カテゴリー「ソウル・京畿道の史跡」の31件の記事

2008年12月21日 (日)

南漢山城(남한산성)再訪~発掘調査が明らかにした統一新羅時代の遺構

寝坊した。
ほぼ毎週末、まだ暗い内から早起きして、始発のバスや電車で郊外の山城に出かけるというパターンになっていたが、たまに寝過ごしてしまうこともある。

この日は、せっかくの好天だったがもう遠出は無理な時間だったので、近場でどこに行こうかと考え、南漢山城を再訪することにした。一年前に行ったが、南門から西門を経由して北門までの半分の区間を見ただけ。未見の区間と、昨年から発掘調査中の統一新羅時代の大型建物跡を見に行くことに。 統一新羅時代の大型建物跡(53.5m x 17.5m)は既に掘り出されていたが、ちょうどその建物跡から、長さ64cm、重さ19kgの超大型瓦が350枚も完形で発掘されたとのプレスリリースがあったばかりだった。

今回は、南門からスタートして、東門までの区間を歩いた。
甕城が三箇所、暗門数箇所、雉城、砲塁に、水門などなどテンコ盛り。城郭好きには面白い区間だったが、城壁が崩れたままのところがあったり、景色が地味だったりと、前回まわった南西区間に比べると少し寂しい感じである。

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統一新羅時代の大型建物跡は、李朝時代の行宮址の発掘現場で見付かった。行宮の復元整備に伴う発掘調査で偶然発見されたものである。南漢山城の初築が何時であるのか不明だが、この発掘成果で、ここが統一新羅時代の晝長城(別名日長城)であったと見て間違いあるまい。それにしても一枚19kgのバカでかい瓦と言い、53.5mという長大な建物と言い、ここが非常に重要な城であったろうことが推察される。

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▲統一新羅時代の建物跡の発掘現場

初築が百済との説もあり、初期百済の遺物も出ているようではあるが、城の立地、規模、プランからして、恐らく統一新羅の初築ではないだろうか。羅唐戦争時、この山城が漢江流域を守る防衛ラインで中心的な役割を果たしていたのかもしれない。

2007年11月18日踏査

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2008年9月23日 (火)

儀旺 慕洛山城(의왕모락산성)~これも漢城百済の初期山城?

ソウルから南に約20km、京畿道儀旺市の慕洛山城を訪ねる。
2002年、2005年に世宗大学博物館によって地表調査が行われ、4~5世紀の漢城百済期の土器が確認されたとのこと。ネットで調べたところ、城壁跡も一部残っている(下写真)ようなので、行ってみることにPhoto

ソウルの地下鉄4号線に乗って仁徳院駅下車。バスで5分ほど南下して、ロッテマートが見えてきたところで降り、そこから徒歩。

標高385mで小高く目立つ山である。登山ルートはいくつもあるが、ケウォン芸術大学後門近くの登山口から1時間のコースを取る。
片道一時間のコースはかなりしんどかったが、行ってみて分かったことがいくつか。

山城の案内図や表示は意外にもちゃんと立っていた。
儀旺市記念物第216号。山頂を地形に合わせて石築、または土石混築の城壁で囲んだ鉢巻式山城である。外周820m。
だが、山城のかなりの部分が韓国軍の基地になっていて、一般人立ち入り禁止であった。ネットで見た北側にあるという城壁も、登山客に聞きながら随分探し回ったが、見つけられなかった。残念。

もう一つ分かったのは、ここが朝鮮戦争の戦跡地であること。中国の人民解放軍がここに陣地を築いた。1951年1月30日から2月4日の間、国連軍が二度の攻撃で攻め落としたとの記念碑と解説板が立っていた。 2007_1006_092817aa_1024
「四日間の血戦で韓国軍1師団15連隊は中共軍663名を射殺し、90名の捕虜を獲得した。一方我が軍も戦死70名、負傷200余名の被害を受けた…」とのこと。激戦地だったようだ。

今は登山道がよく整備されていて誰でも登れるようになってはいるが、三国時代から朝鮮戦争まで、重い装備を背負って登るには相当厳しい、天然の要害だった筈である。

韓国に無数に残る古代山城中、ここのように1500年を経ても役割を終えることができず、軍の基地として現役なところがいくつもある。残念なことである。

2007年10月6日踏査

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2008年7月13日 (日)

唐城(당성)~唐への海上交通の要衝地

京畿道華城市にある、唐城を訪ねる。
世界遺産の水原華城がある水原市から、ローカルバスで小一時間かかった。黄海に小さく突き出た南陽半島のちょうど真ん中、九峰山中腹にある。

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▲中央に赤丸で囲んだところが唐城。

三国時代から、中国に海から向かうルートの一つだった要衝地である。最初は百済の地であり、高句麗、新羅と持ち主が移っていった。三国史記にある党項城がこの城であろうと比定されている。 新羅末には唐城鎮が設置され、王京の慶州から尚州、報恩の三年山城を経由してこの地に至る道を、唐恩浦路と呼んだらしい。

国家指定史跡になっているので、道路脇に案内表示(下写真)はちゃんとあったが、その後が何も無い。

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何箇所かで枝分かれする道を何度も行きつ戻りつしながら、30分以上かけてやっと城跡にたどり着いた。 事前に調べた古い情報によれば、城壁はほとんど崩壊して残っておらず、土塁や僅かに残る石塁くらいの筈であったが、何時作ったものか、綺麗な石築の城壁(下写真)が数100mも再現(?)されていて、ちょっと興醒めした。

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発掘調査の結果、当初は多郭構造の山城と思われていたのが、時代をそれぞれ別にする三期の城郭であることが分かった。そのうち、一番古いものが山頂363mを囲んだ城壁で、基壇補築が確認されている。これは石築のようだ。出土する遺物は6~8世紀のものが大半とのこと。この山頂式山城を貫通する長方形の包谷式山城が、外周1.148km。こちらは基礎に石築が並べてあって、その上に版築土塁で城壁を作っている。出土遺物は新羅末のものが多いとのこと。

黄海を見渡せる、城の一番高い場所には建物跡の礎石があるとのことだが、夏草ボーボーで見つけられず。しかし、いろいろな模様の瓦片が転がっているのは確認できた。

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▲瓦片。生い茂る雑草の間からでもいくつか垣間見えた。

何となく、山城から海を見てみたかったので、一応目的は達成。山中の栗の木が早くもたわわに実っていて、栗の実がゴロゴロ登山道に転がっているのに驚かされた。韓国の短い秋がもう始まったのを実感した。
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▲城内最高所の建物跡からの眺め

2007年9月2日踏査

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2008年7月 5日 (土)

仁川 桂陽山城(계양산성)~論語の木簡が出た初期百済山城

「最近発掘された百済遺跡」という本を見て、仁川に面白そうな山城を見つけて行ってみようと思った。仁川市北東の桂陽区にある、桂陽山城だ。初期漢城時代(4~5世紀)の百済の土器が出ており、百済の初築の可能性があるとのことである。

仁川市は、江華島と仁川国際空港以外、訪ねたことが無い。
電車を乗り継ぎ、まだ新しい仁川市地下鉄に乗ってソウルから1.5時間ほどで目的の桂山駅に着いた。桂陽山は駅から徒歩5分ほどである。たくさんのハイカーが登山口に向かって歩いていたので、後について行った。

この山城はまだ一部しか発掘されていないが、1.5トン・トラック一台分もの瓦片が出土しており、近くに窯跡があるかもしれないとのこと。
また、石築の井戸からは木簡が出土しており、論語の公冶長編の文章が記されたものがいくつかあり、儒教や漢字文化が伝えられた時期を示唆している。 木簡は五角形に削られていて、五面に文字が記されている。韓国では木簡の出土例がまだ多くないが、このような多角形の木簡はここでしか見付かっていないらしい。書体は魏晋南北朝時代に流行した楷書であるが、これを3~4世紀の百済のものと見るかどうかは異論もあるらしい。

城壁についてはあまり事前情報が無く期待していなかったが、南西側の六角亭前の絶壁に城壁が残っていることが、現地の説明版と写真(下)でわかった。2007_0708_104349aacoloradjusted_800

しかし残念ながら、夏草でびっしり覆われていて城壁全体を見ることはかなわず。かろうじて城壁の端の方に近付くことができて、写真を撮ることができた。小ぶりの四角い切石を積み上げており、古城によく見るタイプである。発掘された土器は今のところ新羅のものが大多数らしい。 Southwallpanorama_1024

この城壁も統一新羅くらいと見るのが無理がなさそうな気がする。他の城壁があったらしきところには、崩れた石塁がところどころ斜面に散乱していた。おそらく北門跡と思われる場所に、特にたくさんの石塁が広がっていた。

この山は水が豊富で、特に緑が濃いと思った。全山、真緑に覆われている感じだ。韓国は岩山が多く、これだけ木々が鬱蒼としているところは久しぶりで、日本みたいだと思った。梅雨空で湿気が多かったので余計にそう感じたのかもしれないが。

曇ってはいたが、それでもなかなかの眺望。近隣住民の人気のハイキングコースのようで、こんな天気でもたくさんのハイカーで賑わっていた。
山城の中は共同墓地になっているのだが、仁川市は墓地の買収と移葬を進めており、ここを2007年中に国家史跡に登録して、2008年から山城の復元事業を本格化させる計画とのことであったが、一年後の今日現在、まだ国家史跡には登録されていないようだ。

2007年7月8日踏査

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2008年6月29日 (日)

幸州山城(행주산성)~文禄の役の古戦場は、三国時代からの古城址

幸州山城はソウルの西隣、京畿道高陽市の、昌陵川が漢江に交わる河口部に小高く盛り上がった徳陽山(標高124.8m)山頂にある。このように支流が本流に交わる部分の丘陵地形は、少なくとも二方面を天然の堀で守られた要害であり、同時に水上交通の要衝でもあるから、三国時代からずっと重要な戦略地点となってきた。

1593年文禄の役では、権慄将軍が籠城したこの山城を、総大将宇喜多秀家、副将石田三成、吉川広家らが率いる三万の軍勢が攻めたが、落とすことができず退却した。韓国では文禄慶長の役での朝鮮側の三大勝利の一つとされ、映画やドラマなどでも大変有名な古戦場である。

しかしこの山城はそのはるか以前からあった古城である。三国時代の土器片が見つかっており、発掘の結果、統一新羅時代の城門跡も確認されている。しかし、文禄の役以前の文献の記録は無く、初築が何時であるのかははっきりしていない。近くの虎巖山城と共通した土器片が多く出ていることから見て、統一新羅初期に羅唐戦争に備えて初築、もしくは整備・再活用された城址ではないかと考えられているようだ。

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▲漢江流域の統一新羅時代の古城址を、幸州山城を中心に赤丸でマークしてみた。右のほうに青丸で印をつけたところは、漢城百済の王城があったと推定される地域。その下の南漢山城が統一新羅時代のこの地域の中心的山城であったと思われる。黄色で囲った範囲は李朝時代のソウル城郭であり、現在のソウル中心部でもある。

映画などでは、立派な石築の城郭が出てきたりするそうだが、この城は土城である。頂上を囲んだ小規模な鉢巻式山城と、その外郭を大きく囲む包谷式山城が組み合わさった二重構造で、外周約1kmとのこと。しかし現状では、1990年代に入ってから復元整備された西門跡を含む版築土塁420m以外には、城壁跡を辿って確認することはできなかった。
山頂付近の散策路では、色々な模様の土器片がごろごろ転がっていた。
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▲復元整備された版築土塁による城壁。発掘調査で、基底部に二段の石列が並べられているのが確認されている。日本の古代山城の土塁の基礎にも類似したものがみられる。土塁の基礎石列にはいくつかの種類があるようだが、やはり元祖は朝鮮半島の古代山城であろう。

2007年7月6日踏査

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2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月20日 (金)

堂浦城(당포성)~臨津江沿岸の古城群-3

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六渓土城からまた北岸に戻り、臨津江沿いに東に進んで順番に見て行く。最初に見た瓠蘆古壘と同様、川に突き出た三角形の地形に作った城跡が二つ続くが、まずは堂浦城。発掘調査時の写真では見事な石垣の城壁が、階段状に三段に築かれているのが分かるが、現状は残念ながら埋め戻されており、なだらかな斜面にしか見えなかった。

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▲▼木が上にちょっとだけ生えている盛り上がりが、城壁である。

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▲対岸を見ると川に面した絶壁が続いているが、この城も同様の断崖状地形の上に位置している。二等辺三角形の長辺二つが、このような高さ13mの断崖で、陸地側の底辺に当たるところに人工の城壁を築いている。最初に見た瓠蘆古壘、堂浦城それに次の隱垈里城はどれも同様な地形上に築かれており、この特異なプランだけ見れば、どれも同一勢力によって同時期に築かれた可能性を窺わせる。高句麗による対百済の、南侵戦略拠点であったのかもしれない。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 8日 (日)

六渓土城(육계토성)~臨津江沿岸の古城群-2

臨津江沿いに、瓠蘆古壘から始めて東に向かって順番に城址を訪ねた。Yeonchun_map_rev2_1024

瓠蘆古壘の対岸に対峙する位置にある二残眉城は、残念ながら韓国軍の基地になっていて、一般人は入ることができない。その東にある、六渓土城を目指した。蛇行する臨津江が北に大きく湾曲する場所であり、この辺りは浅瀬になっていて、朝鮮戦争の時には北朝鮮の戦車部隊が渡河したところらしい。当然、戦略的に抑えなければならない要地であるが、ここに、平地の土城である六渓土城の痕跡が残っている。

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Google Earthで見るとこんな感じである。岸沿いに、楕円形のような地割りが見える。資料を参考に城壁ラインを辿ってみると、下図のようになる。

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赤線が残存城壁が確認されている部分。黄色は城壁推定ライン。外周約1.7kmで、城内に220mの間隔を置いて、平行する二本の土塁線がある。推定門址は、東西南の三箇所。また、西門跡には東西に長く、南城壁中央まで伸びる低湿地が確認されており、川まで繋がる水路の存在が想定されている。臨津江から直接船で城内に入れるようにしてあったのではとのこと。

このような平地の土城は、三国時代のごく初期に作られたものと見られ、初期百済の王城と推定されている、ソウル市の風納土城が最も有名である。風納土城は規模こそ外周3.7kmと六渓土城の約二倍であるが、川沿い、漢江の南岸に立地している土城で、プランはよく似ている。平地に版築土塁で囲んだ城というのは、中国で発生した城郭という文化が、まだ直輸入状態のようでもある。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 4日 (水)

瓠蘆古壘(호로고루)~臨津江沿岸の古城群-1

持病の腰痛で一月程山城巡りを中断した後、リハビリ程度に、平地の古城をまとめて見に行った。
京畿道漣川郡。大韓民国の最北端、北朝鮮の開城から車で僅か10分ほどの国境地帯である。朝鮮戦争の時にはこの漣川郡を縦断する3号国道を、北朝鮮軍がソ連の戦車T34で南進した。そういうわけで朝鮮戦争の史跡ももちろん多いのだが、ここは遥か1500年以上昔の三国時代に、百済と高句麗が対峙した最前線でもあったようだ。

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▲漣川の観光地図に、古城跡を赤丸で書き込んでみた。クリックして拡大して見ていただきたい。漢江の北を東西に蛇行しながら流れる臨津江(イムジンガン)に沿って、その南北の両岸に10数箇所の要塞や山城跡が残っている。面白いことに、北岸に築かれた城には石築のものが多く、南岸には版築土塁で築いた土城が多い。同じ地域であり、入手できる建築材にも違いがなさそうなところから見ても、築城の先進国であった高句麗が北岸の城を石築で作り、南岸の土城は百済の手によるものではないかと思える。

まず訪ねたのは臨津江北岸の一番西側に位置する、瓠蘆古壘。これはこの地帯に独特な地形を活かした変わった形の城跡である。臨津江沿いは古代の火山活動で形成された火山岩でできた奇怪な形状の断崖や絶壁が多いが、この城も臨津江に突き出した細長い二等辺三角形のような玄武岩の絶壁上に築かれている。ちょうど三角形に切り取られたケーキそっくりの地形で、河に面する約20mの断崖はほぼ垂直である。
城壁はこの二等辺三角形の底辺にあたる、陸側を塞ぐような形で築かれている。なんとも不思議な形状である。

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同じような地形を利用した城跡は臨津江北岸にだけ他にも残っているが、それらと対峙するかのように、南岸にも主に土塁による城跡が残っている。これらの遺跡を見ると、この河が国境であったろうことが想像できる。

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2008年4月13日 (日)

望夷山城(망이산성)~百済の土城を新羅が拡張改築

京畿道安城市一竹と忠清北道陰城郡の境界にある望夷山城を訪ねる。標高472mの山頂にある山城で、百済の築城になる小規模な鉢巻式土城を含む谷を、統一新羅時代の包谷式石城が2kmにわたって囲んでいる。
山頂近くに梅山寺という小さな庵程度の寺があり、そこまで麓から車一台がやっと通れる舗装路が続いている。そこからさらに徒歩で数100m上がれば、望夷山城にたどり着く。
統一新羅時代と言われる石垣は、下層部しか残っていない部分が大半だったが、城門跡三ヶ所や、雉城と呼ばれる城壁の突出部も五ヶ所が残っている。城内は水が豊富で今も水を湛える井戸が残っているだけでなく、小川が流れており湧き水が出るところも数箇所あった。 出土遺物は、青銅器時代後期から、百済、統一新羅、高麗、李朝と継続している。注目されるのは、鉄製短甲が出ていること。Photo 日本の古墳からも多く出土する武具である。青銅器時代の遺物が山頂から出る例は多くないようだが、三国時代以前、この山がどのような場所だったのか、興味深い。

また、残念ながらうまく場所を確認できなかったが、この城内の山頂あたりに李朝時代の烽火台跡がある。東蓬、忠州からの直烽と、南海、晋州方面からの間烽の二系統をソウルの南山烽火台に伝える重要な役割を担っていたようだ。

今ではこれという特徴も無い田舎町であるが、有史以来李朝末まで、交通・通信の拠点として重要な役割を担ってきた地であったろう。

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2007年4月7日踏査

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2008年3月20日 (木)

七重城(칠중성)~ここもボロボロです

京畿道坡州市積城面、七重城を訪ねる。

臨津江沿いの古城の一つで、標高149mの重城山の頂上にある。三国史記で何度も登場する城で、三国の熾烈な争奪戦の渦中にあった場所であり、国家史跡に指定されている。ここで新羅と高句麗が幾度も戦いを繰り広げ、三国統一後は羅唐戦争の舞台にもなっていたらしい。

実際に来て見ると、なるほど、たったの149mの高さとは思えない眺望の良さ。南北の陸路を遠くまで見通すことができ、臨津江の動きも見張ることが出来る。
この地の利は朝鮮戦争でも変わらず、国連軍の英国軍一個大隊がこの山に駐屯し、三万人余りの中国人民解放軍との戦いに臨んだとのこと。国連軍と言ってもほとんど米軍だろうと思ってしまうが、実際には複数の国が軍を派遣していたのだと実感する。

おそらく朝鮮戦争とその後の韓国軍の陣地造成に伴って、城跡はほとんど破壊され、残っていなかった。ごく一部に城壁の断片が残るのと、無数の土器片が散在していることが、わずかに昔をしのばせる。遺物は大半が新羅系のもの。高句麗のも少しでているらしいが、百済の遺物は出ていない。

山の頂上の外周には塹壕が張り巡らされているが、この陣地では塹壕の補強に、元の城壁の積み石と思われる石が大量に転用されていた。他の陣地では古タイヤで補強されているのをよく見るが、ここには城壁の石がふんだんに残されていたので、それをそのまま流用したのだろう。 トーチカの内部を覗いてみると、臨津江の向こう岸の地形と、敵陣らしきものが色付きで書かれていて、矢印が何本か敵陣に向かって記されている。大きな銃眼の両側には古臭い書体のハングルで、左に「初弾命中」、右に「初戦撲殺」と殺伐とした標語が書かれている。

近代戦の戦跡地は、どうも生々しすぎる。

2007年3月17日踏査

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2008年3月 5日 (水)

城洞里山城(성동리산성)~好きな所からまっすぐ登れ!

京畿道泡川市永中面城洞里。
東西南北の道路が交わり、臨津江に通じる支流が流れる小さな町。2006年末に出た「임진강주변 고구려城을 찾아서(臨津江周辺の高句麗城を訪ねて)」という本で、ここに古代山城の城壁が残ることを知って訪ねてみた。一ヶ月前に訪ねた泡川半月城の北、10数kmのところだ。
泰封山(標高180m)の山頂に周囲約400mほどを石築で囲んだ山城である。多様な土器片、瓦片が出ているが、統一新羅時代のものが主流とのこと。高麗以降のものは出ていないようだ。

本に書かれている説明と、ネットで探した断片的な情報をもとにバスで近くまで行ってみる。農作業をしている人をつかまえて聞くと、どの山かはすぐに分かった。2007_0303_151543aa_800
登山口を訊いたが、あのくらいの山、適当に正面から直線で登りなさい!大丈夫。といい加減な答え。しかし登山道が整備されるような山ではないかもしれないと思い、ままよと思って、道路に面した東側斜面を、ほぼ直線コースで登り始めた。
しかし、これは思ったよりきつかった。 2007_0303_152847aa_800_4
上に行くほど急斜面になり、後半は四つんばいで這い上がるようにして、少ない木の幹や岩を手・足がかりにしながら、なんとかかんとか20分くらいで登り切った。汗びっしょりである。

ほぼ登り切ったところで目に飛び込んできたのが東壁だ(下写真)。もっと近づいて正面から撮ろうと思ったが、城壁周囲は急斜面になっていて、足場が崩れやすく、これは本当に危険で諦めた。2007_0303_153658aa_800 ちなみに前記の本ではこの城壁を真正面からカメラに収めている。よく読むと、足場の傾斜が厳しくて、ずるずる滑り落ちそうに、と書いてある。危ない、危ない。よく撮ったものだ。
城内に入ると、さらに驚かされた。ここは韓国軍の要塞である!城壁に沿った頂上の外周全てに1~2mの深さの塹壕が掘られており、古代の城壁が、コンクリートと古タイヤで構築された現代の要塞と一体化している。2007_0303_154348aa_800 無人ではあったが、最近まで使っている様子で、ちゃんとメンテナンスされている。塹壕には10mおきくらいで、銃眼のついたコンクリート製の詰め所が作ってある。数えなかったが、30箇所くらいはあったと思う。
肝心の古代山城の城壁は、最初に見た東壁以外に北壁がよく残っていた。それ以外の部分は、この韓国軍の陣地で壊されていてよくわからなくなっていた。頂上の平地にはコンクリート製のトーチカ(上写真)まであり、まるで秘密基地だ。

東から入って北、西と巡り、南側の城門跡近辺にまで行くと、開けたゆるい傾斜になっていて、韓国軍が整備したと思われる登山口があった。ここから登ってくれば楽だったろうが、東の城壁は見つけられなかったろう、と思った。

下山すると、農家の爺さんから何しにきたんじゃ、と訊かれる。山城を見にきた、立派な城壁だったというと、嬉しそうに、本見てきたのか?そうだ、ちゃんと史跡に指定して管理すべきなのに、全然なってないんじゃ、と悔しそうだった。
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▲北壁をパノラマで。2007年3月3日踏査。

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2008年3月 1日 (土)

坡州龍尾里石仏立像(파주용미리석불입상)~イザベラ・バードが見た石仏

坡州市で統一展望台や月籠山城を訪ねた帰りにこの仏像を見に行った。ソウル・坡州間のバス・ルート上にあって、途中下車したバス停のすぐ近くだった。

これはなかなか見応えがあった。高麗時代の石仏だが、土俗的な顔立ちの中にもかなり洗練された印象を受ける。高さ17.4mで、近くで見るとかなりの迫力。韓国で、他にこれに類した石仏を見たことが無い。

19世紀末の興味深く貴重な朝鮮紀行文である、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」に、この石仏が詳しく描写されている。1895年、ソウルから開城へ向かう道中の記事の中に挿絵付で紹介されている。朝鮮各地を旅行しながら、あまり史跡や遺跡にお目にかかれなかった彼女に、とても印象深かったようである。森から頭二つを突き出すこの仏像の挿絵を見て、実物を探して見てみたところ、このようにちゃんと残っていた。しかし顔面をよくみると、疱瘡の痕のように黒い点がいくつも。朝鮮戦争の時の弾痕かもしれない。

坡州から臨津江を越えれば、開城はもう目の前である。もちろん、バードは開城、そして平壌まで北上しているが、同じように旅行ができないのが100年後の現在かと思えば、実に残念なことである。バードはこの平壌へ向かう旅の途中でいくつかの山城跡も見ているが、うらやましい限りだ。

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2007年3月1日踏査

朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫) 朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

著者:イザベラ・L. バード
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2008年2月20日 (水)

月籠山城(월롱산성)~漢城百済の痕跡-7

坡州市統一展望台のある烏頭山城から東数kmの標高218mの岩山の頂上に、月籠山城がある。外周1.3km。百済が4世紀頃に築いた山城址と言われている。
築いたと書いたが、城壁らしい遺構はほとんど残っていない。まず、この山の頂のかなりの部分が数10mの絶壁に囲まれていて正に天然の要害である。人工の城壁を築くまでもなかったろう。また、絶壁になっていないところには城壁を築いた筈であるが、そこには韓国軍が古タイヤで築いた塹壕が構築されていて、もとの状態がどうだったのか想像するのは難しい。岩を階段状に削った城門址が二つあると聞いたが、ちょっと素人には判別できなかった。

本格的な発掘はまだされていないが、2002年と2003年に地表調査が行われている。収集された遺物は土器片が中心で、若干の瓦片、鉄器、陶磁器片も出ている。土器片1,193点が収集されたが、焼成温度の高い硬質土器が959点で大部分。文様は様々なものが出ているが格子文土器が多く、漢城百済の代表的な遺跡とされている夢村土城や風納土城から出る土器と共通性を見せているとのこと。高麗時代、李朝時代の土器・陶磁器も少し見つかっているが、大部分が4~5世紀の漢城百済時代の土器片と見られている。

韓国軍の手がかなり入っていたり、頂上の平坦地に公園が造成されたりしているので、ほとんどの遺構が破壊されている可能性もあるが、本格的な発掘調査が待たれる。

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2007年3月1日踏査。上写真は月籠山頂上と20mを越える断崖。

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2008年2月10日 (日)

烏頭山城(오두산성)~漢江と臨津江の交わる国境地帯

京畿道の北西部、坡州市にある烏頭山城を訪ねる。
この地域は漢江と臨津江が交わり、海につながる交通の要衝であり、三国時代から現代まで熾烈な戦闘が繰り返されてきたところである。

現在、この山城跡には統一展望台が建っている。展望台に上って河向こうの北朝鮮を望み見ると、右に臨津江、左が漢江で、正面の陸地が北朝鮮となる。この山城はこの二つの大河が交わるところに突き出た岬のような地形になっている。標高119mに過ぎないが、周囲に高い山が無く眺望は極めて良い。この辺りで要塞を作るなら正にここしかないだろう。

発掘された遺物も、この交通の要衝だけあって三国時代から李朝時代のものまで連続している。李朝時代から、この城の立地から推測して、392年に高句麗軍が20日間で陥落させた百済の関弥城に比定されてきたが、今のところそれを積極的に裏付けるような遺物は見つかっていない。遺物中、注目されるのは「元泉」「泉井」「草下」などの銘文が刻まれた瓦片。676年に、新羅が唐との決戦の前に戦った「泉城」との関連が指摘されている。

肝心の城の遺構であるが、残念ながら北側駐車場裏の斜面に10数m、ほんの数段の石積みが残るだけである。朝鮮戦争の際、激しく破壊されてこれしか残っていないとのこと。それ以前の写真があれば是非見てみたいものだ。

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2007年3月1日踏査

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2008年2月 3日 (日)

雪城山城(설성산성)~漢城百済の痕跡-6

京畿道利川市の雪城山城を訪ねる。近くに雪峰山城がある。どちらも雪にちなんだ名前だ。利川市は全体に低い山がちらばる内陸の平地だが、確かにソウルと比べると雪がよく振る。たぶん大昔からそうだったのだろう。

雪城山は、標高290.4mのなだらかな山。山城は、頂上と隣の峰との間の谷を、石の城壁で約1kmに渉って囲んでおり、包谷式山城と分類されている。

1999年から始まった本格的な発掘調査が今も進行中である。3次調査までの2003年の調査報告書がネットで公開されていて、これが中々面白い。あくまでも途中経過の報告で今後の発掘調査完了まで結果は出せないと断りつつも、以下のような見解が述べられている。

1.発掘調査結果、最初に土城があって後から石城に改築した形跡は認められない。
  当初から石城として築いた可能性高い。
2.城壁基底部から出土する土器は4~5世紀の百済様式である。
3.新羅の土器は9世紀のものが中心で、8世紀のものが出ていない。
4.現時点で出土した土器の量はは百済式のものが大多数である。

4~5世紀というと、百済が最初の都を漢城(今のソウル)に構えた時代である。その頃の百済の城といえば版築土塁や木柵による土城ばかりで、石城はまだなかったのでは、と言われて来たが、この雪城山城の発掘調査によって書き換えられていくかもしれない。
近くの雪峰山城も、雪城山城と似ている点が多いとのことで、そちらの調査結果も見直すべきだとの話しが出ているらしい。

全7回の計画になっている今後の発掘調査結果が楽しみである。
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2007年2月24日踏査

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2007年12月23日 (日)

楊州 大母山城(양주대모산성)

ソウル市の北、京畿道楊州市にある大長今テーマパークへ家族で出かけた帰りに、楊州大母山城に立ち寄った。

楊州大母山城は、標高213mの大母山の山頂を1.4kmに渉って囲んだ石築の山城である。この城から発掘された遺物は、百済、新羅、高麗、李朝のものだけでなく、先史時代の半月形石刀も出ている。実に先史時代から現代に至るまで人が住み続けた土地である。西門から見晴らした写真でも分かるように今も大半が農地。肥沃な土地なのだろう。
城壁は、大半が崩れて石材が山肌に散乱しているが、城壁の下層部は何箇所かでよく残っていた。東、西、北の3箇所の城門址もよくわかる形で残っている。城門は、懸門式でハシゴを掛けて城内に入るタイプ。 外壁下部には補築城壁と呼ばれる補強の為の補助城壁が積まれており、懸門式の城門と共に新羅の古城によく見られる様式である。

この城は、670~676年まで続いた新羅・唐の戦争の終盤、最大の陸戦が行われた買肖城の比定地候補である。675年の買肖城の戦いで、新羅は唐の陸軍20万を撃退、翌年には錦江の河口で海軍も打ち破り、完全に唐の勢力を駆逐して戦争が終結した。663年、日本軍が百済復興の為に出兵して敗れた白村江の戦いからも10年以上が経過している。

今も韓国に数多く残る新羅様式の古城の内、かなりの部分が、この7年も続いた羅唐戦争に備えて作られたものかもしれない。日本でもこのような不安定な緊張が続く大陸・半島の情勢を受けて、この期間に古代山城が大和朝廷の手によって西日本各地に作られていく。

2007年2月18日踏査

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2007年12月22日 (土)

江華島 三郎城(삼랑성)

三郎城は、江華島の南に位置する標高222mの山頂を2kmに渡って石築の城壁で囲んだ山城である。いつ築城されたものか分かっていない。高麗時代の史書によれば、建国の神である檀君が三人の息子に築城させたので、それにちなんで三郎城と呼ばれているそうである。当初は土築で後に石築になったらしい。李氏朝鮮末まで改築・修築を繰り返して使用されてきたためか、城壁の石の積み方は場所によってまちまちな印象がある。三国時代に最初に築城されたのではないかとの説があるがはっきりしない。
城内には高麗時代の仮宮の跡、やはり高麗時代の寺である伝燈寺、李朝時代の王家の史書や族譜を保管する史庫があった。

写真の南門楼閣は、李朝時代の城門を1976年に復元したものだが、ここで1866年にフランス軍との攻防が繰り広げられ、朝鮮軍が勝ってしまった。勝ってしまった、というのは、ここで薩摩や長州のように負けていれば、もっと早く欧米列強の近代化の力に気付いたのではないかということ。1500年以上も築き続け、朝鮮全土に2000箇所も残ると言われる山城。その長い歴史の最後の最後に、外敵を撃退するのに大きな役割を果たしたようだ。しかし、その結果が、近代化に遅れを取った一因になったとしたら皮肉なものである。

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2007年2月16日踏査

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2007年11月17日 (土)

泡川 半月山城 (반월산성)

ソウルから北に50kmほどの京畿道泡川市に残る、半月山城を訪ねる。地下鉄1号線議政府駅からバスで50分程北上した泡川市中心街から、川を挟んですぐ東側、青城山(283m)の頂上にある。 外周1,080mの石築山城だ。

李朝初期に修築した記録があり、言い伝えでは後高句麗の弓裔が築いたとのことだが、1995年から2001年まで6回に及んだ発掘調査の結果、それより遥かに古い城であることが確認された。発掘された遺物中、最も古いものは4世紀後半、漢城時代の百済土器である。長卵形土器などが出ている。続いて高句麗系の土器、新羅、統一新羅、高麗、李朝と、ほぼ全ての時代の遺物が次々に発掘された。そのうち、第1回の発掘で発見された銘文瓦が特に注目を集めている。「馬忽受蟹空口単」と書かれており、これは三国史記にある高句麗の地名、馬忽郡のことと考えられ、泡川が馬忽の地であることの裏付けになると考えられている。“受蟹空口単“は、馬忽の中の地名であろうとのこと(チェ・ビョンシク「最近発掘された百済遺跡(2007年)」)。

三国時代の山城としては大きい方で、周囲1,080mである。稜線に沿って細長く伸びた形状から半月城と呼ばれている。 眺望が四方に開けて天気が良ければ中々の景観だったろうが、残念ながらぐずついた曇り空だった。 近所の住民のハイキングコースになっているようで、朝から散歩する人たちが多かった。

現在残る城壁が何時の時代のものなのかは意見が分かれるようだ。懸門式の城門や、城壁基底部の補築などは新羅の山城に多く見られる特徴だが、百済土器はこの懸門式の城門の基底部から出ていたりして、どこからどこまでが何時の物か確定するのはかなり難しいだろうと思われる。

城壁は発掘調査後、かなりの部分が復元されていてあまり古城の面影を感じさせない。東側城壁の大半は失われていて、城の外周の全てを辿ることが出来なかった。

京畿道北部には高句麗の痕跡を残す遺跡が多く残っているが、規模としてはおそらくここが最大であろう。この城が百済から李朝時代まで継続して1,500年間も活用され続けたことから見ると、かつてこの地が南北の交通の要衝としていかに栄えたであろうかが想像できる。しかし北への交通が途絶え、単なる北辺の地に成り果てた今の泡川にはその面影も無く、寂れた地方都市の一つである。

2007年2月3日踏査

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2007年10月 3日 (水)

塹星壇(참성단)~檀君神話の聖地

これを書いている今日は、韓国の数少ない祝日の一つ、開天節である。檀君神話に基づいた、古朝鮮の建国を祝う日だ。この日には檀君が祭天の儀式を行ったという伝説が残る、普段は立ち入り禁止の塹星壇と呼ばれる祭壇が解放される。

この塹星壇は江華島の南部、標高468mの摩尼山の頂上にある。檀君が天を祭るために作ったとの伝説だが、いつ作られたものか明らかでない。史書に残る一番古い記録は李朝初期らしい。恐らく高麗時代に作ったものであろうか。記録上では、醮祭という、道教式の星に関する祭祀を高麗、李王朝が行っていたようである。

岩山のてっぺんに石築で作られているが、下段部は楕円形に、上段部は方形をなしている。円形は天を表し、方形は地を表すとのことだが、こんな様式の祭壇は他で見たことが無い。誰がどういう思想でこういう構造物を山頂に築いたのか、当初はどういう祭祀がここで行われていたのか、非常に興味深い。

遺跡保存のために1月1日の初日の出と開天節の10月3日以外は立ち入り禁止になっており、柵の外から見るしかない。
しかし離れて見ても、古色蒼然として何だか妖しいオーラがむんむんしている気がした。霊気溢れるこの場所は、檀君を信仰する人たちの聖地であり、韓国で一番の強い気が集まるスポットだそうである。

2007年2月16日踏査

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2007年6月25日 (月)

利川 雪峰山城 (설봉산성)~漢城百済の痕跡-4

東ソウル・バス・ターミナルから高速バスで東南方向に1時間弱で行ける京畿道利川市は陶磁器と温泉で有名で、観光コースにもなっているところ。雪峰山城は、陶磁器エキスポが開催された雪峰公園一帯の、低くなだらかな山の頂にある。利川バス・ターミナルからタクシーで10分とかからない。

三国時代の土器が多数発掘されており、城壁基底部から出た土器から見て、4世紀頃の漢城百済の山城との説が有力になってきている。ここから出た土器は、4~5世紀の百済系のものと、6~8世紀の新羅系のものが多い。高句麗系の土器は出ていない。発掘計画は全7回で、既に6回の発掘調査を終えている。一方で、その頃の百済なら土城がほとんどで、石築山城の技術はまだ無かったはずとの意見も根強いらしく、学会の意見が分かれているように見える。私見では、木簡や碑文などの文字資料が出ない限りは、ものさしとして使えるのは土器の編年しかないのであるから、まずはそれに従うべきだと思うのだが。反論があれば土器の編年を崩す論証を上げないと意味が無いと思う。

こういう見方で近年の山城の発掘成果を見ていくと、京畿道から忠清道にかけての南漢江流域に、初期百済の手になる山城と見てよさそうな城跡が増えてくる。これまで石築の古城と言えば、新羅か高句麗か、という目で見られていたようだが、4世紀の漢城時代の初期百済が相当な実力と高い築城技術を持っていたことが明らかになりつつあると言って良いだろう。

さて、この城は周囲1kmくらいの山城だが、1/3ほどが復元された真っ白い城壁で、公園としてよく整備されている。しかし、どうしても昔の城壁が残っている部分が見たくて、藪の中に棘を掻き分け掻き分け歩き回り、やっと見つけたのが僅かに北側に残る城壁の一部と、西側崖下の少し長い城壁だ。城内には建物跡や烽火台跡、八角形の社稷壇などが残る。そして驚いたのは城内に積み上げられた大量の土器片。最初、なにかの土俗信仰に関連したものかと思って近づいて見たところ、様々な文様が表面に刻まれた土器片の山でびっくり。まわりにもかけらと思われるものがポロポロ落ちていた。

2006年11月25日踏査

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▲雪峰公園の湖と、雪峰山。

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▲雪峰公園案内図。山城は右端の方にある。

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▲20分ほど登ると、東門の復元された白い城壁が見えてくる。

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▲東門

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▲史跡第423号 雪峰山城解説版

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▲東門から見渡した利川市内

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▲東門付近

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▲カル・パウィ(刀岩);この付近に建物跡などがある。

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▲カル・パウィ(刀岩)の後ろから利川市内を望む

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▲烽火台 李朝時代のものか

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▲社稷壇;八角形の石積みの祭壇。ソウルの王宮の西にある李朝時代の社稷壇とは形状も大きさも異なる。いつの時代のものだろうか。

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▲中国の春秋戦国時代に始まった社稷信仰は、朝鮮には三国時代に伝わったとのこと。

社=地の神、稷=穀物の神であって、先祖の宗廟とあわせて国家が祭るべき神である。日本には社稷ということばだけが国家を表すものとして伝わっているが、信仰自体は受け入れられなかったのだろうか。

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▲社稷壇のあたりから市内を遠望

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▲▼東西14.3m、南北5.7mの南将台址。統一新羅末頃の見張台である。

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▲城内の建物跡などを見た址で、東門にもどり、左回りで城壁を一周して見る。

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▲▼2006_1125_084158aa_800 北側に回りこむ途中の急斜面に石垣が僅かに残る。

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▲復元城壁部分

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▲土器片の山

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▲いろいろな模様の土器が混在している。

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▲土器片はいくらでも散らばっている。こんな白っぽいのもある。

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▲井戸の跡。今でも水が湧き出ている。

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▲北側に残る古い城壁

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▲よく整えた形状の長方形の石を「品」字型に積み上げている。

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▲復元された北側城壁。斜面や大岩のある地形に沿って城壁を構築している。

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▲▼わかりにくいが西側の谷に積まれた城壁が下に見える。

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▲▼下まで降りて西壁に近付くが、潅木が密集していて容易ではない。

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▲古い西壁の真ん前まで何とか近付く。切石は大きさが完全に規格化されてはいないが、厚さは同一にそろえたものを積んでおり、ほぼ水平になっている。やはり品の字型に積んでいる。

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▲▼同じ場所から左右を写す。

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▲城壁の回りこみ部分。2006_1125_094653aa_800_1

▲▼一周して東門に戻る。

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▲城壁は数度の修・改築を経ているらしいが、近年の復元部分と古い城壁の区別しかできなかった。より古い部分は下層に埋め戻されているのかと思う。地形は意外と複雑で、城壁が途切れている部分も多く、全体の構造が今一つ掴めなかった。

2007年6月16日 (土)

北漢山城と新羅眞興王巡狩碑 (북한산성 과 신라진흥왕순수비)

北漢山城である。現在残る山城は、李朝時代の1711年に築造されたもので、全長12.7km。景福宮の後方、北側にそびえる、白い岩肌が目立つ北漢山(836m)にある。山自体が険峻で天然の要害となっているので城壁自体はそれほど高く積まれていない。登山案内のサイトによると、城壁を一周するにはいくつもの峰を越えねばならず、経験者と一緒に一泊二日でいくべきとのこと。 今回は南西の山麓に住む友人と一緒に彼の家の近くの登山道から入った。かなり遠回りのコース。城外に残る新羅眞興王巡狩碑(写真)がある碑峰(560m)を攻めてから、南側の城壁を廻った後、東門から城内に入り、王の離宮址を過ぎて城内を一直線に抜ける道を通り、西門から下山するコースを取った。全長何kmだったのか、6時間を超える行程で最後には足腰がガクガクになった。

北漢山には最初に百済が山城を築いたと言われているが、その頃の城跡がどこなのかは判明していない。最も時代が古く年代が明らかな遺跡としては、今回訪ねた新羅眞興王巡狩碑がある。6世紀に新羅が高句麗と百済に勝って漢江流域を獲得した記念に作った石碑である(新羅が高句麗と百済を滅ぼすのはそれから更に100年後)。この石碑、19世紀までその存在を忘れられていた。こんなに目立つ場所にあるのだが、そんなに古いものだとは誰も思わず、ろくに関心を持たれなかったのだろう。発見したのは、李朝後期の実学者で書芸家で金石文学者の秋史、金正喜。写真で見ての通り岩山のテッペンに据え付けられており、ここまで這い登るのは、経験者と一緒でなければ難しい。ちょっとしたロッククライミングのようで、両手両足を駆使して足場を慎重に探りながらやっと登りきった。登山靴とはこうやって使うのかと初めて分かった。1人でここまで登りきる経験も根性も無いのでガイドしてくれた友人に感謝。ちなみに今ある石碑は、この一ヶ月前に据え付けられたばかりの精巧なレプリカ。それまでは新羅眞興王巡狩碑遺址とだけ書かれている簡単な記念碑が置かれていた。本物は傷みが激しく、70年代から保存のために国立博物館で展示されている。 ちなみに眞興王巡狩碑は、他にも3つ、当時新羅が新たに獲得した各地に残っているらしい。三国時代の史書が現存しないので、こうした数少ない石碑の金石文や木簡などの考古資料だけが一次資料としてリアルタイムの三国時代を伝えてくれる。そういう意味で大変貴重な物である。

2006年11月18日踏査

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▲南西の登山口から登りはじめて、最初の峰の上からの眺め。

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▲尾根伝いに北漢山城に向かって北上する内に、遠くに碑峰が見えてくる。頂上に新羅眞興王巡狩碑が立っているのが小さく見える。

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▲碑峰を這い上がる友人。良く見ると下のほうに柵が見える。後から聞いたがこの南側の登り口は立ち入り禁止で、ここで命を落とした人もいたとのこと。決して真似しないでください。上に上ってから気付いたが、普通の登山客はこの真後ろ、北側からアプローチしていた。そちらはいくらかマシだが、それでも登山靴は必須。

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▲ひと月前に設置されたばかりの眞興王巡狩碑レプリカ。中々よく出来ている。秋史はよくこんなところまで登って調査したものである。

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▲登山客がいなくなった隙にやっと撮った。絶景。

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▲さらに尾根伝いに北上する途中で見た奇岩。

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▲やっと北漢山城の南側城壁、暗門の一つにたどり着く。

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▲暗門の解説版。青水洞暗門と名付けられている。

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▲尾根伝いに城壁が遠くまで連なっている。

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▲少し霞んでいたが、とにかくどこを見ても絵になる絶景。朝早く出発したのでマイペースで動けたが、遅くなると登山客で渋滞するほどとか。ソウル市民に人気の登山スポットである。

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▲大南門が見えてきた。

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▲「北漢山でイノシシに出会ったら・・・・」 虎が絶滅した後、韓国の野生動物ではイノシシが最強か??野生の熊の被害の話しはほとんど聞かない。

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▲大南門

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▲▼城壁は延々と続く。

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▲輔国門

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▲大東門。ここから城内に入って西門に向かって縦断した。

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▲▼行宮址。1915年8月の集中豪雨で消失した。

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▲中城門。1712年、城内にさらに内側の城郭である中城を築いた。

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▲▼中城門を外側から見る。切石で組んだ18世紀の堅固な城壁。左側に水門。

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▲下山して麓までくると飲食店が密集している。登山客に人気の山でよく見られる光景。

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▲豆腐屋で豆腐キムチを肴にマッコリを飲む。美味かった。

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▲チヂミ。表面がカリっとして香ばしい。これも山で飲むマッコリの肴の定番。

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▲下山して山を振り返る。

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▲後日、国立中央博物館で眞興王巡狩碑の実物を見る。一階、金石文の部屋の中央に鎮座している。

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▲碑文はかなり磨耗して判読が難しい。1500年間も山のテッペンで野ざらしになっていたにしてはよく残っているというべきか。朝鮮戦争の際にも破損したらしい。秋史が発見したときはもう少しマシな状態だったろうか。

2007年6月10日 (日)

婆娑城 (파사성)

この頃までに近場の目ぼしい山城は大体行ってしまったので、少し足を伸ばして、ソウルからバスで東南へ1.5時間の京畿道驪州郡にある、婆娑城を訪ねた。標高230mの山頂を全長943mの城壁で囲んである。これも何時作られたか明らかでないが三国時代、新羅の城ではと言われている。記録としては文禄慶長の役の際に僧兵達がこの城を修復したとのこと。
またこの城については風変わりな伝説がある。新羅五代婆娑王の頃、男将軍と女将軍が賭けをした。男将軍が下駄で中国まで行って来る間に女将軍が山城を完成させられるか、というもの。結果は女将軍の負けで、城は未完成に終わったという。女将軍はスカートで城壁の石を包んで運んでいた途中に男将軍が帰国した話を聞き、驚いた拍子にスカートは破れ、石は転げ落ちて石垣になった。xx村の石垣はこうしてできたものだ。
なんかピンと来ない不思議な話である。未完の状態で長く放置されたことがあったのだろうか?
現在は城壁の1/4程、北(北西)側が主に修復されている。他の城壁は半ば崩れた形だがよく残っている。驪州郡は全ての城壁を修復して観光資源としたいとのことである。
他の山城同様、期待した通りに山頂からの眺望が素晴らしかった。快晴の中、山城の北側を流れる南漢江の鮮やかな青と山の緑、城壁の灰色のコントラストがくっきりして、写真も撮りまくり、満足して帰宅の途についた。
それにしても自分以外に誰1人としていなかった。城壁の修復に結構お金掛けてると思うのだが。景色も良く、小規模ながら中々立派な山城なのに勿体無いことだ。

2006年11月11日踏査

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▲山の麓の案内表示。山頂まで1km、徒歩20分ほどだ。

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▲こんな山道をひたすら登っていく。

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▲本当に城があるのかと不安になったころ、坂の上の方に忽然と目に飛び込んでくる南門址の石積み。

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▲南門城壁を側面から。この先10mくらいのところに水門が残っているらしいのだが、雑草と木々が鬱蒼と茂っており、とても先に進めなかった。

また、この南門の内側の平地には、直径5mくらいの貯水池跡があるとのことだが、これも見逃してしまった。おそらく、城壁の水口と対になったものだろう。

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▲南門址には、このような八角形の門支柱が両脇に二本残っている。李朝時代の楼閣の門柱に良く見るものだ。この城門自体が李朝時代のものであろう。

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▲婆娑城の説明版。史跡251号。

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▲城の北方は、南漢江を見下ろすことができる。素晴らしい見晴らしだ。

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▲綺麗に復元された北側城壁。

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▲松の木を切り倒さずに残したままで城壁を復元しているのがほほえましいというか。

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▲城壁の登り口が階段状に復元されているが、元からこういう構造なのかどうか分からない。

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▲北側城壁の張り出し部分、雉城跡か。保護のためのビニールシートがかぶせられている。

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▲北壁の部分部分に古い城壁が残っている。

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▲城内の一番高いところが山頂だ。平坦地になっているが、整地して望楼などがあった場所かと思われる。

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▲城壁が北から東に曲がる部分を上から見下ろす。

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▲▼同じ部分を下から見上げる。

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▲▼東門址。

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▲▼東側城壁はところどころよく残っており、近年の補修の手が入っていない。

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▲▼城壁に沿って進むが、段々潅木や雑草に阻まれて進みにくくなってくる。

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▲これ以上進むのを、とうとう断念。バラの一種と思われる潅木の棘だらけの枝が、もう避け切れないほど密集していた。刺さると結構痛い。鎌か大型のナイフでも持参して切り落としながら進むしかなさそう。これは結構、どこの山に行っても生えている。

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▲もう一度山頂付近に戻って、南漢江を見渡す。

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▲帰りは復元された北壁に沿って下山した。

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▲このなだらかな山の頂上に婆娑城がある。驪州のバス・ターミナルから市内バスで北に20分くらいの場所。登山口の近くに鄙びたバス停があるが、30分ほどまってようやく帰りのバスが来た。

2007年6月 3日 (日)

三田渡碑 または大清皇帝功徳碑 (삼전도비)

1636年、清の太宗ホンタイジが江南にやってきた、というと何やら妙に現実味が湧く。南漢山城に行った時に、「丙子胡乱の時に仁祖が籠城した」と説明版に書いてあるのを見て 丙子胡乱って何だ?と思い、調べて見たら怖い話。
 後金が清朝となり、中国皇帝を宣言したのを16代朝鮮王仁祖は認めなかった。中国皇帝は漢民族の明の皇帝だけで満州族は野蛮人だと。怒ったホンタイジは10万の兵で自ら朝鮮を攻め、わずか5日間で漢城を陥落。仁祖は漢江の南、三田渡でホンタイジに三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)という中国皇帝に対する臣従を示す礼を取らされた。さらに膨大な賠償金、王子を含む多数の人質などなどを差し出すことに。とどめがこの石碑を作らされたこと。「大清皇帝功徳碑」という恩着せがましい名称を見て分かるとおりの内容。仁祖の詫び状と、慈悲深く徳に満ちたホンタイジを褒め称える文章が、くどくも漢語、モンゴル語、満州語の三ヶ国語で書かれている。韓国ではあっさりと、三田渡碑と呼ばれる。
朝鮮の支配権を争った日清戦争で清が負けると、この屈辱的な石碑は清の使節をお迎えした迎恩門と同様に倒された(西大門区の独立門前に支柱のみ残存)が、その後、日本支配時代に日本人により元に戻されたという(これはやはり嫌がらせか)。日本の敗戦で、また倒されて捨てられるが、1960年代の漢江の洪水で再発見され、現在に至る。
何度捨てても蘇る不気味な石碑。朝鮮にコケにされたホンタイジの怒りの怨念は300年以上消えないのか??

百済の積石塚古墳がある石村洞の住宅地の児童公園にポツンと残っている。驚くのは、ホンタイジに土下座する仁祖のレリーフが横に併置されてること。自虐的に見えるけど、韓国側からすると、あの恨みと屈辱を忘れるな!って感じなのだろうか?・・・・どちらも恐ろしい。

それにしても、日本は島国で大陸と直結してなくて良かったなぁ、とつくづく思わされた。

2006年11月12日踏査

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▲地下鉄8号線石村駅6番出口から石村洞古墳のある西に歩いてすぐの路地を入る。路地の入り口にこの案内表示もある。

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▲住宅街の中にポツンと立っている。

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▲中国皇帝を象徴する龍のレリーフ。

2006_1112_150653aa_640▲漢字で大清皇帝功徳碑と読める。漢語が裏面になっている。

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▲ホンタイジに臣下の礼をとらされる仁祖のレリーフ。三田渡碑から少し離れたところに設置されている。「三田渡の受難」というタイトルと説明文、1982年12月の日付があった。

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▲石碑の台となる石亀は二つあるが、もう片方にどんな石碑が乗っていたのか分からない。

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▲満州文字かモンゴル文字のどちらかだが、筆者には区別できない。こちらが表面になる。

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2007年6月 2日 (土)

南漢山城 (남한산성) ~17世紀、山城の集大成

李朝時代の代表的な山城。これまで見に行った三国時代の山城とは違って後代にできただけに、流石に山城の集大成・完成形という感がある。首都ソウルの北に位置する北漢山城とあわせて、南北から首都を防御する要の城塞として機能した。
全長7.5km、規模も大きく、内部には王の離宮、寺、見張り台、貯水池などの施設が並び、4つの城門も城壁も立派なものである。避難用の秘密の門であった、暗門もいくつかある。南門から城壁に沿って西回りで北門まで約半周を回り、そこから城内をショートカットして東門を見た。これでほぼ半日かかった。

この城、こんなに立派なのに初築年代がはっきりしていない。かつては百済の城があったのではと言われていたが、それを裏付けるようなものは見付かっていない。三国史記で、新羅文武王13年(673)、漢山州に晝長城(別名日長城)を築いたとあるのが、この城ではないかと言われている。近年の発掘により、城内で統一新羅時代の大型建物跡が見付かっており、少なくともその時代までは遡るようだ。 高麗時代の記録は無く、その次はいきなり李朝初期の1410年、修築を議論した記録に飛んでいる。現在の城壁は、17世紀始めに、後金の侵略に備えて大々的に改築したものである。実際に時の王仁祖は、ホンタイジの軍に攻められてここで40日間籠城した。城自体は堅固で落ちなかったが、江華島を始めとして主要地を落とされたのと糧食の不足から、降伏して城門を空けることになった。

地下鉄8号線山城駅からバスで15分ほどで、城内中心地点のロータリーまで行くことが出来る。ロータリー周辺はたくさんの飲食店でにぎわっている。

2006年11月5日踏査

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▲左下の南門から左周りで上の北門まで行き、中心のロータリー経由で右下の東門を見て帰った。約半日の行程。

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▲城内から見た南門。

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▲いくつもある暗門の一つ。

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▲西側の城壁。

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▲▼西門

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▲西門を遠景で

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▲ソウル市内が遠くまで見晴らせる

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▲西の雉城。城壁の張り出し部で、側面から敵を攻撃するための構造。古くは高句麗の山城から見られる。2006_1105_095229aa_640

▲甕城と呼ばれる構造で、上掲の雉城近くから外側に細長く突き出している。これも城に迫る敵を側面から攻撃するためのものだ。

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▲甕城の先端部

2006_1105_095723aa_640 ▲甕城の先端部から城内を見たアングル。

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▲西門を過ぎると北門に向かって急斜面が続く。石垣は斜面に水平に築き、銃眼を備えた女墻(ひめがき)はレンガで山の斜面に平行して築いている。平衡感覚がおかしくなりそうだ。

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▲▼補修工事中の北門

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▲城内飲食店街の銀杏

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▲ロータリーから東門に向かう道

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▲ちょうど紅葉真っ盛りで行楽客で賑わっていた

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▲▼東門

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▲東門の南側は道路を通すために崩されていた。

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▲東門から南側城壁を見渡す。このあたりが谷になっている。

2007年5月27日 (日)

陽川古城址 (양천고성지)

  陽川古城址は、金浦空港から遠くない、江西区の漢江南岸にある弓山 (74.3m) の上にある。 小さな山であるが、周辺が平坦なため、遠くからでもこんもりと盛り上がったこの山が見えた。平らな山頂をぐるりと囲んだ、鉢巻型と呼ばれる形式の山城である。北側は漢江を見下ろす絶壁で天然の要害になっている。城壁は殆ど残っておらず、残骸かと思われる石が多少転がっているくらい。百済や、その後の統一新羅時代の土器片が見つかっているそうで、古くは百済が対高句麗戦の為に築いたらしい。その後も続けて使われ、文禄慶長の役では義兵の集結地として記録があり、新しいところでは朝鮮戦争で韓国軍が駐屯した。一方でこの見晴らしの良さは戦略的価値が高いだけでなく、絶景としても有名で、昔から有名な文人が詩を読んだり絵を描いたりしたとのこと。
さて、今は近隣住民の憩いの場で、公園として整備されている。この日も幼稚園児たちが遠足に来ていた。のどかで結構。ここにまた軍人が集結することが無いように祈るばかりだ。
残念ながら雨が降る前の曇り空で遠くまで見渡せなかったが、晴天ならばかなりの眺望の筈。

踏査日;2006年11月6日

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▲陽川郷校。李朝時代に各地に作られた儒教教育機関。山城の南側麓に位置する。

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▲陽川郷校を横に通り過ぎると、史跡372号、陽川古城址へ向かう道となる。

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▲ゆるい傾斜の山道を10分も進めば頂上だ。

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▲頂上は広い平坦地となっている。もともとの地形か整地したものか分からない。

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▲城跡の外周に沿って散策路や見晴台が設けられている。この右側は漢江に向かって断崖になっており、天然の要害をなしている。

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▲頂上から見晴らした漢江。恐らく対岸に見える山がそうだと思うが、これも三国時代からあると言われている幸州山城がある。左下に見える道路がオリンピック道路で、漢江の南岸に沿って通っている。仁川空港から車でソウル市内に向かう時に、必ず通る道路である。気をつけて車窓から見れば、この山城がある弓山が見える。

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▲城址を東側から見上げる。

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▲李朝時代の望楼が再現されている。

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▲望楼から見た漢江。

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▲東南から城跡を見上げるが、城壁の跡を見出すのは難しい。

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▲▼南側斜面に石が散乱している。城壁の名残か。

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▲南側の上り口から見下ろす。

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▲城隍廟だ。ピカピカの新品だが、横の説明版によれば李朝初期(1530年)の記録にこの山に廟があったことが記されているとのこと。城隍廟は中国の道教から来ており、城(=町や村)の守り神のようなものであるが、朝鮮に入って、土着の山神信仰と結びついたようで、平地ではなくこのように山中に廟を構えていることが多い。山城めぐりをしているとよく目にする。

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2007年5月24日 (木)

虎巖山城(호암산성)

虎巖山城は、ソウル市西南端に位置する衿川区の虎巖山(または衿州山、標高390m)頂上付近にある。統一新羅初期、唐との戦争に備えて築いた山城ではないかと言われている。外周1.25km。朝鮮の古代山城は、山の頂上や谷を城壁で囲んだ、主に篭城を目的とした城である。土塁や石塁で堅固な城壁を築いているが、相当な労力と経済力が伴わなければできなかったろう。当然、明確な目的が無ければ作れないだろうが、その割りに数が多すぎて珍しくないからなのか、何時誰が作ったのか分からなくなっているものが多い。 この城址も発掘調査で出た遺物から統一新羅時代と推定しているだけで、当時の記録があるわけではない。

さて、この山城は肝心の城壁は殆ど失われて、一部崩れた石塁が300mほど残っているとのことで行ってみたが、方向音痴の私には見つけられなかった。残念。しかし城内の石造の貯水池二箇所と、おそらく城を守護する動物(想像上の動物であるヘテともただの犬とも言われている)の石像だけは見ることができた。 「大井戸及び周辺山城址」として国家史跡第343号に指定されている。

山の麓にある虎圧寺は、風水地理説でこの山の山勢を虎に見立てて、その勢いを抑えるために建てた寺との伝説があり、李朝初期の創建と伝わる。李成桂の師である無学大師の伝説も残る寺だ。

薄曇だったが頂上からの景観は最高。登山道はよく整備されていて、近隣住民が気軽にハイキングに来る場所になっている。山頂までゆっくり登って30~40分ほど。虎巖山城の城壁が見つけられず、多くの人に尋ねたが、ここに山城があったことさえ知る人は少なく、こちらから説明させられる始末だった。

2006年10月28日踏査。

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虎圧寺の山門が登山口になる。

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案内図。右上の方に、虎厳山城が図示されているのだが・・・・。

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虎厳山の説明版。

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山門をくぐって少し坂道を登ると、虎圧寺がある。

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虎圧寺の説明版。

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寺の境内から仰ぎ見た虎厳山。韓国は岩山が多い。

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樹齢600年のケヤキ。虎圧寺創建のころから生き続ける。

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登山途中で麓のアパート群を見下ろす。

2006_1028_085809aa_512_1 頂上、だったと思う。

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冠岳山に連なる連峰を見晴らす。

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石狗像。ヘテとも犬とも言われているがどちらにも見えない。

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巻いた尻尾が意外な形で、とぼけていて良い。

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李朝時代の大井戸。石築が見事である。東西22m, 南北12m, 深さ1.2m。発掘の結果、この下から東西17.8m, 南北13.6m, 深さ2.5mの新羅の石築貯水池が出てきた。

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「大井戸及び周辺山城址」国家史跡第343号説明版。

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大井戸跡から南に200mのところにある、やはり石築の第二井戸。南北18.5m, 東西10mの長方形。ここから銘文のある青銅の匙が出土しており、それが統一新羅との年代推測の目安になっているようだ。

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もう一度石狗像のところに戻り、この近くにある筈の城壁跡を探したが、

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急傾斜の林のなかをずいぶん彷徨い歩いても見付からなかった。上掲写真に見える石積に、これか!と思ったが、どう見ても新しい物だった。

2007年5月19日 (土)

河南市 ニ聖山城(이성산성)

漢江南側、ソウル市東隣の河南市にあるニ聖山城を訪ねる。 標高209mの低い山に築いた包谷式山城で、外周1.6kmを石垣による城壁で囲んだものだ。発掘調査20周年記念ということで、市内の博物館で特別展示会もやっており、現地と博物館と両方見ることができた。
この山城は、戦前から日本の考古学者らによって、その地理的条件から漢城百済の遺跡との説が唱えられてきたが、この20年間10回に及んだ発掘調査の成果で百済の遺物はほとんど見付からず、新羅の城という説が有力になった。

発掘調査により、現在残る城壁は初築石垣が崩壊した後、その外側に新たに積み直されたものであることが判明した。初築城壁を百済とし、大規模な改築後の二次城壁を高句麗とする説もあるが、発掘で大量に出てきた土器、瓦、木簡などの遺物は全てこの城の主が新羅であったことを示している。 新羅が6世紀に高句麗と百済から漢江流域を勝ち取った後に築城し、統一新羅時代まで通して使用していたようである。

この山城には興味深い点がいくつかある。
一つは、城内のいくつかの建物跡の中で、8角、9角、12角形(!)の建物の礎石が見られること。韓国内では他に公州の公山城にやはり新羅時代と見られる12角建物跡があるが、日本でも熊本県の古代山城、鞠智城(7世紀)に8角建物の礎石が見つかっている。8、9、12が何かを表しているのか謎。 軍事用の建物にしては懲りすぎで、宗教施設の跡かと推測されている。
もう一つの点は、唐尺と高句麗尺の両方の実物が貯水池跡から発掘されたこと。唐が定めた物差しである唐尺は中国でもほとんど見つかってないらしい。建築で使う物差しが、三国時代の高句麗尺から、統一新羅の唐尺へと変わって行ったことが分かる。
それから高句麗の官職名が記載された木簡や、戊辰年(608か668年と推定)の記載がある木簡などが出土しており、遅くとも7世紀にはこの城が使われていたことがわかる。韓国に山城はいくらでもあるが、年代を文字で特定できるところは少ない。 そういう点でも、大変貴重な遺跡と言える。
2006年10月21日踏査

2006_1021_095648aa_800_1 道路を挟んで南側から見た二聖山城。麓には写真のように飲食店が並ぶ。

2006_1021_074958aa_512 露地を入ってすぐのところに二聖山城の案内板が立つ。下に見える小さい看板は全て飲食店の案内板。

2006_1021_075820aa_800 上の案内板からほんの10分ほどなだらかな山道を進めば、この南壁にたどり着く。

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南壁のアップ。改築後の二次城壁。基底部の数段しか残っていないが、石を少しずつ後ろにずらしながら積み上げているのが分かる。

2006_1021_080000aa_640 南壁に残る、水口跡。板石で階段状に作った排水溝の底部が残っている。一番下の段は、城壁から舌を出すように飛び出しており、新羅の山城によくみられる様式。この上に城壁が残っていれば、独特の台形をした開口部になっていたと思われる。

2006_1021_081708aa_640 城内に二箇所残る石築の貯水池。

2006_1021_081924aa_640 建物跡の礎石群。

2006_1021_083139aa_640 9角建物跡

2006_1021_084125aa_800 東北側の崩壊した城壁跡。斜面に城壁の石が散乱している。

2006_1021_084301aa_800 山頂から見た河南市内。軍事用の山城として、当然見晴らしが良い。

2006_1021_084940aa_800 東側の雉城(突出部)を下から見る。発掘調査後、埋め戻されている。上部にわずかに露出する城壁も保護のためにビニールシートがかぶせられている。

2006_1021_085052aa_800 東門址。

埋め戻されていているが、発掘調査で出てきた初築城壁の上部がわずかに見える。

2006_1021_101732aa_800

発掘調査時の、東門初築城壁。改築後の二次城壁と違って、ほぼ垂直に積み上げている。

2006_1021_102047aa_800 発掘調査時の、東門址全景。

2006_1021_093218aa_800 2006_1021_093338aa_800

西南に僅かに残る城壁の基底部。

2006_1021_093403aa_640 2006_1021_093412aa_640

岩盤の上に直接積み上げている。

2006_1021_093434aa_640 2006_1021_093528aa_800

巨岩をうまく囲うように城壁を積み上げている。

2006_1021_094123aa_800 南西の城壁跡の緩やかなカーブを曲がると、

2006_1021_094304aa_800 南の城壁に一周して戻る。

水口跡が二つ見える。

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河南市博物館。公民館程度の規模だが、この特別展で二聖山城出土遺物を大量に展示しており、内容は素晴らしかった。

2006_1021_101550aa_800山城の推定復元模型。2006_1021_102331aa_512 2006_1021_102348aa_512

慶州皇竜寺址から出土する土器と類似したものが多く発掘されたとのこと。

2006_1021_103154aa_800戊辰年木簡。南漢城の字も見える。

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左が唐尺。右が高句麗尺。

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2006_1021_103519aa_512_1 貯水池跡からは木簡や尺だけでなく、木製の楽器が出てきた。高句麗古墳壁画にも描かれた腰鼓と同じものと考えられている。

2006_1021_103545aa_512 こんな木製の人物像も出た。

2007年5月13日 (日)

漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성)

カジノで有名な漢江沿いのウォーカー・ヒル・ホテルの裏山に、阿且山城(a-cha san-seong)はある。
三国時代に百済が対高句麗防衛の為に作ったのが最初であろうと推定され、その後高句麗、新羅と主人が代わっていったようだ。有名な高句麗の広開土王碑に、平らげた城の一つとして阿旦山城の名前を見ることが出来るが、それがこの阿且山城に比定されている。漢城百済が高句麗に攻め落とされた時、盖鹵王が捕まってこの城の下で殺されたといわれている。また、高句麗平原王の娘婿である温達将軍が新羅軍の矢に当たって戦死したとの伝説も残っており、三国が幾度も激戦を繰り広げた最前線だったようである。
 現在残る城壁はどの時代のものかまだ解明されていないもよう。調査が続いており、保護の為に城壁を柵で取り囲んで中に入れないようになっていて残念。城壁自体も森の中に埋もれていて、写真のように一部がちらりと垣間見えるだけである。とは言え山頂からの景色は中々のもので爽快。
ここからは漢江を南に挟んで、百済の旧都であろう夢村土城や風納土城を始め、周囲を遠くまで見渡すことができ、城塞として最適な場所だったことが分かる。他にもこの山脈沿いに高句麗の保塁址がいくつも点在していて、今後発掘と整備がさらに進むものと思われる。

2006年10月7日踏査

2006_1007_085549aa_800 案内板。城域の図と発掘調査で出てきた遺物の写真、阿且山城保存事業への理解を求める説明文が書いてある。

2006_1007_085835aa_800 僅かに垣間見える石垣のアップ。

2006_1007_091426aa_800 柵の外から西壁が見える。

2006_1007_091441aa_800 この城壁が見える範囲は数十mしかない。早く中を解放して欲しいものだ。

2006_1007_093414aa_800 城内には入れないので、すぐ隣の峰から見たソウル市内の展望。

写真をクリックすると大きく見られます。

2006_1007_100953aa_800_1 阿旦山第四保塁跡。阿旦山城を過ぎて、隣の峰に向かう途中にある。

高句麗が漢江流域を獲得したのは漢城百済を滅ぼした5世紀末から6世紀後半までの約80年間。その間に作った要塞跡が、この阿旦山一帯の連峰に点々と残っており、発掘調査が続いている。

2006_1007_101007aa_800 高句麗保塁の発掘調査の時の写真が見られる説明版がいくつも設置されている。現在はほとんど埋め戻されていて、見ることが出来ない。

2006_1007_101106aa_800 何と、オンドルの遺構もここで見付かっている。朝鮮では北国の高句麗がオンドルを使い始めたらしい。

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2006_1007_101405aa_800 門柱の礎石と思われる石が露出していた。

2006_1007_101604aa_800 山頂付近から漢江を望む。

2007年5月 6日 (日)

漢城百済の痕跡-2 土城址

百済初期の都、慰礼城がソウル市松波区のオリンピック公園辺りにあったろうと推定されており、二つの土城址が残っている。その一つが地下鉄千戸駅近くにある風納土城。全周3.7kmに渉り、土を幾層にも突き固めた版築土塁の城壁で平地を囲んだもの。現在は西側の一部が1925年の漢江の洪水で失われたり、南側や東側がかなり表土が失われて高さが低くなったりもしているが、1500年の風雪に耐えて一応半分以上が残っている。北側は結構高さを保っており、約7m程か。東側は4箇所城壁が途切れて道路が通っているが、ここには城門があったと推定されている。
発掘調査では、三国時代の百済の遺物は言うに及ばず、先史時代の土器も見つかり、この漢江沿いの一帯が先史時代から人が暮らしてきた豊かな土地だったということが分かる。三国時代には百済、高句麗、新羅がこの地域の争奪戦を繰り広げたらしい。そのころ暮らしていた人々がどんな顔でどんな言葉を話していたのか、興味は尽きない。
現在、この城壁の内側はどうなっているかというと、完全に生活空間である。マンションと住宅地が密集して大半を占め、北側にはトッケビ(おばけ)市場と呼ばれる、アメ横のように狭い路地が延々と続く田舎臭い市場が残っている。先史時代から2000年以上、この国でずっと人口密度が高いところなのだろう。

この風納土城の南側、オリンピック公園の敷地内に残る夢村土城は、海抜45mの丘陵地をうまく利用して全長2.7kmの版築土塁で囲んだ、百済初期城郭跡である。ここでは土塁上に木柵を築いた痕跡が残っている。発掘された土器などから、中心年代が4~5世紀と推測されている。西晋の錢文陶器片が出ていることから上限を3世紀末とし、高句麗の南進で475年に漢城百済が滅ぼされるまで続いたものと思われる。

2006_1005_094054aa_800map 風納土城地図。漢江のすぐ南岸に位置する。

2006_1005_090714aa_800 風納土城東側の土塁跡。土塁が途切れたところは道路が通っているが、城門跡と推測されている。

2006_1005_090035aa_800 2006_1005_085732aa_800

2006_1005_091828aa_800 トッケビ市場。左手前の魚は、クルビと呼ばれるイシモチの干物。

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狭い露地に、店舗だけでなく露天商も軒を連ねる。

2006_1005_094441aa_800 犬鍋の店。看板がユーモラス。

犬の絵の下に、「俺、トンケ・・」と書いてある。トンケは直訳すると何なのだが、食用犬とでもしておけば良いのかな?

2006_1005_094456aa_800風納土城の北西の城壁が途切れる辺りは駐車場になっている。 

2006_1005_094756aa_800風納土城で一番残存状態が良い北側の土塁。

2006_0923_103602aa_800 オリンピック公園入口の不思議なモニュメント。ちょっと理解できないセンス。

2006_0923_104135aa_800南側から見た夢村土城。丘陵地を掘が囲んでいる。

2006_0923_104954aa_800夢村土城の土塁。散策路が設けられ、公園として整備されている。中には竪穴式住居跡や、歴史資料館もある。

2006_0923_105146aa_800 

2006_0923_114049aa_800 写真は木柵の柱穴が見付かった場所に、柵を復元したもの。

漢城百済の痕跡-1 古墳群

百済の最初の都は漢城百済と言い、慰礼城という王城があったという。それがどこにあったか確定させるほどのものは見付かっていないが、漢江下流域で、現在のソウル市江南地区一帯にあったと推定されている。主に漢江の南側、オリンピック公園の周辺にいくつかの遺跡が残っている。

ソウル市松波区の芳夷洞古墳群には、9基の円墳が残っており、うち一基は横穴式石室を覗き見ることができるようにしてある。周囲は写真の通り近代的なアパート群が密集する住宅地。古墳公園として整備されており、近隣住民が散策していた。

同じソウル市松波区石村洞にある、石村洞古墳群はさながら古墳博物館だ。色々な様式の古墳が一箇所に集中している。

まずは、ここ以外では見たことがない百済初期の石積塚4基が、目を引く。

他に円墳が1基、土溝墓が一基残っている。かなり長い年月に渉っていろいろな階層の共同墓域として使われたようである。1916年の調査記録では、石積塚23基、墳丘墓66基の計89基もの古墳が残っていたとのことだが、開発で失われて現存するのはこれだけだ。

積石塚は、高句麗の初期の墓を思い起こさせる。百済の始祖が高句麗の分派であるとの話を裏付けるようだ。

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芳夷洞古墳群 一号墳と石室内部

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Img_0020_1024石村洞古墳群の石積塚

Img_0021_1024石村洞3号墳。高句麗の将軍塚よりも平面積が大きい。写真ではその大きさが分かりにくいが、東西49.6m, 南北43.7m, 高さ 4mの三段の石積塚だ。

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2006_0923_100159aa_800基壇部だけがかろうじて残った石積塚

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2006_0923_100534aa_640土溝墓

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