カテゴリー「忠清道の史跡」の20件の記事

2008年12月25日 (木)

陰城 水精山城(수정산성)~三箇所の水口が復元された謎の城壁(?)

忠清北道陰城郡の水精山城を訪ねる。

韓国文化財庁のホームページで見た写真に、類例の少ない城壁外面の垂直溝のような微妙なものを見て、実物を確認してみようと思った。
標高396mの水精山の頂上に築いた石築の鉢巻式山城。外周は577mで、西側城壁の残存状態が良く、出土遺物から8~9世紀の統一新羅時代の城だろうとのことである。

陰城までは、東ソウル・バスターミナルから30分毎に直行バスが出ている。ソウルから1時間40分。水精山はバスターミナルのある中心街から東に2kmくらいのところにあって、地元の人たちの散歩コースのようで、場所はすぐに分かる。

行ってみてちょっとがっかりしたのは、西城壁がきれいに復元されていたこと。陰城郡記念物111号に指定されているが、よくこんな有名でもない城の復元に予算が付いたものだと思った。 この一年、あちこちの山城を回っているが、意外と山城の城壁を整備・復元する自治体が多いようだ。結構安く作れちゃうのかな??

~ネットで見つけたローカル新聞の「忠清毎日」2007年8月28日の記事によれば、陰城郡は水精山城に2002年から試掘調査と城壁補修を行って残存城壁の一次復元工事を完了させたのに続き、2007年に1億5千万ウォンを投入して城門跡の発掘調査を行うとのこと。また、2012年までには城の原型復元、探訪路の整備を行って歴史資料および観光資源として活用する計画とのことである。

しかし結局、見たかった垂直溝のような城壁は見つけられなかった。もしかして復元工事でつぶしちゃったのでは・・・。 最近になって1998年に刊行された水精山城の地表調査報告書(忠州産業大學校博物館刊)を図書館で見つけて残存城壁の写真を見たが、そんな垂直溝のある城壁はやはり無いし、報告書でも指摘されていない。文化財庁HPの写真は他の山城を誤って掲載したのだろうか??

さてこの復元城壁、水口が3個もそれっぽく復元してあった。城内の取水口もちゃんと石築で作ってあって、外まで水路を貫通させてあるようだ。水口は3個が、ほぼ等間隔で15mくらい(?)おきに並んでいる。城壁基底部からの高さはそれぞれ違う。城壁に向かって左端のは肩くらいの高さ、真ん中は2m以上、右端のは真ん中より少し低い。

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▲右端の三つ目の水口と、その下の水受け石(草に埋もれている)

水口の真下には、水受けの石が並べてあり、その延長線上の急斜面には、階段状に石が積んである。これは他では見たことが無い。かなり念入りな水対策だ。 上掲の1998年の地表調査ではこういった排水施設は見付かっていないが、2002年の試掘調査で発見されたものかもしれない。あてずっぽで作ったにしては良く出来過ぎのようだし。
李朝時代の記録では、当時既に廃城となっていた城内に井戸が一つ残っていたとのことだが、現存しない。3つの排水口や念入りな水対策から見て、山頂ながら水が豊富だったのだろうか??

そういえば山の名前も水にちなんでいる。この日はたまたまか、ずっと濃い朝霧がたち込めていて、全山真っ白で視界が狭く、確かに水っぽかったかな?

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2007年11月25日踏査

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2008年11月30日 (日)

丹陽 赤城(단양적성)~竹嶺を越えて高句麗領へ・・6C新羅の北進橋頭堡

忠清北道の北東端にある、丹陽郡。南漢江が流れ、小白山脈が通る場所に位置する、美しい観光地である。三国時代の6世紀前半までは、この小白山脈にある竹嶺が高句麗と新羅の境界であった。ここを越えて、北に領土を広げたのが真興王(在位540-576年)。高句麗で言えば広開土王のような王で、三国時代新羅の領土を最大限に広げた。550年頃に竹嶺を越え、半島の東側を北進して今の咸鏡南道にまで至っている。真興王は新たに獲得した領土に石碑を多く残しているので、今でもその足跡を確認することができる。

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▲当時の高句麗の首都であった平壌よりずっと北にまで新羅が侵攻していたことが、黄草嶺碑や磨雲嶺碑の存在で確認できる。この二つの碑を見るには北朝鮮に行かないとならない・・・。

さて、ここ丹陽に残る新羅の古城「赤城」では、1978年に真興王の頃の石碑が見付かった。国宝198号、赤城碑である。

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実物は今もこの山城に置いてあって、ここまで行かないと見られない。
どんなものだろうと、近付いて見ると、驚いたことに、上部が欠けてはいるが、表面は新品のようにピカピカ、碑文もくっきりとあざやかに見える!とても1500年前の碑文とは思えない。発見された時は、土の中に埋まっていて30cmほど外に露出していたのだそうだ。

碑文の内容は、一部が欠けている為にわからない部分もあるが、新羅に協力した赤城の高句麗遺民を顕彰し、法的に優遇することを示した内容らしい。碑文中、「國法」「赤城烟法」「赤城佃舎法」の三語が注目される。三国時代の法制については詳細が分かるものが残っていないが、「國法」と共に、占領地に特別に適用されたであろう「赤城烟法」「赤城佃舎法」 が存在したことを窺わせる。また、碑文に出てくるいくつかの人名中「武力」は、金庾信の祖父である金官伽耶国の武力に比定されている。

山城は、標高323mの山頂に外周900mで築いた石築の包谷式。竹嶺を越えて竹嶺川が南漢江に合流する地点の山上に築かれている。馬鞍型と呼ばれる、両端が高く中心部が谷になっている形状。城壁はほとんど崩れていたのをかなり復元して作ってある。元の城壁の石積み城壁はほんの一部だけしか残っていない。小さな割石を緻密に積み上げ、外壁基底部には補築の痕跡が残っており、新羅の古城の典型に見える。

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この城は、中央高速道路下りの丹陽休憩所の真後ろに位置する。全国でも唯一、なんと休憩所から直接行って見て来ることができる山城。車でこの方面に行く人は、是非お立ち寄りあれ。公共の交通機関だと、丹陽のバスターミナルからタクシーで20分程。

2007年11月4日踏査

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2008年11月 9日 (日)

月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?

せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。

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最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。

標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。2007_1027_142118aa_800

▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。

門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
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▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。

2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?

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▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。

この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。

他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?

2007年10月27日踏査

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2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年10月13日 (月)

新昌鶴城山城(신창학성산성)~真の任存城と思ったら・・・

忠清南道牙山市 新昌鶴城山城を訪ねる。
標高183mの低い山の頂上、約500mを石築の城壁で囲んだ山城である。牙山市文化財資料244号に指定されている。

百済復興運動の拠点であった任存城は、先に訪ねた禮山郡の鳳首山城ではなく、鶴城山城であるとの説(徐正錫著「百済의城郭」)を人から教えてもらい、早速見に行ってきた。う~ん、これが百済末の有名な城かぁ。さすがに堅固な城壁だ、などと思って見てきたのだが・・・。
しかし勘違い!名前は同じ鶴城山城だけど、場所が全然違ったがまん顔
帰宅してから上掲書をちゃんと読み返してみたら、忠清南道洪城郡長谷面とある。禮山郡の鳳首山城にずっと近い。

う~、鶴城山城違いか泣き顔

しかし勘違いとは言え、これはこれで中々立派な城で見応えがあった。

牙山市は天安市の西隣で、温陽温泉が有名なところ。温陽温泉駅前の観光案内所で地図をもらって、タクシーで20分くらい西に向かったところに鶴城山はあった。今は木が鬱蒼と茂っているが、タクシーの運転手さんが子供の頃、40~50年前にはほとんど木は無く、麓から城壁がよく見えたという。

登山道を20分も登ると、もう山頂である。整備工事中だから云々・・・と観光案内所で聞いていたが、ゲッ!作りたての真っ白な城壁が完成しつつある状態だ!
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元のままに放っておいてくれれば良いものを・・・と思いつつ、元の城壁が残っている筈の南東方向に城壁を回り込んで行くと、あった!古い城壁が数10mも残っていた。それもかなり緻密で堅固な城壁だ。
高さは6mというが、もっと高く見えた。長方形の切石が僅かな傾斜を付けて緻密に積み上げられている。城壁のあちこちから木がニョキッと突き出して伸びているがびくともしないようである。
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土器や瓦片がたくさん落ちていたが、いつの時代の山城なのかはっきりしていない模様。解説板によると、「高麗の初め、盗賊の被害が激しく、収穫した食料をここに保管するために築城した」との言い伝えがあるとのことである。

しかし、盗賊の難を避けるため、と言うには立派過ぎる城壁だと思った。

いつのものだろうか。
2007年10月20日踏査

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2008年10月 5日 (日)

天安 黒城山城(흑성산성)~独立記念館の裏山にも古代山城

忠清南道天安市、独立記念館の裏山にある黒城山城(天安市文化財資料364号)は、黒城山(標高519m)の山頂を石築の城壁で囲んだ古城である。外周570m。李朝時代の記録にあるが、何時作られたものか不明である。城内にあたる山頂には米軍基地と放送塔があって一般人の立ち入りは禁止されている。最近、観光用にか、水原華城を模した城門や城壁が作られており、元の城壁はほとんど崩れてわずかに痕跡が残る程度らしい。

独立記念館の運動場を借りて会社の運動会が開かれたので、すぐ裏山だしと思い、このくらいの事前情報でとにかく行って見た。登山道はいくつもあるらしいが、独立記念館側から見て左側(おそらく西)から迂回するように登る「Bコース」というのを取った。このコースは”入山禁止”と看板に書いてあるのだが、登っても大丈夫とのネット情報を信じて、柵を越えて突入。 山城への案内表示は要所要所にあって、迷わず山頂近くにたどり着く。

山頂からの眺めは、最高の風水の明堂と言われる、独立記念館の敷地を後ろから一望に出来て中々爽快だった。
観光用(?)に作られたぴかぴかの城の、裏側に出た。裏からぐるりと回りこんでみたが、行き止まりのようだった。時間の関係でこの辺で終わりにして、下山しようとすると、来る時には気付かなかった、元の城壁の残存部が目に入った! Panorama2short_1024

観光用の城門は見られなかったが、こちらが本命なので、満足して下山。
思っていたよりもかなり遠く、独立記念館の運動場から往復二時間半近くかかってしまった。

ところで、この独立記念館の建設中に敷地内から発見された古代山城がある。木川土城と呼ばれた平山城だが、発掘調査で土塁の基礎に石列が並べられているのが発見され、日本の古代山城との関連が注目されている。しかし残念ながらこの広大な敷地のどこにあったものか、わからない。文化財の指定も受けていないので、記念館の建設と共に破壊されて残っていないだろうと思う。

天安市の観光地図を見ると、意外に山城がたくさんある。
新幹線(KTX)の駅も出来て、今はかなり大きな地方都市に急成長した天安市だが、このあたりは百済の領域だったところ。百済の土器が出ている山城や遺跡もいくつかあるので、また改めて山城めぐりに来たい場所である。

2007年10月13日踏査

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2008年7月20日 (日)

大興任存城(대흥임존성)~百済復興運動の任存城比定地だったが・・・

忠清南道禮山郡に残る大興任存城を訪ねた。 鳳首山城ともいう。
忠清南道の真ん中辺り、公州市の北西に位置する。
百済が660年に滅んだ後、百済の残党による復興運動の最後の拠点地になったところと言われている。 しかし後で、徐程錫著「百済의城郭」学研文化社2002 をよく読んでみると、この比定にはあまり大した根拠も無いようで、彼が諸文献を詳細に検討し、現地踏査して出した結論によれば、真の任存城は西隣の洪城郡にある鶴城山城とのことである。私としてはこの説に軍配を上げたい。

さて、ソウルからバスで禮山のバスターミナルまで2時間だが、高速の事故渋滞で3時間もかかった。バスターミナルから任存城までは、市内バスで40~50分。バス停留場から任存城まで、山道を休み休みゆっくり登って40分。朝7時のバスでソウルを出発したが、城に着いた時にはお昼前になってしまった。

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鳳首山という標高483mの山の頂上を、2.4kmに渡って石築の城壁で囲んだ、鉢巻式山城である。百済のこのタイプの山城の中では最大規模である。上掲書では、一般的な百済の城に比べ、標高は高いし、規模も大きすぎるとしている。建物跡は20箇所ほども見付かっている。南門と北門跡が残っているとのことだが、北門跡は気付かずに通り過ぎてしまった。南門跡から城内に入ったが、独特な形の門だった。

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幅は2m程しかなく、大人二人が何とか並んで通れる程度だが、奥行きが10mほどもあって細長い。 この細長い門は、稜線からまっすぐ入りやすいところに位置しているが、多くの百済山城では接近が難しいところを選んで城門を設置しており、これも百済らしくない点として上掲書で指摘されている。城内にいくつか残る井戸跡中、一つを見つけた。綺麗な清水が滾々と湧き出ていた。この山、実に水が豊富で、あちこちに細流があってせせらぎを流れる水の音が絶えなかった。 水が豊富な山城らしく、排水口は南西に3箇所発見されているとのことだったが、一つも見つけられなかった。残念。城壁の少し高い位置に開口しているらしい。夏草に埋もれていたかもしれない。全体に、生い茂る雑草で城壁や遺構が覆われていて非常に見にくかった。やはり山城巡りは晩秋から初春までが良いと思った。
文化財庁HPの解説によれば百済の土器や瓦が見つかっているとのことだったが、それ以上の詳しい記載が無く、もしかしたら地表調査程度で、ちゃんとした発掘調査はまだ行われていないのかもしれない。本当はいつ作られた城だったのだろうか・・・。

それにしても、快晴の好天にも係わらず、他に登山客は1人しか出会わなかった。国家史跡90号に指定されて整備されているところなのだが、やはり皆さん、山城には関心無いようです。

2007年9月8日踏査

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2008年4月27日 (日)

清原壤城山城(청원양성산성)~三連水門と古代山城最大規模の円池

忠清北道清原郡文義面の壤城(養性)山城を訪ねる。
ここは近くにダムがあって景観が美しく、ちょっとした観光地になっている。
展望台がある一番高い峰の山頂(378m)にまっすぐ向かう登山客を横目に、その隣り山(292m)にある壤城山城を目指して一人山道を行く。2007_0415_091725aa_800 10数分上り続けながら、どうも途中で道を外れたのではないかという疑念が。途中で道が二股に分かれていたのを、こちらが本道と思って右に進んだのだが、どうも山をぐるりと迂回しつつ、頂上に向かう道を失いつつある。戻って登り直すかどうするか、しばし逡巡したが、沢のようなところから上に上がれそうに見えたので、草木を掻き分け掻き分け進んで見た。何とか行けそうだ。途中で写真のような美しい新緑の森に。2007_0415_091829aa_800 そこからさらに擦り傷だらけになりながら上に上がると、森の木々の間、遠く頂上に探していた山城の城壁がかすかに見えた。それも今回見たかった水門らしき四角い黒い穴がぽっかりと開いているのが木々の狭間からはっきり見えた。 山城を探して道無き道を登りつつ、城壁が見えた瞬間は、いつもちょっとした感動に襲われる。
とげのたくさんある、イバラのような枝を避けつつ、何とか這い上がってその城壁にたどり着く。 2007_0415_092759aa_800 朝鮮の古代山城の特徴の一つは、城壁も、出入り口の城門でさえも、人の接近を阻むような傾斜地を選んでいることが多い点だ。おかげでうまくアプローチしないと文字通り這い上がるような体勢を取らざるを得ない。
お目当ての水門は、最初二つだと思ったが、右端に草に隠れてもう一つあった。三連の排水口だ。こんなのははじめて見た。2007_0415_094529aa_800 また、城壁の基底部をよく見ると、苔むしていて分かりにくかったが、基壇補築と呼ばれる底部補強の為の段状の城壁が積まれているのに気付いた。これは新羅系の山城によく見られる構造だ。2007_0415_093649aa_800

城壁の写真をたっぷり撮って、城内に這い上がると、城壁周辺の整備工事をしているところに出た。工事のおじさんたちから「この下に道無かったろう?、わざと運動の為に上がってきたのか?」と興味深々で話しかけられる。本当は道に迷ったのだが、面倒くさいのでそうそう、体鍛えてるのよ、とごまかす。古代山城が・・・などと話そうものなら、ますます訝しがられるだけである。
この城壁のすぐ上は、城内で一番低い谷状の場所の平坦地になっていて、そこに巨大なクレーターのような貯水池跡を見つけてさらに驚かされた。直径約19mの円形で、外周60mにもなるとのこと。排水溝らしき溝もあった。三連の水門はこの巨大な貯水池の排水のためだろうと納得。後で調べると、韓国の古代山城で発見された円池の中で最大規模とのことだ。 2007_0415_101523aa_800
韓国文化財庁ホームページの解説によると、この城は外周985m、東門跡、南門跡、遮断壁があるとのことだが、残念ながら確認できなかった。城壁もこの水門のあるところ以外に石積みが残る場所は見つけられなかった。円池跡で土器・瓦片が山積みになっているのを見たが、それらを元に三国時代の城と推定されているようである。地表調査は2000年から2001年に掛けて実施されているとのことだが、本格的な発掘調査が期待される。

2007年4月15日踏査

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2008年4月21日 (月)

忠州山城(충주산성)と忠州の史跡~韓国のへそは争奪戦の場

忠清北道忠州市を三度訪ねる。
今回は忠州山城が目的。忠州市街地から車で15分ほど南の、南山(標高636m)にある。外周1.1km、高さ5~8mの石城である。6世紀中頃以降の新羅の山城と推測されているようだ。 かなりの部分が近年復元されているが、特徴的で非常に興味深い構造部がいくつも見られた。

まず、複数箇所に復元されている排水溝と排水口。城壁外面の排水口は他の新羅系の城で見られるのと同じ、上部が狭い台形。ここでは更に城内の石築の排水溝も綺麗に復元されており、それと排水口の連携がよく分かった。外壁の排水口の中を覗くと、ひんやりと冷たい風が顔に当たった。119_640

城内の上方に向かって、登り階段状に水路が作ってあり、貫通させてあった。124_800

懸門式の城門も、特にこの城では独特である。
懸門式は新羅の城に多く見られる、はしごを掛けないと入れないように入り口を高く作った凹字型の門だが130_800 、ここではさらにその城門の城内側を丸く石築で囲んであり、城門から侵入して来る敵を隠れながら狙い撃ちする為の窪みが2箇所作ってある。107_800

さらに半円形の防御壁で区切られた空間がこの城門内の踊り場のようなところに作ってあって、ここに兵士を隠して侵入する敵を真正面から攻撃できるようにもなっていた。136_800 はしごを掛けて這い上がってきた敵は、この踊り場の中で、真正面と上部2箇所から集中攻撃を受けることになる。徹底的な防御構造だ。
他に、石築の大きな貯水池が復元されていた。水量を調節できるよう、池の排水溝が併設されていた。

南漢江が流れる忠州は、韓国のへそに当たる。陸路、水路共に開け、まさに中心地であったことから、三国時代には百済、新羅、高句麗の争奪戦の舞台となった。その後も元寇、文禄慶長の役、など戦史に事欠かない。また、山城跡以外にも様々な史跡が残り、見所が多いところである。この山城はまだそれほど有名ではないものの、城壁の残存状態も悪くなく、さらに復元城壁から古代朝鮮の巨大建造物がどうであったかのイメージをつかむのに一つの参考になるかと思う。

2007年4月8日踏査

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2008年3月 2日 (日)

灌燭寺 石造弥勒菩薩立像(관촉사석조미륵보살입상)~水木しげるが鬼太郎に登場させた仏像

忠清南道論山市、灌燭寺に残る弥勒菩薩像。高麗時代の石仏で、高さは韓国最大の18m。一度見たら忘れられない顔である。高麗時代の仏像の顔は、新羅の石仏に比べると、このように土着化が進んだ個性が出てきて、味があって良い。特にこの灌燭寺の仏像は、ただ大きいだけでなくて、完成度も高いと思う。

ゲゲゲの鬼太郎に朝鮮魔法という回があって、「アリランさま」と呼ばれる妖怪が出てくるが、この仏像が、ほとんどそのままで使われている。水木しげるは、実際にここまで見に来たのだろうか。

論山へは韓国の新幹線、KTXで行ける。駅からタクシーで20分くらいだったか。扶余観光の帰りに立ち寄った。

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2006年10月4日踏査

ゲゲゲの鬼太郎 3 少年マガジン/オリジナル版 (3) (講談社漫画文庫 み 3-7) ゲゲゲの鬼太郎 3 少年マガジン/オリジナル版 (3) (講談社漫画文庫 み 3-7)

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2007年10月21日 (日)

扶余 青馬山城 (청마산성) ~全長10km??百済最大の山城

午前中に聖興山城を見た日に、昨年できた百済歴史文化館に行き、100年前の扶余の写真展を見た。国立中央博物館が所蔵している1910~1930年代のガラス乾板写真から、扶余を写したものを集めて展示する企画だった。写真集も購入。6,000ウォン。安い!
ここで青馬山城の写真を見た。時間もまだ昼過ぎで余裕がありそうだったので、この羅城の東側を守る山城にも思い切って行って見ることにした。

月明山(標高118m)の稜線上に築いた山城でこれまでは全長6kmと考えられていた。しかし最近の調査で、大小の山城が繋がった10kmに及ぶ巨大な複合式山城と判明した!とのこと。国家史跡34号にも指定されており、すぐ分かるだろうと高をくくって行ってみたが、どこだかさっぱり分からない。大雑把な観光案内板を目安に近くまでタクシーで移動し、そこからは人に道を聞き聞き訪ねた。 40分ほど山道を歩き回り、無駄に小山を一つ越えて、やっと青馬山城の説明版が立っているところにたどり着いた。しかし現地に残っていたのは稜線上の小高い小山に散在する崩れた石材だけ。それでも一応100年前の写真と同じ場所のような気はする。 他に大きな水門が写ったそそられる城壁の写真もあったが、これはどこで撮ったものか今でも判明していないらしい。その城壁はもう残っていないのかもしれない。
しかし、どこをどう調査して10kmと言っているのか、城の縄張りがさっぱり分からなかったのが残念だった。専門家にでも案内してもらわないと無理だ。恐らくさんざん歩いた稜線そのものが土城址だったのではないかと思うが。

2007年2月10日踏査

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扶余 聖興山城 (성흥산성) ~501年築城の加林城に比定

501年(百済東城王23年)8月、衛士佐平 白加が築城。この地方は当時加林郡と言ったので、加林城と呼ばれた。百済の城郭中、築城年がはっきりした唯一の城とのことである。 白加は、加林郡に送られたことを恨んで反乱を起こしたが、敗れて殺されたと三国史記にあるとのことだ。

この山城は、扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にある。外周1.5km。南側など一部の城壁は石築になっているが大部分は版築土塁で築いている。石築の南門と東門が残っている。ここは都である泗沘城全体を南から見晴らせる場所なのだが、霧が濃くて見られなかった。
泗沘(サビ)城は街全体が羅城で囲まれていたが、この羅城をさらに外側から囲むように、いくつも山城が築かれている。聖興山城はこの都のすぐ南を守る位置であるが、築城は泗沘城へ遷都した538年よりも37年も先立っている。遷都以前に既にこの地が百済にとって重要な地であったことが伺える。

2007年2月10日踏査

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2007年9月22日 (土)

扶余 羅城 (부여 나성) ~百済城郭都市の城壁

羅城とは中国式の都城制で街全体を囲む城壁のこと。
小説などでも有名な平安京の羅城門(羅生門)は、その羅城の南門にあたるのだが、平安京では街の区割りを碁盤の目にする条坊制は導入されたのに、街全体を囲む城壁は作られなかった。城門だけ。どうしてだろう。日本ではその後も羅城は一度も作られない。朝鮮ではこの百済を始めとして、その後羅城は李朝まで受け継がれていく。

百済では、この最後の都である扶余の泗沘城に初めて羅城が作られた。全長8.4kmと推定されている(下記追記注)。現在は一部のみが残っている。今回見てきたのは、陵山里古墳群近くの東門跡付近に数100m残る部分。写真の通り基本的には土城だが基礎部分が石積みになっている。唐が百済を滅ぼした記録に、まず郭に入って、次に城を囲む・・・・と書かれているそうで、街を囲む城郭があって、その中に王城があったことが文献からもわかる。しかし、せっかくこんな立派な城郭や、いくつもの山城で都城を守ったのに、いざ唐・新羅連合軍が来ると、この都は簡単に陥落してしまった。 これもまた謎である。

2007年1月20日踏査

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2007年10月28日追記;

この羅城の範囲及び総長については、諸説ある。「泗沘羅城研究の現段階;朴淳發著2007」によれば、80年代以降、現存しない西羅城、南羅城の存在が主張されていたが、1999年、2000年の発掘調査で西羅城の痕跡は認められなかったとのこと。結果、現在確認されている部分は、扶蘇山城と青山城を結ぶ北羅城0.9kmと、青山城から塩倉里までの東羅城5.4kmを足した総長6.3km。一番古い記録で、李朝初期の『東国與地勝覧』でも13,006尺(約6km)とあり現存の長さとほぼ合致するので、当初から西・南羅城は無かったと結論付けているようだ。韓国文化財庁のホームページの羅城の解説では総長84kmとなっているが、これは8.4kmの誤りで、80年代以降の説で西羅城を含む総長かと思われる。しかしこの最新の説によれば、泗沘の羅城は都市の外周を完全に囲ったものではなく、蛇行する錦江の半円の東側を閉じるような直線に近い構造ということになる。

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2007年9月 1日 (土)

扶蘇山城 (부소산성) ~百済最後の王城を守る山城

忠清南道扶余郡。538年から660年までの約120年間、百済最後の都があったところだ。百済の頃には泗沘と呼ばれた。新羅と唐の連合軍に徹底的に破壊されたためか、飛鳥文化の源流だった筈の百済文化は残念ながら僅かしか残っていない。 しかし、近年の発掘の成果で少しずつその姿を現しつつあると言って良いだろう。

まずは扶蘇山城。王宮があったと推定される地帯のすぐ北に位置する、標高100m程度の低い山に作った土城である。山の北側は錦江に面した天然の要害だ。百済時代をしのばせるのは、この山の頂上を囲む土城の城壁跡と、いくつかの建物址。 今回行ってみて意外だったのは、城壁の縄張りが思いのほか複雑だったこと。案内板によれば、一番外側の大きな外周部分、1.5kmが百済時代のものとのことである。内側に残るいくつかの城壁のラインは、その後の新羅時代と、高麗末~李朝初期に規模を縮小して作った部分だということが発掘調査の結果、分かってきたらしい。

山城の城壁のすぐ外の山腹に、寺跡が残る。西の山腹にあるから西腹寺と呼ぶが当時の名前は分からない。中門、仏塔、金堂の土台や礎石が残っている。伽藍配置は、これらの遺構が全て一直線に並ぶ、日本で四天王寺式と呼ばれる様式である。扶余にいくつも残る百済時代の寺跡は、大抵がこの伽藍配置である。日本では法隆寺の若草伽藍跡などの初期の寺がこの様式を取っている。

ちょっと面白かったのは、この山の南側山麓一帯を発掘中なのだが、これを一般公開していること。散策路が設けてあって、発掘現場を見て回れるようになっている。建物址、工房跡、大路跡、倉庫址などが散在しており、所々に簡単な解説版もあり、ここに百済の都があったことを想像させてくれる。百済の痕跡は、ほとんどが土の中である。

2007年1月20日踏査

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▲扶蘇山上から錦江を望む。

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2007年8月19日 (日)

公山城 (공산성)~百済の臨時首都

ソウルからバスで1.5時間ほど南の、忠清南道公州市を訪ねる。百済が最初の都である漢城を5世紀末に高句麗に攻め落とされたため、急遽都とした場所である。5世紀末から6世紀にかけての約60年間、百済再興の中心地となった。 公山城は、錦江南岸にある標高110mの丘陵を2.6kmに渉って城壁で囲んだ山城で百済が最初に築いた。三国時代の山城と言えば外周数百mから1km以内のものが大半であり、当時としてはかなり大規模なものである。王宮が城内にあったと推定されており、他の多くの山城が緊急避難用の逃げ込み城として作られていることとは性格からして異なる。 百済時代は土城であったが、李朝時代に大部分を石城に改築した。東北側に一部だけ土城が残っており、百済時代の景観が見られるのはここだけのようだ。

錦江沿岸にあって、交通の要衝であり続けたため、その後も李朝時代まで各王朝が継続して使用したようだ。特に興味を引いたのは、新羅時代の遺構である十二角建物址。1990年の発掘で発見されたとのこと。京畿道河南市の二聖山城にも同じものがあったが、山城と十二角建物の組み合わせの意味が謎を呼ぶ。また、貯水池は李朝時代の大規模なものの他に、百済王宮推定地に円形の小規模な石造貯水池が残っていた。

公山城は、近年の比較的新しい発掘の成果まで、各時代の遺構が案内板でいちいち解説されており、朝鮮史に関心があれば、それらを読みながら散策するだけでもガイド要らずでかなり楽しめる。

2007年1月13日踏査

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2007年8月11日 (土)

鶏足山城(계족산성)~百済と思ったら新羅だった

大田市にある山城、鶏足山城を訪ねる。大田市は百済と新羅の境界あたりに位置する最前線の地であったためか、なんと市内に40箇所もの山城が残っている。この鶏足山城はその中でも最大の規模を誇る。 標高420mの鶏足山の頂上を全長1,037mに渉って囲んだ石築の山城である。

位置的にあまりに百済の領域に近すぎることから、長年、百済の城と言われてきたが、近年の発掘調査で新羅の土器ばかりが多く出土し、百済の土器はほとんど出なかった。また、城の構造を見ても西高東低の地形であり、巨大な西の城壁で西方の敵に備えているように見える。他にも、構造上の特徴として、1.百済系の城では見られない懸門式(凹型)の城門を備えていること、2.新羅の城の特徴である、城壁を補強するための、補築構造が城壁外側下部に見られることがあげられている。これらのことごとくが、この城が百済ではなく、新羅が築いた山城であるということを示している。

10m級の雄大な西壁(写真)は、報恩の三年山城を彷彿とさせ、三国時代のものとしては見事である。 午後遅い時間から登り始めた為に、時間不足で南門と西側の城壁など一部しか見ることが出来なかった。東側城壁のすぐ内側に残る巨大な貯水池跡や、その周囲の城壁などが未見で、ぜひ再訪したい。

2007年1月1日踏査

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2007年7月16日 (月)

堤川 德周山城 (덕주산성)

忠州市の南端にある水安堡温泉に一泊したついでに、近場の山城を探して訪ねた。
この温泉の辺りは、韓国の南北を結ぶ古街道の、峠の関を越えた北側に位置するが、今回訪ねた德周山城は、この古街道を守った山城である。新羅時代に最初に作られたと推定されているが、李朝時代まで増改築を重ねた結果、最終的には四重の城郭、全長9.8kmに渉る巨大な山城となった。城壁はかなり崩れているが所々修築して、今は南門、東門、北門が再現されている。
元軍が襲来した際、突然風雲乱れ、ひょうが降り注いだところ、神が守る地であると恐れをなして蒙古が逃げたという伝説が残る。
南門と東門付近を訪ねた。両方とも街道が通る谷間に作られている。北門は登山しないと行かれないとのことで、時間の関係もあって断念した。
山の稜線に沿って、ところどころ急峻な坂にも城壁の址が点在するのが遠くに見えた。この山城がある月岳山は国立公園として整備されており、秋には紅葉で美しく、登山客が多いらしい。

2006年12月30日踏査。

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2007年7月 7日 (土)

温達山城 (온달산성)~高句麗温達将軍伝説

忠清北道丹陽郡、温達山城を訪ねる。ソウルからバスで3時間弱。なんとか日帰りできる範囲だ。
温達というのは高句麗末期の将軍の名前。この将軍は昔話で有名だ。最初はダメ男の典型として馬鹿温達と呼ばれて有名だったが、どういう訳か高句麗王の姫である平岡公主の心を射止めて結婚。それからというもの、山内一豊の妻・千代のように、賢い彼女のお陰でどんどん出世して将軍になる、というお話。
この山城周辺には、その温達将軍や戦争にちなんだ地名がいくつか残っているが、山城自体はその築城法や立地条件などから新羅の城であろうと言われている。まぁ誰が作ったにしろ交通の要衝である南漢江を見渡せるところに位置しており、高句麗と新羅の間で争奪戦が繰り広げられた場所であることは間違い無いだろう。
 この城は写真の通り、きれいな楕円形をしている。標高427mの城山の頂上に築かれた周囲683mの小規模な山城であるが、独特な円形の城壁が見事だ。北壁に台形の排水口がきれいに残っている。新羅の城によく見られる形状である。城内では井戸跡や建物跡は見付かっていない。投石用の河石が集められていると聞いていたが、整理されたのか雪に埋もれているのか見付からなかった。城門は凹字型の懸門式でこれも新羅の城に多く見られる様式だ。
 山城の麓は「温達観光地」として観光整備されている。毎年一回、温達祭りなどのイベントがあるそうだ。ちょうどSBS放送の高句麗歴史大河ドラマ、「淵蓋蘇文」のオープンセットを建築中で、ドンガンドンガンうるさかった。セットは城門や宮殿や街を再現していて中々大規模。8割方完成しており少し見て回ったが、なぜかどの建物も中華風の作りだ。高句麗の建築物といえば城壁と古墳以外にはほとんど残っていないので古墳壁画などを参考に想像して作るしか無いのだが、よくありがちな李朝風のセットよりは古代の異国風ということで中華な雰囲気の方がそれっぽく見えるのかも知れない。

2006年12月23日踏査

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▲温達観光地案内図。石灰岩の洞窟や温達将軍にちなんだ資料館(補修工事中だった)などが整備されている。山城は図の右上にある。

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▲ドラマ淵蓋蘇文(高句麗末の宰相で唐との戦争に勝ったことで有名)のセットが工事中だった。

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▲温達将軍と平岡公主のマスコット・キャラクター

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▲建設中のセットの内部

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▲セットの門が山城の登山口に。

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▲朝霧が濃く、少し登っただけで下が見えなくなった。

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▲登山道の途中に作られた望楼から、山城が遠くに見えてきた。

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▲急斜面を20分程登ったところで解説版。史跡264号。

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▲林の中の斜面をさらに進んでいくと、北壁に行き当たる。

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▲復元された北門と、その左側の突出部である雉城。

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▲右端が雉城で、それに連なる北壁。修復された時期によって色が異なっているようだ。雉城の部分は近年復元されたらしい。左端に水口が写っている。

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▲北壁のほぼ中央部に、排水口が口を開けている。北壁の高さはおよそ7~8m程かと思う。

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▲水口のアップ。このような上部が狭まった台形の排水口は、新羅系の山城でよく見られる様式だ。城内の内壁には同じ形状の集水口があって、貫通していた筈だが、発掘調査の後、埋め戻されたようで見られなかった。

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▲▼北壁からつながる、楕円形の湾曲部分。

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▲▼石灰岩や砂岩を板状に平たく割った石で築かれている。

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▲湾曲部を回り込んで東壁に出る。

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▲東壁が山頂に向かう斜面に築かれている。

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▲東門。凹字型の懸門式だ。

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▲東門から城内に入る。

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▲湾曲部を城内から見てみる。

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▲雉城のある北壁を城内から見る。

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▲▼城郭解体補修70m、12月31日までと書いてあるが、早朝のせいか誰も作業していなかった。

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▲北壁に上がって、湾曲部と東門を見渡す。

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▲もう少し後ろに下がり、突出部である雉城の上から、城壁が写るようにして撮った。雉城は城壁に近付く敵を側面から弓矢などで攻撃する為に作られた構造。城壁撮影の一助にもなった。

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▲西側斜面を登りながら、湾曲部を遠景で撮った。

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▲霧が晴れてきて、南漢江がうっすらと見えてきた。

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▲北門から一旦城外に出て、西壁の崩壊部分を見る。

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▲崩壊部分のアップ。内部にもぎっしりと板石が詰まっている。

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▲西壁下の斜面に散乱する板石。

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▲城内に戻って斜面を上がりきると南側城壁に出る。

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▲南壁。近年復元されたように見える。

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▲同じ南壁だが古い城壁の部分。

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▲南門跡。急斜面で危険な為、城外に下りて外から城壁を写すのはあきらめた。こういう場所にわざわざ城門を設ける例が、三国時代の山城に多く見られるようだ。

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▲南門から見た山並み。丹陽は丹陽八景など、名勝地として有名である。

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▲▼山城の南側の高台から南漢江を望む。絶景である。

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▲霧もすっかり晴れ、下山する途中で建設中のセットがよく見えた。

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▲下山して城山を振り返る。稜線の中央あたりに温達山城の特徴的な楕円形の城壁が見えた。

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▲温達観光地のゲート。ここで何時来るのか分からない帰りのバスを、地元のお婆さん達と30分近く待った。

2007年7月 1日 (日)

忠州 薔薇山城 (장미산성)~漢城百済の痕跡-5

曇天、時々雨との予報にめげず、遠出をした。 韓国のへそ、忠清北道忠州市まで高速バスで二時間弱。南漢江沿いにあるいくつかの遺跡を見るのが目的。その中の目玉が薔薇山城だ。薔薇山にある山城だからそう呼ばれてるだけで昔の名前は分からない。忠州は南漢江沿いに位置し、古代から水路・陸路ともに発達した交通の要衝であったことから、三国が激しく争奪戦を繰り広げたであろうことが想像される。

2007年に出版された「最近発掘された百済遺跡」崔ビョンシク著 によれば、2004年の発掘で以下の点が明らかになった。

・5世紀以前の漢城時代の百済式土器が大量に出たが、高句麗や新羅の遺物はほとんど出ていない。

・城壁の内側に数箇所、戦闘時に投石用に使うにぎりコブシ大の石が集められていた。これは他の山城でも出土例がある。

・木柵用の柱穴列が、北側城壁の回折部で2列見付かった。城壁から外側に11mほどの長さで突出しており、柱穴の間隔は約185cn。木柵による雉城ではないかと推測されているが、石城と木柵雉城の組み合わせは高句麗と新羅では前例が無い。石城との年代前後関係がまだわかっていないが、百済では清原南城ゴル遺跡で発見された例があるとのこと。

この山城のすぐ近くで、有名な中原高句麗碑が見付かっていることから、当初この山城は高句麗の遺跡であると思われてきた。しかし2004年の発掘結果は、この城が百済の城であることを示している。漢城百済時代には石城の技術はなかったとの説がこれまでは常識であったが、近年の利川雪峰山城、利川雪城山城の発掘結果も薔薇山城と同じ様相を見せており、漢城百済時代の百済の経済力や建築技術の常識が書き換えられようとしている。考えてみれば、4世紀の百済は近肖古王の治世時に平壌まで攻め込んで、高句麗王を戦死させたほどの実力を持っていたのであり、その版図もこの時が最大であったようである。遺物は少ないが、漢城百済の実力をもっと大きく見るべきかもしれない。

それにしても凄い規模の山城だった。標高337m、決して高い山ではないが、険しいこと険しいこと。そしてその険しい山におびただしい数の石を積み上げて全長約3kmにも渉って築き上げられている。三国時代の山城は、外周1km以内のものが大半であることを考えれば、当時この城がいかに巨大であったかが想像できる。城壁の大半は崩れて、崖や急峻な斜面にその残骸が大量に散らばって苔むしているが、それにしてもとんでもない量の石だった。薄曇で今にも振り出しそうな空の下でますます鬼気迫る感じであった。 発掘調査で見付かった石造の排水路が、城壁の内側に長く廻らされていて珍しかった。かなり本格的な山城だ。こんな険しい山奥にこれだけ膨大な量の石を運び込んで3kmもの石造の城壁を巡らし、排水施設まで石造で完備していることからみても、この地の重要性が窺い知れる。 城壁は残存部でも、基底部だけ残って、上部が崩れているところが多い。城壁の内部は結構乱雑に石を積み上げて、外側を長方形の切石で綺麗に揃える作りのようだ。城壁が崩れかかったあちこちで、この石の結晶のような剥き出し部をたくさん見ることができた。

それにしても、こんなに険しい山なのだから、そこまで石を積み上げなくても天然の要塞なのにどうして、と考えさせられる。執拗で、何かに憑り付かれて徹底せずにはいられなかったかのような、築城主の意志を感じた。これ程の城を作らずにはいられない程の、三国の激しい争奪戦があったに違いない。こんなところを本気で攻め登って来る奴らの神経も、想像するだに恐ろしい。

2006年11月26日踏査

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▲薔薇山登山案内図。左端②が中原高句麗碑。こちらの登山口から登り始めたが30分ほどで道を見失い、断念。下山して中央下の登山口①▼から登り直した。

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▲登山案内板のすぐ近くにある登り口。冗談のように激しい傾斜。まさかこれではないだろうと通り過ぎて直進して違う山道を進んでしまった。ここでも小一時間のロスタイム。

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▲ひとしきり登ってまた間違えたかと不安になったころに案内表示が。まっすぐ行けば薔薇山。後ろは高句麗碑。もう一つの火薬庫?というのが何だか分からない。

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▲そして右に行くと池址とある。山城の貯水池跡だろう。

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▲かなり大きなクレーターのような丸い窪地があった。これが貯水池跡。

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▲この辺りから城壁の跡と思われる斜面に石が散らばっているのが見え始める。

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▲▼石塁の量が段々密集して多くなってくる。苔むしている。

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▲石塁が延々と続く。傾斜は段々ゆるやかになってくる。

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▲城内側の石積みが若干残っている部分。

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▲石築の排水路。2006_1126_110033aa_640

▲排水路は城壁に沿って長々と続いている。

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▲排水路というよりは斜面に沿って下の貯水池に水を集める集水路かもしれない。とにかく長い。

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▲頂上が近付いてきたあたりの見晴らしの良いところに墓があった。南漢江を見下ろす。山城も朝鮮の伝統的な墓も、どちらも見晴らしの良さが要件になっているので、山城めぐりをすると必ずいくつもの墓に出会う。

2006_1126_120251aa_640 ▲変わった墓碑だ。わざわざ朝鮮学生とあるのは植民地時代のものか?分からない・・・。

2006_1126_115108aa_640 ▲薔薇山頂上。標高336.9m。案内板に書いてある通り、麓から一時間近くかかった。距離は1.4kmだが、急傾斜が多いので、汗だくになって休み休み登った。

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▲薔薇山城案内板。1997年に史跡400号に指定された。「百済時期の遺物がたくさん発見されているが、このような山城の源流は高句麗系統に属するもので、中原高句麗碑と関連して高句麗勢力の南下に関連する大変重要な遺跡として評価されている。」この先の発掘調査で高句麗の遺物が出てくればそうも言えるだろうが、無理のある言い回しである。

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▲解説版は頂上付近に設置されている。北側の山を見晴らす。

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▲北側の城壁の回折部。ここから突出する二列の木柵柱穴が発掘されたと後で分かった。柱穴は埋め戻されていたので分からなかった。ここを右側に進んで回り込むと、上記の解説版の下の城壁に出ることができる。

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▲▼城壁に沿って進む途中で水口らしき部分を見つけたが、単に石が抜け落ちているだけのようにも見える。

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▲石積みが残るのは主に下段の基底部で、上部はほとんど崩壊している。

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▲城壁内部に詰め込んだ内込め石は不定形だが、石の結晶のようにびっしりと詰め込まれている。はらわたが剥き出しになってようで不気味だった。

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▲6~7mくらいの高さだろうか。崩壊した城壁に沿って元来た道を戻るようにさらに進む。

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▲城壁外側の下部にも排水路がめぐらされていた、と思ったのだが、これはもしかしたら韓国軍が作ったものかという気もしてきた。よく山中で軍が作った塹壕を見かけるが、これは塹壕には狭く浅すぎて、やはり排水路にしか見えない。2006_1126_113600aa_1024

▲もっとも城壁の残存状態が良い北西部の城壁が見えてきた。

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▲▼斜面に沿って延々と続く城壁。

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▲城壁基底部は、岩盤を削ったところに粘土を押し固め、そこに第一段の石が積まれているとのこと。初段の石は、半分以上粘土に埋まっている。初段だけが少し外に飛び出していて、二段目以降はほぼ垂直に積み上げている。

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▲大岩は削らずにそのままよけて石が積まれている。

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▲崩壊部分の接写。

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▲▼城壁に沿って大分降りてきた。山頂部を見上げる。

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▲そのまま斜面に沿って下山する。

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▲薔薇山を振り返る。トラックの見える辺りが登山口。

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▲中原高句麗碑近くのバス停。イプソク。立石、かな?忠州市内の北、車で15~20分ほどのところだ。

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▲忠州市バスターミナル。東ソウル・バスターミナルから頻繁にバスが出ている。

2007年5月 5日 (土)

三年山城 (삼년산성) ;韓国最大の古代山城

朝鮮は山城の国だ。古くは高句麗に始まって、百済、新羅にも広がり、三国時代に無数の山城が朝鮮全土に築かれた。三国時代から李氏朝鮮時代まで、約2,000年の歴史がある。そのうち現在残る遺跡がいくつあるかは、中国と北朝鮮の領域を含むので正確なところはたぶん把握されていないのではないかと思う。しかし、大韓民国に残る城郭跡だけで、2,137箇所(1995-1997年の調査)、その大半が山城であることを考えれば、総数はいったいいくつになるのか見当がつかない。

さてどこから手を付けるかだが、まずは日本の朝鮮式山城より古い時代(7世紀以前)のもので一番規模が大きい、忠清北道報恩郡の三年山城を訪ねた。三国時代の5世紀に新羅が百済との国境近くに作った最前線の城だ。築城に三年かかったことからこの名がついたという。標高350mの低い山の峰と谷を、全長1.74kmに渉って10mを越える石垣の城壁で囲んだもの。韓国に残る古代山城中、これが最大規模だ。

普通の観光コースだけでみると、韓国はあちこちからの侵略だの内戦だので、殆どの遺跡が破壊されて残ってないようにみえるが、探せばこんなのがちゃんとあるじゃないか、と驚かされた。

2006年10月3日踏査

三年山城西門前の案内板。 

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西側の復元された城壁を南側から見下ろしたアングル。

 

3southwall_1   南側の城壁外側。急斜面に築かれている。

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南城壁の内壁。一部崩落して、内部にも石をつめている構造が見える。

5southwallbroken2_2 南城壁の内壁

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東門跡から見た東壁。この下の方に排水口がある筈だが、草木がびっしり生い茂っている上に急斜面で危なく、近付けなかった。軽く10mを越える高石垣だ。

7northeastchi_1 北東の小高い丘陵を利用した雉城と呼ばれる、城壁の突出部。東壁から北壁に曲がるところに位置する。

8northinside_1 北壁の城内側。

三国時代の城跡で、これだけの高石垣が残るところは僅かしかない。

9northchi_1 北門と、北門前に作られた雉城。これは調査の結果、李朝時代に改築して作られた部分と分かった。

9northlong_1北壁を遠景で。外壁が崩れて斜面に広がっている。夥しい数の石だ。

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北壁は、中間あたりの北門が一番低い谷になっており、東から西に向かってずっと登って行った。西の高地から北壁を見下ろす。

11west1_1 北側から西門と西の復元城壁を見下ろした景色。半円形の雉城が二箇所突出している。城壁に張り付いて登ってくる敵を側面から攻撃するための張り出し部で、高句麗の城で最初に作られたという。しかし、こういう半円形のものは、他で見たことが無い。

12west2_1 一周して、西門に戻る。

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