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2008年11月30日 (日)

丹陽 赤城(단양적성)~竹嶺を越えて高句麗領へ・・6C新羅の北進橋頭堡

忠清北道の北東端にある、丹陽郡。南漢江が流れ、小白山脈が通る場所に位置する、美しい観光地である。三国時代の6世紀前半までは、この小白山脈にある竹嶺が高句麗と新羅の境界であった。ここを越えて、北に領土を広げたのが真興王(在位540-576年)。高句麗で言えば広開土王のような王で、三国時代新羅の領土を最大限に広げた。550年頃に竹嶺を越え、半島の東側を北進して今の咸鏡南道にまで至っている。真興王は新たに獲得した領土に石碑を多く残しているので、今でもその足跡を確認することができる。

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▲当時の高句麗の首都であった平壌よりずっと北にまで新羅が侵攻していたことが、黄草嶺碑や磨雲嶺碑の存在で確認できる。この二つの碑を見るには北朝鮮に行かないとならない・・・。

さて、ここ丹陽に残る新羅の古城「赤城」では、1978年に真興王の頃の石碑が見付かった。国宝198号、赤城碑である。

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実物は今もこの山城に置いてあって、ここまで行かないと見られない。
どんなものだろうと、近付いて見ると、驚いたことに、上部が欠けてはいるが、表面は新品のようにピカピカ、碑文もくっきりとあざやかに見える!とても1500年前の碑文とは思えない。発見された時は、土の中に埋まっていて30cmほど外に露出していたのだそうだ。

碑文の内容は、一部が欠けている為にわからない部分もあるが、新羅に協力した赤城の高句麗遺民を顕彰し、法的に優遇することを示した内容らしい。碑文中、「國法」「赤城烟法」「赤城佃舎法」の三語が注目される。三国時代の法制については詳細が分かるものが残っていないが、「國法」と共に、占領地に特別に適用されたであろう「赤城烟法」「赤城佃舎法」 が存在したことを窺わせる。また、碑文に出てくるいくつかの人名中「武力」は、金庾信の祖父である金官伽耶国の武力に比定されている。

山城は、標高323mの山頂に外周900mで築いた石築の包谷式。竹嶺を越えて竹嶺川が南漢江に合流する地点の山上に築かれている。馬鞍型と呼ばれる、両端が高く中心部が谷になっている形状。城壁はほとんど崩れていたのをかなり復元して作ってある。元の城壁の石積み城壁はほんの一部だけしか残っていない。小さな割石を緻密に積み上げ、外壁基底部には補築の痕跡が残っており、新羅の古城の典型に見える。

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この城は、中央高速道路下りの丹陽休憩所の真後ろに位置する。全国でも唯一、なんと休憩所から直接行って見て来ることができる山城。車でこの方面に行く人は、是非お立ち寄りあれ。公共の交通機関だと、丹陽のバスターミナルからタクシーで20分程。

2007年11月4日踏査

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▲Google earthで見た赤城。画面中央上、ゾウリムシみたいな形の楕円形が城壁ライン。中央高速道路の休憩所が下に見える。

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▲休憩所側から見た南側の城壁。写真がちょっと傾いてしまったが本当は水平

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▲向かって右奥の曲折部の城壁。北門の切れ目が見える。

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▲正面の城壁を観察すると、下の方に石積みが復元されているが、その上に数mの崩れた城壁が石塁になっている。基壇補築部分のみ復元したのか、予算上一部だけの復元で止まってしまったのか、なんだかよく分からない整備状態。解説板にも何も書かれていなかった。

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▲この南城壁の大半は復元だが、中央あたりに僅かに元の城壁らしき黒い石積みが残る。

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▲正面左側から城内に上がれるように通路が作ってある。元々あった登城路かどうかは分からない。

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▲南漢江を見下ろす。高速道路が通る橋が見える。

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▲どちらを見ても良い景色。

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▲散策路に沿って進めば、赤城碑にたどり着く。

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▲このような碑閣を作って保護している。

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▲土中に埋もれていた為、欠損部分以外は綺麗に文字を判読できる。

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▲出だしの部分。最初の数文字が欠けており、残存部は「月中王教事大衆・・・」から始まっている。頭の欠けた部分はX年X月とだろうとのこと。

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▲南城壁から見下ろした高速道路休憩所

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▲復元城壁に沿って登っていく。北城門近く。

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▲復元城門が見えてくる。城門手前右側が柵で囲ってある。

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▲投石用の投弾が集められていた。韓国の古代山城では、新羅、百済どちらの城跡からもまとめて出てくる。丸い河原石である。わざわざ下流から集めて蓄積しておいたものだ。

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▲握りこぶし大のものが多い。投石器を使ったのか直接投げたのか分からない。どれも丸い河原石である。手に持ってみると、ずっしりと重い。山城の城壁を登ってくる相手に投げ下ろせば、武器として十分な効果が期待できそうだ。何故か、日本の古代山城からは発見されたことが無い。戦闘方法が違ったのだろうか???

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▲▼城門内側には門柱礎石が残るが、初築時のものではなく、後代のものかも。

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▲城門上に上ってみた。

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▲▼城門上からの景色も素晴らしい。

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▲復元北城門を後にして、▼反対側の北城壁に向かう。

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▲復元城壁が途切れて山道になる。

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▲北側は城壁がほとんど残っておらず、ところどころに石材が散乱しているのが見られる。

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▲城壁跡の斜面に石材が僅かに露出している。

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▲▼北城壁で、一箇所だけ壁面が残っているところを見つけた。

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▲後は大体こんな感じ。遊歩道はこの壁面跡の上。

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コメント

碑文きれいに残ってますねー。
高札みたいなおふれのようですが、高札場がこんな山城にあるってのが日本ではまず考えられないですよね。民衆が納税やなんかのため普段からここまで登って来てたってことなんですかね?

今更気づいたんですが、元の石垣の写真は垣を構成する石の側面がよく見えますね。
横から見た形状はどうなっているか知りたかったんですが、荒れた山城はしっかり残っている遺跡よりもより石垣がつかめる感じですね。

新羅の石碑は1970年代以降もポツリ、ポツリと新発見が続いてますが、どういう層の人達にどういう意図で見せる積りだったのか、という点が気になるところです。

古代に漢字が読める層というのは限られてたでしょうから、みんなが見て分かるものではなかったでしょう。音読して伝達する役割の人なんかが、いたかもしれないとも言われてます。

まずは記念碑として、象徴的な存在だったのではないかなと思います。他にも、山のてっぺんに据え付けたりとかもしてますので。

あと、山城の倉庫に穀物を納める人達は漢字が読めない一般人だったかと思いますが、そういう民衆の目に、漢字がびっしり書かれた、こんな石碑はどう映ったんでしょうかね。やっぱり不気味で怖かったんじゃないだろうか、なんて想像してしまいます・・・。
意図的に呪術的な一面があったりしないかな、とか、石碑ひとつでいろいろ妄想して楽しかったりします

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