて斜面になっている。

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▲南城壁から東城壁に回りこむところには、半円形の曲城が飛び出している。左斜め前から見た南城壁との接続部分。

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▲右側面から見た曲城。

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▲東城壁との接続部

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▲上に登って近くで見てみる。

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▲この曲城にも基壇補築が見られた。

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▲曲城左側の補築と南城壁との接続部。

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▲東から南城壁を見る。城門横に飛び出した雉城や、李朝時代に付け足された翼城が麓まで連なるのが分かる。

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▲東門だが、元はどういう構造だったのか、分からない。重機の進入路として使っていて、発掘はまだしていないかも知れない。

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▲崩れて石塁になっている東城壁に沿って、山頂まで登っていく。手前に東門、奥に南門が見える。

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▲山頂付近に石塁が固まっているところがある。北門跡だろうか?

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▲この北の山頂からも眺望が良かった。2007_0421_095651aa_800

▲韓国軍の塹壕跡がここにもあった。

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▲北城壁も石塁状態だが、一部、このように城内側に残存城壁面が見られた。

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▲北城壁の上から。

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▲西城壁は、西門に向かって下り坂の部分。残存城壁が一番少なく見えた。埋没しているだけかもしれないが。

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▲下まで降りていくと、西門内の発掘現場が見えた。

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▲木隔庫が出たのは、この辺りをさらに掘り下げて行った後だと思う。

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▲▼西門城内側。

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▲集水溝が見える。

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▲南門に戻って、翼城伝いに降りてみる。

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▲南門左横の雉城まで一直線に伸びている。

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▲▼翼城の城門

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▲姑母山城解説板の地図。三箇所ある⑪は、古墳群。ただしほとんど封土が失われているのでぱっと見には古墳があるとは分からない。

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▲街道から見た姑母山城。

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