カテゴリー「忠清道の史跡」の20件の記事

2008年12月25日 (木)

陰城 水精山城(수정산성)~三箇所の水口が復元された謎の城壁(?)

忠清北道陰城郡の水精山城を訪ねる。

韓国文化財庁のホームページで見た写真に、類例の少ない城壁外面の垂直溝のような微妙なものを見て、実物を確認してみようと思った。
標高396mの水精山の頂上に築いた石築の鉢巻式山城。外周は577mで、西側城壁の残存状態が良く、出土遺物から8~9世紀の統一新羅時代の城だろうとのことである。

陰城までは、東ソウル・バスターミナルから30分毎に直行バスが出ている。ソウルから1時間40分。水精山はバスターミナルのある中心街から東に2kmくらいのところにあって、地元の人たちの散歩コースのようで、場所はすぐに分かる。

行ってみてちょっとがっかりしたのは、西城壁がきれいに復元されていたこと。陰城郡記念物111号に指定されているが、よくこんな有名でもない城の復元に予算が付いたものだと思った。 この一年、あちこちの山城を回っているが、意外と山城の城壁を整備・復元する自治体が多いようだ。結構安く作れちゃうのかな??

~ネットで見つけたローカル新聞の「忠清毎日」2007年8月28日の記事によれば、陰城郡は水精山城に2002年から試掘調査と城壁補修を行って残存城壁の一次復元工事を完了させたのに続き、2007年に1億5千万ウォンを投入して城門跡の発掘調査を行うとのこと。また、2012年までには城の原型復元、探訪路の整備を行って歴史資料および観光資源として活用する計画とのことである。

しかし結局、見たかった垂直溝のような城壁は見つけられなかった。もしかして復元工事でつぶしちゃったのでは・・・。 最近になって1998年に刊行された水精山城の地表調査報告書(忠州産業大學校博物館刊)を図書館で見つけて残存城壁の写真を見たが、そんな垂直溝のある城壁はやはり無いし、報告書でも指摘されていない。文化財庁HPの写真は他の山城を誤って掲載したのだろうか??

さてこの復元城壁、水口が3個もそれっぽく復元してあった。城内の取水口もちゃんと石築で作ってあって、外まで水路を貫通させてあるようだ。水口は3個が、ほぼ等間隔で15mくらい(?)おきに並んでいる。城壁基底部からの高さはそれぞれ違う。城壁に向かって左端のは肩くらいの高さ、真ん中は2m以上、右端のは真ん中より少し低い。

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▲右端の三つ目の水口と、その下の水受け石(草に埋もれている)

水口の真下には、水受けの石が並べてあり、その延長線上の急斜面には、階段状に石が積んである。これは他では見たことが無い。かなり念入りな水対策だ。 上掲の1998年の地表調査ではこういった排水施設は見付かっていないが、2002年の試掘調査で発見されたものかもしれない。あてずっぽで作ったにしては良く出来過ぎのようだし。
李朝時代の記録では、当時既に廃城となっていた城内に井戸が一つ残っていたとのことだが、現存しない。3つの排水口や念入りな水対策から見て、山頂ながら水が豊富だったのだろうか??

そういえば山の名前も水にちなんでいる。この日はたまたまか、ずっと濃い朝霧がたち込めていて、全山真っ白で視界が狭く、確かに水っぽかったかな?

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2007年11月25日踏査

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2008年11月30日 (日)

丹陽 赤城(단양적성)~竹嶺を越えて高句麗領へ・・6C新羅の北進橋頭堡

忠清北道の北東端にある、丹陽郡。南漢江が流れ、小白山脈が通る場所に位置する、美しい観光地である。三国時代の6世紀前半までは、この小白山脈にある竹嶺が高句麗と新羅の境界であった。ここを越えて、北に領土を広げたのが真興王(在位540-576年)。高句麗で言えば広開土王のような王で、三国時代新羅の領土を最大限に広げた。550年頃に竹嶺を越え、半島の東側を北進して今の咸鏡南道にまで至っている。真興王は新たに獲得した領土に石碑を多く残しているので、今でもその足跡を確認することができる。

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▲当時の高句麗の首都であった平壌よりずっと北にまで新羅が侵攻していたことが、黄草嶺碑や磨雲嶺碑の存在で確認できる。この二つの碑を見るには北朝鮮に行かないとならない・・・。

さて、ここ丹陽に残る新羅の古城「赤城」では、1978年に真興王の頃の石碑が見付かった。国宝198号、赤城碑である。

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実物は今もこの山城に置いてあって、ここまで行かないと見られない。
どんなものだろうと、近付いて見ると、驚いたことに、上部が欠けてはいるが、表面は新品のようにピカピカ、碑文もくっきりとあざやかに見える!とても1500年前の碑文とは思えない。発見された時は、土の中に埋まっていて30cmほど外に露出していたのだそうだ。

碑文の内容は、一部が欠けている為にわからない部分もあるが、新羅に協力した赤城の高句麗遺民を顕彰し、法的に優遇することを示した内容らしい。碑文中、「國法」「赤城烟法」「赤城佃舎法」の三語が注目される。三国時代の法制については詳細が分かるものが残っていないが、「國法」と共に、占領地に特別に適用されたであろう「赤城烟法」「赤城佃舎法」 が存在したことを窺わせる。また、碑文に出てくるいくつかの人名中「武力」は、金庾信の祖父である金官伽耶国の武力に比定されている。

山城は、標高323mの山頂に外周900mで築いた石築の包谷式。竹嶺を越えて竹嶺川が南漢江に合流する地点の山上に築かれている。馬鞍型と呼ばれる、両端が高く中心部が谷になっている形状。城壁はほとんど崩れていたのをかなり復元して作ってある。元の城壁の石積み城壁はほんの一部だけしか残っていない。小さな割石を緻密に積み上げ、外壁基底部には補築の痕跡が残っており、新羅の古城の典型に見える。

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この城は、中央高速道路下りの丹陽休憩所の真後ろに位置する。全国でも唯一、なんと休憩所から直接行って見て来ることができる山城。車でこの方面に行く人は、是非お立ち寄りあれ。公共の交通機関だと、丹陽のバスターミナルからタクシーで20分程。

2007年11月4日踏査

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2008年11月 9日 (日)

月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?

せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。

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最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。

標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。2007_1027_142118aa_800

▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。

門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
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▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。

2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?

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▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。

この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。

他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?

2007年10月27日踏査

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2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年10月13日 (月)

新昌鶴城山城(신창학성산성)~真の任存城と思ったら・・・

忠清南道牙山市 新昌鶴城山城を訪ねる。
標高183mの低い山の頂上、約500mを石築の城壁で囲んだ山城である。牙山市文化財資料244号に指定されている。

百済復興運動の拠点であった任存城は、先に訪ねた禮山郡の鳳首山城ではなく、鶴城山城であるとの説(徐正錫著「百済의城郭」)を人から教えてもらい、早速見に行ってきた。う~ん、これが百済末の有名な城かぁ。さすがに堅固な城壁だ、などと思って見てきたのだが・・・。
しかし勘違い!名前は同じ鶴城山城だけど、場所が全然違ったがまん顔
帰宅してから上掲書をちゃんと読み返してみたら、忠清南道洪城郡長谷面とある。禮山郡の鳳首山城にずっと近い。

う~、鶴城山城違いか泣き顔

しかし勘違いとは言え、これはこれで中々立派な城で見応えがあった。

牙山市は天安市の西隣で、温陽温泉が有名なところ。温陽温泉駅前の観光案内所で地図をもらって、タクシーで20分くらい西に向かったところに鶴城山はあった。今は木が鬱蒼と茂っているが、タクシーの運転手さんが子供の頃、40~50年前にはほとんど木は無く、麓から城壁がよく見えたという。

登山道を20分も登ると、もう山頂である。整備工事中だから云々・・・と観光案内所で聞いていたが、ゲッ!作りたての真っ白な城壁が完成しつつある状態だ!
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元のままに放っておいてくれれば良いものを・・・と思いつつ、元の城壁が残っている筈の南東方向に城壁を回り込んで行くと、あった!古い城壁が数10mも残っていた。それもかなり緻密で堅固な城壁だ。
高さは6mというが、もっと高く見えた。長方形の切石が僅かな傾斜を付けて緻密に積み上げられている。城壁のあちこちから木がニョキッと突き出して伸びているがびくともしないようである。
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土器や瓦片がたくさん落ちていたが、いつの時代の山城なのかはっきりしていない模様。解説板によると、「高麗の初め、盗賊の被害が激しく、収穫した食料をここに保管するために築城した」との言い伝えがあるとのことである。

しかし、盗賊の難を避けるため、と言うには立派過ぎる城壁だと思った。

いつのものだろうか。
2007年10月20日踏査

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2008年10月 5日 (日)

天安 黒城山城(흑성산성)~独立記念館の裏山にも古代山城

忠清南道天安市、独立記念館の裏山にある黒城山城(天安市文化財資料364号)は、黒城山(標高519m)の山頂を石築の城壁で囲んだ古城である。外周570m。李朝時代の記録にあるが、何時作られたものか不明である。城内にあたる山頂には米軍基地と放送塔があって一般人の立ち入りは禁止されている。最近、観光用にか、水原華城を模した城門や城壁が作られており、元の城壁はほとんど崩れてわずかに痕跡が残る程度らしい。

独立記念館の運動場を借りて会社の運動会が開かれたので、すぐ裏山だしと思い、このくらいの事前情報でとにかく行って見た。登山道はいくつもあるらしいが、独立記念館側から見て左側(おそらく西)から迂回するように登る「Bコース」というのを取った。このコースは”入山禁止”と看板に書いてあるのだが、登っても大丈夫とのネット情報を信じて、柵を越えて突入。 山城への案内表示は要所要所にあって、迷わず山頂近くにたどり着く。

山頂からの眺めは、最高の風水の明堂と言われる、独立記念館の敷地を後ろから一望に出来て中々爽快だった。
観光用(?)に作られたぴかぴかの城の、裏側に出た。裏からぐるりと回りこんでみたが、行き止まりのようだった。時間の関係でこの辺で終わりにして、下山しようとすると、来る時には気付かなかった、元の城壁の残存部が目に入った! Panorama2short_1024

観光用の城門は見られなかったが、こちらが本命なので、満足して下山。
思っていたよりもかなり遠く、独立記念館の運動場から往復二時間半近くかかってしまった。

ところで、この独立記念館の建設中に敷地内から発見された古代山城がある。木川土城と呼ばれた平山城だが、発掘調査で土塁の基礎に石列が並べられているのが発見され、日本の古代山城との関連が注目されている。しかし残念ながらこの広大な敷地のどこにあったものか、わからない。文化財の指定も受けていないので、記念館の建設と共に破壊されて残っていないだろうと思う。

天安市の観光地図を見ると、意外に山城がたくさんある。
新幹線(KTX)の駅も出来て、今はかなり大きな地方都市に急成長した天安市だが、このあたりは百済の領域だったところ。百済の土器が出ている山城や遺跡もいくつかあるので、また改めて山城めぐりに来たい場所である。

2007年10月13日踏査

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2008年7月20日 (日)

大興任存城(대흥임존성)~百済復興運動の任存城比定地だったが・・・

忠清南道禮山郡に残る大興任存城を訪ねた。 鳳首山城ともいう。
忠清南道の真ん中辺り、公州市の北西に位置する。
百済が660年に滅んだ後、百済の残党による復興運動の最後の拠点地になったところと言われている。 しかし後で、徐程錫著「百済의城郭」学研文化社2002 をよく読んでみると、この比定にはあまり大した根拠も無いようで、彼が諸文献を詳細に検討し、現地踏査して出した結論によれば、真の任存城は西隣の洪城郡にある鶴城山城とのことである。私としてはこの説に軍配を上げたい。

さて、ソウルからバスで禮山のバスターミナルまで2時間だが、高速の事故渋滞で3時間もかかった。バスターミナルから任存城までは、市内バスで40~50分。バス停留場から任存城まで、山道を休み休みゆっくり登って40分。朝7時のバスでソウルを出発したが、城に着いた時にはお昼前になってしまった。

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鳳首山という標高483mの山の頂上を、2.4kmに渡って石築の城壁で囲んだ、鉢巻式山城である。百済のこのタイプの山城の中では最大規模である。上掲書では、一般的な百済の城に比べ、標高は高いし、規模も大きすぎるとしている。建物跡は20箇所ほども見付かっている。南門と北門跡が残っているとのことだが、北門跡は気付かずに通り過ぎてしまった。南門跡から城内に入ったが、独特な形の門だった。

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幅は2m程しかなく、大人二人が何とか並んで通れる程度だが、奥行きが10mほどもあって細長い。 この細長い門は、稜線からまっすぐ入りやすいところに位置しているが、多くの百済山城では接近が難しいところを選んで城門を設置しており、これも百済らしくない点として上掲書で指摘されている。城内にいくつか残る井戸跡中、一つを見つけた。綺麗な清水が滾々と湧き出ていた。この山、実に水が豊富で、あちこちに細流があってせせらぎを流れる水の音が絶えなかった。 水が豊富な山城らしく、排水口は南西に3箇所発見されているとのことだったが、一つも見つけられなかった。残念。城壁の少し高い位置に開口しているらしい。夏草に埋もれていたかもしれない。全体に、生い茂る雑草で城壁や遺構が覆われていて非常に見にくかった。やはり山城巡りは晩秋から初春までが良いと思った。
文化財庁HPの解説によれば百済の土器や瓦が見つかっているとのことだったが、それ以上の詳しい記載が無く、もしかしたら地表調査程度で、ちゃんとした発掘調査はまだ行われていないのかもしれない。本当はいつ作られた城だったのだろうか・・・。

それにしても、快晴の好天にも係わらず、他に登山客は1人しか出会わなかった。国家史跡90号に指定されて整備されているところなのだが、やはり皆さん、山城には関心無いようです。

2007年9月8日踏査

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2008年4月27日 (日)

清原壤城山城(청원양성산성)~三連水門と古代山城最大規模の円池

忠清北道清原郡文義面の壤城(養性)山城を訪ねる。
ここは近くにダムがあって景観が美しく、ちょっとした観光地になっている。
展望台がある一番高い峰の山頂(378m)にまっすぐ向かう登山客を横目に、その隣り山(292m)にある壤城山城を目指して一人山道を行く。2007_0415_091725aa_800 10数分上り続けながら、どうも途中で道を外れたのではないかという疑念が。途中で道が二股に分かれていたのを、こちらが本道と思って右に進んだのだが、どうも山をぐるりと迂回しつつ、頂上に向かう道を失いつつある。戻って登り直すかどうするか、しばし逡巡したが、沢のようなところから上に上がれそうに見えたので、草木を掻き分け掻き分け進んで見た。何とか行けそうだ。途中で写真のような美しい新緑の森に。2007_0415_091829aa_800 そこからさらに擦り傷だらけになりながら上に上がると、森の木々の間、遠く頂上に探していた山城の城壁がかすかに見えた。それも今回見たかった水門らしき四角い黒い穴がぽっかりと開いているのが木々の狭間からはっきり見えた。 山城を探して道無き道を登りつつ、城壁が見えた瞬間は、いつもちょっとした感動に襲われる。
とげのたくさんある、イバラのような枝を避けつつ、何とか這い上がってその城壁にたどり着く。 2007_0415_092759aa_800 朝鮮の古代山城の特徴の一つは、城壁も、出入り口の城門でさえも、人の接近を阻むような傾斜地を選んでいることが多い点だ。おかげでうまくアプローチしないと文字通り這い上がるような体勢を取らざるを得ない。
お目当ての水門は、最初二つだと思ったが、右端に草に隠れてもう一つあった。三連の排水口だ。こんなのははじめて見た。2007_0415_094529aa_800 また、城壁の基底部をよく見ると、苔むしていて分かりにくかったが、基壇補築と呼ばれる底部補強の為の段状の城壁が積まれているのに気付いた。これは新羅系の山城によく見られる構造だ。2007_0415_093649aa_800

城壁の写真をたっぷり撮って、城内に這い上がると、城壁周辺の整備工事をしているところに出た。工事のおじさんたちから「この下に道無かったろう?、わざと運動の為に上がってきたのか?」と興味深々で話しかけられる。本当は道に迷ったのだが、面倒くさいのでそうそう、体鍛えてるのよ、とごまかす。古代山城が・・・などと話そうものなら、ますます訝しがられるだけである。
この城壁のすぐ上は、城内で一番低い谷状の場所の平坦地になっていて、そこに巨大なクレーターのような貯水池跡を見つけてさらに驚かされた。直径約19mの円形で、外周60mにもなるとのこと。排水溝らしき溝もあった。三連の水門はこの巨大な貯水池の排水のためだろうと納得。後で調べると、韓国の古代山城で発見された円池の中で最大規模とのことだ。 2007_0415_101523aa_800
韓国文化財庁ホームページの解説によると、この城は外周985m、東門跡、南門跡、遮断壁があるとのことだが、残念ながら確認できなかった。城壁もこの水門のあるところ以外に石積みが残る場所は見つけられなかった。円池跡で土器・瓦片が山積みになっているのを見たが、それらを元に三国時代の城と推定されているようである。地表調査は2000年から2001年に掛けて実施されているとのことだが、本格的な発掘調査が期待される。

2007年4月15日踏査

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2008年4月21日 (月)

忠州山城(충주산성)と忠州の史跡~韓国のへそは争奪戦の場

忠清北道忠州市を三度訪ねる。
今回は忠州山城が目的。忠州市街地から車で15分ほど南の、南山(標高636m)にある。外周1.1km、高さ5~8mの石城である。6世紀中頃以降の新羅の山城と推測されているようだ。 かなりの部分が近年復元されているが、特徴的で非常に興味深い構造部がいくつも見られた。

まず、複数箇所に復元されている排水溝と排水口。城壁外面の排水口は他の新羅系の城で見られるのと同じ、上部が狭い台形。ここでは更に城内の石築の排水溝も綺麗に復元されており、それと排水口の連携がよく分かった。外壁の排水口の中を覗くと、ひんやりと冷たい風が顔に当たった。119_640

城内の上方に向かって、登り階段状に水路が作ってあり、貫通させてあった。124_800

懸門式の城門も、特にこの城では独特である。
懸門式は新羅の城に多く見られる、はしごを掛けないと入れないように入り口を高く作った凹字型の門だが130_800 、ここではさらにその城門の城内側を丸く石築で囲んであり、城門から侵入して来る敵を隠れながら狙い撃ちする為の窪みが2箇所作ってある。107_800

さらに半円形の防御壁で区切られた空間がこの城門内の踊り場のようなところに作ってあって、ここに兵士を隠して侵入する敵を真正面から攻撃できるようにもなっていた。136_800 はしごを掛けて這い上がってきた敵は、この踊り場の中で、真正面と上部2箇所から集中攻撃を受けることになる。徹底的な防御構造だ。
他に、石築の大きな貯水池が復元されていた。水量を調節できるよう、池の排水溝が併設されていた。

南漢江が流れる忠州は、韓国のへそに当たる。陸路、水路共に開け、まさに中心地であったことから、三国時代には百済、新羅、高句麗の争奪戦の舞台となった。その後も元寇、文禄慶長の役、など戦史に事欠かない。また、山城跡以外にも様々な史跡が残り、見所が多いところである。この山城はまだそれほど有名ではないものの、城壁の残存状態も悪くなく、さらに復元城壁から古代朝鮮の巨大建造物がどうであったかのイメージをつかむのに一つの参考になるかと思う。

2007年4月8日踏査

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2008年3月 2日 (日)

灌燭寺 石造弥勒菩薩立像(관촉사석조미륵보살입상)~水木しげるが鬼太郎に登場させた仏像

忠清南道論山市、灌燭寺に残る弥勒菩薩像。高麗時代の石仏で、高さは韓国最大の18m。一度見たら忘れられない顔である。高麗時代の仏像の顔は、新羅の石仏に比べると、このように土着化が進んだ個性が出てきて、味があって良い。特にこの灌燭寺の仏像は、ただ大きいだけでなくて、完成度も高いと思う。

ゲゲゲの鬼太郎に朝鮮魔法という回があって、「アリランさま」と呼ばれる妖怪が出てくるが、この仏像が、ほとんどそのままで使われている。水木しげるは、実際にここまで見に来たのだろうか。

論山へは韓国の新幹線、KTXで行ける。駅からタクシーで20分くらいだったか。扶余観光の帰りに立ち寄った。

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2006年10月4日踏査

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