関門城(관문성)~日本の侵攻に備えた8世紀新羅の長城
この関門城は、統一新羅初期の722年に日本の侵略に備えて築いた長城である。都である金城の南方20kmほどの地点に、東西12kmほどの城壁が所々残っている。新羅が築いた長城の内、今簡単に訪ねることができるのはここだけだ。

方向音痴のくせにあまり下調べをしないでフラッと出かけてしまうので、幾度かこういう目に会っている

722年というと日本はもう奈良時代。663年に白村江で新羅・唐に大敗してから60年ちかい。ちょうど太平洋戦争に負けた後の現代と同じくらい戦争の記憶が遠くなっていた頃だろう。学校で習った奈良時代の印象も、何となく平和な時代という感じだ。どうしてそんな頃に新羅は対日防衛の為に12kmもの長城を?と思ったが、ちょっと調べて見ると、とんでもない。
▲仏国寺駅。ここで下車し、すぐ目の前の国道に出て毛火里行きのバスに乗った。関門城は最近の観光地図にも載っているが、バスの運転手も、地元の乗客たちも誰も知らなかった。
▲国道7号の城壁の切れ目には、解説版が立っている。
▲解説板では新垈里城と長城を合わせて一つとしているが、身をもって確認した通り(?)二つの城はつながっておらず、別物である。ただし築城技術の共通性から、同じ頃に作られたのではないかとも言われている。
▲▼復元された城壁。切石で組まれた城壁の上に、割り石が二列に積み上げられている。妙な形だ。整然とした切石の部分は統一新羅時代、その上は後代に野面積みのような形で補修してあったのを、そういう様式と勘違いして復元したものだろうか?
▲国道の西側にも城壁が続いている筈だが、鬱蒼とした小山しか見えず。こちら方面はパスして、国道から東側に向かって城壁を辿ることにした。
▲復元城壁区間がしばらく続く。
▲城内側は区間によって、城壁の高さに近いくらいに土が盛られている。もともとの地形かもしれない。
▲国道から歩き始めて線路まで来た。さらに線路を越えて、向こうの山に向かって進む。
▲線路の向こうにも復元城壁が続く。
▲▼基底部の石積み。階段状に後ろにずらしながら積まれている。
▲途中から復元城壁が無くなり、城壁の外側に沿って辿っていった。この辺りは、川沿いの小丘陵をそのまま城壁にしたような区間。
▲ほんの一部に石積みが残っていた。
▲城壁内側に毛火寺というのがあり、入り口は城壁跡を貫通している。
▲▼石積み跡はところどころに残る。
▲登山口。山に向かって進む。
▲▼こんな山道を進んで山頂近くまで行ったが、行き止まり。
▲何時間も山道をさ迷い歩いた末に、下山。
▲せっかく遠くまで来たので慶州国立博物館を見て帰ることにした。
▲高仙寺址石塔。元あった場所がダムに水没する際に博物館に移転したそうだ。
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コメント
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奈良時代と身近な二次大戦後の感覚の比較は面白いですねー!(*^ー゚)b
ああー、高校生の時選択した世界史の授業に、今なら打ち込めそうです(笑)当時はぜんぜん覚えられなかったですけど。
日本列島には、古来から朝鮮半島各王朝より政変などの度に流入があったようですが、「こないだ日本に逃げて行った奴らが、もしあっちの日本人たち引き連れて仕返しに来たら脅威だなあ」とか思ったんですかね。想像は尽きないです。
投稿: 라지파파 | 2008年12月 9日 (火) 20時04分
関門城を訪ねたのがきっかけで、奈良時代が違った姿に見えてきて、おもしろくなってきました。
新羅と日本って、7世紀末に一時的に友好関係になったこともありますが、史書に見える姿としては、全体として敵対関係に見えます。
新羅にとって、日本の存在がどれくらい本気で脅威だったのか?興味は尽きないです。
8世紀の新羅と日本の軍事体制、軍事力の比較を一度してみたいと思ってます。
投稿: しげ@SEOUL | 2008年12月 9日 (火) 21時24分