南山新城(남산신성)~南山新城碑 来日記念
韓国の古代山城を研究する上で、最重要な城の一つ、慶州 南山新城の築城碑である南山新城碑第1碑が、現在、佐倉の歴史民俗博物館に展示中だ(12月14日まで)。
韓国の古代山城を研究する上で、最重要な城の一つ、慶州 南山新城の築城碑である南山新城碑第1碑が、現在、佐倉の歴史民俗博物館に展示中だ(12月14日まで)。
慶尚北道聞慶市の姑母山城を訪ねる。
聞慶市の観光地図には載っているが、史跡としての指定は受けていない。一方で山城の資料などでは新羅の城として紹介されていて、前から気になっていた城だ。
聞慶市はソウルから高速バスで二時間。そこから市内バスに乗り換えて15分ほどで着いた。バスの運転手から言われた通りに道なりに進んでいくと、すぐに左手に巨大な城壁と城門、それにぽっかりと空いた二つの水門が見えた!山城の一番低い西の谷の部分で、ほとんど平地になっているところだ。
この水門の形は、新羅系の山城でよく見られる、上が狭くなっている台形である。城壁の基底部は補助城壁で補強されており、城門は懸門式。石積みは小さく平たく加工した割石を緻密に積み上げている。 いかにも典型的な新羅の古城である!
城門から中に入ると、重機を使っての発掘調査中であった。しかし、良いところに来た。こぎれいに復元されてテーマパークのようになる前の、ナマの姿を拝むことができた。
城門のすぐ内側では、貯水池跡を掘り返して、調査しているところだった。貯水池内側の石積みが見えた。また、城壁水門を裏側から見ると、石造の集水溝が水門に向かって伸びているのが見えた。
水門横の城壁の城内側が土に埋没しているのを、一部基底部まで掘り返していた。この下半分の3mくらいはありそうな城壁は、横の水門の高さよりも低い位置にある。最初から埋め殺しにしてあったのだろうか。埋没していたせいで石積みが綺麗に残っていた。この西門城壁の基底部からの高さは7~8mはあるかもしれない。
城内を城壁に沿って一周した。全長1.3km。谷を囲む包谷式山城だ。街道沿いから見える南西の城壁から南門までは、観光用にピカピカの新品に再現されていたが、他の半分以上の城壁は崩れた石塁の状態だった。南東城壁の頂部に石垣をセメントで固めて補強した塹壕跡らしきものが見られたが、 解説版によれば朝鮮戦争のときにも、ここは交通の要衝として重要な戦略拠点だったと書いてあるので、韓国軍がここに要塞を構えていたのだろう。
この山城には、16世紀末、文禄の役の時の記録も残っている。日本軍がその地勢と城郭を恐れて何度も偵察した挙句、もぬけの空であったことを確認して、喜んで歌を歌いながらこの要所を通過したとのことだ。
姑母山城の南門に向かって麓から一直線に延びる、翼城と呼ばれる補助城郭が復元されている。 全長401m。文禄の役で日本軍に素通りされてしまった後、街道沿いの南側の防御を固める為に1596年に作られたものを復元したものである。
さて、姑母山城を訪れてから二ヵ月後にプレスリリースがあった。発掘調査中の西門で大型の地下木槨庫を発見。12.3m(南北方向)×6.6~6.9m、高さは4.5m。同時に出土した木製品や土器から、5世紀の新羅のものと確定したとのこと。このような木製の地下貯蔵庫は、百済では数例があったが、新羅のものとしては初めての出土例。
この城は、小さく平たい割石を緻密に高く積み上げる様式や、基壇補築、懸門、水門の形状、包谷式で城門がほとんど平地に近い低地に作られている立地など、忠清北道報恩の三年山城と規模を除けばそっくりである。三年山城は470年の築城だが、この城も同じ頃に作られたのであろう。三年山城は百済との国境に、そしてこの姑母山城は高句麗との国境近くである。三国時代、最も後進で弱小だった新羅が徐々に実力を付けて、その国力を高句麗や百済に示威するために、このような城郭が必要だったのであろう。
高句麗は5世紀、広開土王、長寿王の頃に半島をどんどん南下してくる。475年には漢城百済を一時滅ぼして、漢江流域を獲得。百済は急遽南に遷都して公州で再興を図るが、高句麗の南下は止まらない。公州に迫るかのように、忠清北道清原郡や大田市の山城には、高句麗軍がかなりの期間駐屯した痕跡が残っている。
新羅が三年山城や姑母山城のような本格的な石築山城を国境地点に築いたのは、このような緊迫した時期である。何となく訪ねた姑母山城だったが、思いの外、重要で興味深い遺跡だった。
2007年4月21日踏査
大邱広域市は、慶尚北道の中心になっている都市である。大邱達城は、市の中心部に残っている、三国時代の土城だ。 平地の丘陵地帯に版築で突き固めた土手が、1.3kmに渉って町をぐるりと囲んだ状態がよく残っている。
城壁の高さは4m程度と説明にはあったが、元々の丘陵地形をうまく利用しているせいで、場所によっては10mほどの高さに見えた。この城壁の内部は公園になっていて動物園や歴史資料館などがあり、家族連れが週末を楽しんでいた。
この地域は、三国時代に新羅に取り込まれたところであるが、もとは三韓時代の辰韓諸国の一つであったろうか。新羅の王京である慶州の月城も同様に平地の丘陵地を利用して作った土城で、三韓時代もしくは三国時代初期の韓半島南部城郭の典型であるかもしれない。このような土城が、ごく初期の朝鮮の城郭都市のようである。
2006年12月31日踏査
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