臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4
臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)は瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。
▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。
続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。
旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。
最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。
朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。
▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。
これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。
この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。
2007年6月16日踏査
▲隱垈里城は、上写真のような東西に長い二等辺三角形状の断崖上にある。南側断崖の高さは50~60m、北側は15~20m。東西400m、南北130m、城の外周は約1km。
▲城壁の内側で、排水溝と考えられる遺構が発掘された。幅約2m、長さ30m、深さ30cm程度。低地の北側に排水するようになっていたらしい。この溝から土器片が大量に収集された。高句麗だけでなく百済の土器も出ている。
▲城壁前には柵が設けられている。
▲柵が破れているところから入って登ってみた。城壁の上から見晴らした城外側。この城壁が外城にあたるのか、内城なのかよくわからない。内城とすると、遠くに見えている木立のあたりが外城だったかもしれない。
▲城壁の上から城内側を見下ろす。
▲城壁の上には、石材がまばらに散在している。
▲隱垈里城の城壁を城外側から。
▲全谷里先史遺跡解説板。
▲土城の土塁は、このような一直線の森になっている。
▲土塁の切れ目。
▲全谷里土城の簡単な開設板が立っていた。この直線に近い土塁以外の城壁跡がどこなのか分からないが、外周約2kmとのこと。そうだとすると、この辺りの城址の中では最大規模となる。城内から黒色の高句麗土器が出土したとのこと。
▲城内から見た城壁。
▲城壁の上は散策路が設けられている。城壁上から見た先史遺跡公園。
▲先史遺跡公園内には、等身大の原始人や動物達の像があちこちに。
▲展示館の中には、旧石器の発掘現場が保存されている。
▲哨城里土城内にある朝鮮戦争の記念碑。これは国連軍の参戦記念碑で、出兵した国の国旗が掲げられている。
▲38度線突破記念碑。1951年5月28日、米、ギリシャ、タイの混成部隊が三度目の38度線突破に成功したことの記念と、犠牲になった将兵達を顕彰する為の碑である。
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