新昌鶴城山城(신창학성산성)~真の任存城と思ったら・・・
標高183mの低い山の頂上、約500mを石築の城壁で囲んだ山城である。牙山市文化財資料244号に指定されている。
百済復興運動の拠点であった任存城は、先に訪ねた禮山郡の鳳首山城ではなく、鶴城山城であるとの説(徐正錫著「百済의城郭」)を人から教えてもらい、早速見に行ってきた。う~ん、これが百済末の有名な城かぁ。さすがに堅固な城壁だ、などと思って見てきたのだが・・・。
帰宅してから上掲書をちゃんと読み返してみたら、忠清南道洪城郡長谷面とある。禮山郡の鳳首山城にずっと近い。
う~、鶴城山城違いか
しかし勘違いとは言え、これはこれで中々立派な城で見応えがあった。
牙山市は天安市の西隣で、温陽温泉が有名なところ。温陽温泉駅前の観光案内所で地図をもらって、タクシーで20分くらい西に向かったところに鶴城山はあった。今は木が鬱蒼と茂っているが、タクシーの運転手さんが子供の頃、40~50年前にはほとんど木は無く、麓から城壁がよく見えたという。
登山道を20分も登ると、もう山頂である。整備工事中だから云々・・・と観光案内所で聞いていたが、ゲッ!作りたての真っ白な城壁が完成しつつある状態だ!
高さは6mというが、もっと高く見えた。長方形の切石が僅かな傾斜を付けて緻密に積み上げられている。城壁のあちこちから木がニョキッと突き出して伸びているがびくともしないようである。
しかし、盗賊の難を避けるため、と言うには立派過ぎる城壁だと思った。
いつのものだろうか。
▲▼バス停近くの歩道橋の上から。新昌鶴城の案内表示が右側に見える。
▲路地を入って、さらに案内に沿って進む。前方の山が鶴城山だろう。
▲途中で黒ヤギの飼育場を通る。じっと見つめられてちょっと怖いが、これは値段はちょっと張るが、実はかなり美味いのだ。
▲登山道に沿って、裏から回り込むように登っていく。
▲稜線まで来ると、真新しい表示板が立っていた。頂上(鶴城)まで100m。
▲頂上が見えてきた。石積が少し覗き見える。
▲稜線に突き出した突出部のように見える。右側が工事作業中のようで、気になる。
▲復元工事中だ。観光案内所で整備工事中とかなんとか言ってたのはこれだったのか、とがっくり。基壇石をまず並べて、工事ラインを確定し、そこから積み上げていく段取りのようである。なんとなく日本の古代山城の土塁の基礎石列も、こんな風に、工区を確定するくらいの意味だったんじゃないかという気がする。
▲ここから先は整然と並べられたピカピカの白い城壁が数10m続いていた。面白くも何とも無い。
▲南東の城壁切れ目とカーブする部分。城門の跡かな??
▲城壁の切れ目から外に出てみると、解説版が。
▲▼牙山市文化財資料 第244号
▲南から南西にかけての城壁。最初の方は復元部分が多い。
▲よくみると、下のほうは古い城壁が残っている。
▲基底部は、少しずつ後ろにずらしながら積んでいるところもある。高句麗から統一新羅に引き継がれた様式だろうか。
▲途中から、復元城壁無しの、全体が元の城壁の区間になる。
▲城壁のあちこちから木がニョキニョキ生えているが、そこから城壁がくずれそうな気配も無い。
▲一部に、石材を鍵型に加工して合わせている部分もある。
▲表面の面石が崩落して中の石材がむき出しになっている部分。
▲内部にもぎっしり石材が詰まっているが、形状はそれほど整えられていない。
▲一瞬、排水口かと思ったが、ちょっと違うようだ。
▲▼西側の残存城壁区間が途切れる辺り。
▲城内に上がり、来た道に沿って戻り始める。城壁は全て片側だけを壁面にする片築だ。城壁の最上部が、城内の地表面になる。
▲▼この、少し湾曲した南城壁あたりが谷のようになっていて、見晴らしが良かった。
▲このあたりに望楼などの建物が立っていたかもしれない。
▲いろいろ秋の花が咲いていた。
▲▼色も模様も様々な瓦片や土器片。何世代にも渡って活用された山城だろうとのこと。










































残っているほうの石垣の傾斜がすごい急なんですね。礎石の処理が面白い!!
きっと崩れていない個所は、職人や親方、元請が共通しているんだろうなと思いました。何しろわたしは毎日、現代の建造物の中で同じことを考えているもので(笑)
投稿: 라지파파 | 2008年10月13日 (月) 20時40分
この城が何時誰によって作られたのか分からないのですが、たとえば新羅の山城では、どこからどこまでの工区を誰に割り振ったかを明記した石碑がいくつか見つかっています。山城ひとつ作ると言ったら、これはやはり大工事でしょうから、いくつかの集団に分業してやらせていたのでしょう。なので、仰るとおり、築城に秀でた集団が受け持った部分が残りが良い、ということはあるかもしれないですね。
投稿: しげ@SEOUL | 2008年10月13日 (月) 21時19分
紙じゃなくて石碑、というのは後世に親切ですね(笑)
でもやっぱりわざわざ石に刻みこんだのは、それだけ戦乱の繰り返しだったからですかね。
投稿: 라지파파 | 2008年10月15日 (水) 19時13分
紙とか木簡にも記録したけど残存してないということもあるかもしれないですね。しかし、石碑に刻んで残すくらいですから、それだけ責任の所在を明確にさせておかないとならなかったのでしょう。
投稿: しげ@SEOUL | 2008年10月16日 (木) 06時11分