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2008年6月29日 (日)

幸州山城(행주산성)~文禄の役の古戦場は、三国時代からの古城址

幸州山城はソウルの西隣、京畿道高陽市の、昌陵川が漢江に交わる河口部に小高く盛り上がった徳陽山(標高124.8m)山頂にある。このように支流が本流に交わる部分の丘陵地形は、少なくとも二方面を天然の堀で守られた要害であり、同時に水上交通の要衝でもあるから、三国時代からずっと重要な戦略地点となってきた。

1593年文禄の役では、権慄将軍が籠城したこの山城を、総大将宇喜多秀家、副将石田三成、吉川広家らが率いる三万の軍勢が攻めたが、落とすことができず退却した。韓国では文禄慶長の役での朝鮮側の三大勝利の一つとされ、映画やドラマなどでも大変有名な古戦場である。

しかしこの山城はそのはるか以前からあった古城である。三国時代の土器片が見つかっており、発掘の結果、統一新羅時代の城門跡も確認されている。しかし、文禄の役以前の文献の記録は無く、初築が何時であるのかははっきりしていない。近くの虎巖山城と共通した土器片が多く出ていることから見て、統一新羅初期に羅唐戦争に備えて初築、もしくは整備・再活用された城址ではないかと考えられているようだ。

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▲漢江流域の統一新羅時代の古城址を、幸州山城を中心に赤丸でマークしてみた。右のほうに青丸で印をつけたところは、漢城百済の王城があったと推定される地域。その下の南漢山城が統一新羅時代のこの地域の中心的山城であったと思われる。黄色で囲った範囲は李朝時代のソウル城郭であり、現在のソウル中心部でもある。

映画などでは、立派な石築の城郭が出てきたりするそうだが、この城は土城である。頂上を囲んだ小規模な鉢巻式山城と、その外郭を大きく囲む包谷式山城が組み合わさった二重構造で、外周約1kmとのこと。しかし現状では、1990年代に入ってから復元整備された西門跡を含む版築土塁420m以外には、城壁跡を辿って確認することはできなかった。
山頂付近の散策路では、色々な模様の土器片がごろごろ転がっていた。
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▲復元整備された版築土塁による城壁。発掘調査で、基底部に二段の石列が並べられているのが確認されている。日本の古代山城の土塁の基礎にも類似したものがみられる。土塁の基礎石列にはいくつかの種類があるようだが、やはり元祖は朝鮮半島の古代山城であろう。

2007年7月6日踏査

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▲幸州山城案内図。図の右側が南で、漢江に面している。

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▲幸州山城解説板。

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▲この案内図の左側のラインが土塁城壁の復元整備区間。

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▲権慄将軍の銅像。後ろには戦闘シーンのレリーフが。

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▲1593年2月。官軍、義兵、僧兵、婦女子と全てが篭城して総力戦となった。この絵は日本兵と戦う僧兵。日本軍は、直前にこの近くの碧蹄館の戦いで大勝した後でもあり、その余勢をかって一気に力攻めで落城させようとしたようだが、やはり山城を落とすのは容易ではなかったようだ。

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▲投石用の石を運ぶ女性の図。戦闘要員だけでなく、住民まるごと避難した点が朝鮮の山城の特徴の一つとされる。女性はこのような形で戦闘に加わったのだろう。女性にまつわる山城の伝説も多いが、幸州(ヘンジュ)山城の名前は、この絵にみられるように女性がエプロン(朝鮮語でヘンジュ・チマ)で石を運んだことに由来するとの説がある。また逆にこの城の名前からエプロンをヘンジュ・チマと呼ぶようになったとも言うが、当時この城が何と呼ばれたのか手元に資料が無いので分からない。

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▲舗装された散策路の途中から、土城コースが左に分かれる。この道を進むと城門址や土塁の方に出ることができる。

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▲▼西門址を正面から。正面に解説板が立つ。

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▲「土城; ここは城の出入口があった門の跡である。学術発掘調査で門址の西壁下に、門を建てるための厚さ50cmほどの統一新羅時代の盛土層が確認された。門の幅は7mほどで、地下で確認された岩盤を削って作った排水路は、山城の自然排水の役割をしていたと見られる」

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▲西門址を側面から。芝が植えてある土塁の切れ目に、舗装路が通っている。ここに城門が構えられていたと考えられる。左側が城内。

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▲土塁は、版築した部分と、自然地形をL字型に掘削しただけの部分とが確認されている。

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▲東側の眺望。霧でかすんでいて遠くまで見えない。漢江支流の昌陵川が見える。

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▲東南方向には工事中の橋と、その後ろに陽川古城址のある丘陵が見える。

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▲頂上には、幸州大捷碑が立つ。右の碑閣に入っているのが李朝時代のオリジナル。大理石に碑文が刻まれているが、磨耗が激しく、肉眼で殆ど読めないほどである。正面の巨大なのはおそらく70年代に立てられたものか。漢江の対岸、遠くからでもよく見える。

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▲頂上には資料館もある。ドアは開けっ放しだが閉館中なのか?電気も付かず管理人もいなかった。

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▲南側の眺望。アーチ状の赤い橋、傍花大橋(Bang-Hwa Dae-gyo)が見える。この橋を南に渡って数kmで金浦空港。

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▲▼土器や瓦片はたくさん落ちている。

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▲▼朝鮮戦争の時の記念碑も立つ。

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▲「海兵隊 幸州渡江 戦捷碑」

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▲1950年9月20日、韓米海兵隊が熾烈な戦闘の末に、幸州ナル(渡し)で漢江渡江作戦に成功し、首都ソウル奪還の橋頭堡を築いたことを記念する碑とのこと。

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コメント

権慄の銅像の写真を探していて、しげ@SEOULさんのホームページを見つけました。もし、よろしければ権慄の銅像の写真を、私どもが編集している本に掲載させていただけませんでしょうか。本は朝鮮の役に関する歴史の本で、来年4月に刊行予定です。突然のお願いですみませんが、ご連絡いただけましたら幸いです。

連絡先を入れ忘れました。shimada@acenter.co.jpです。

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