韓国の古代山城を研究する上で、最重要な城の一つ、慶州 南山新城の築城碑である南山新城碑第1碑が、現在、佐倉の歴史民俗博物館に展示中だ(12月14日まで)。
最後の記事を書いてから、早くも5年。その間、古代山城への興味は尽きず、踏査を継続しておりますが、どうもブログにあげるのがしんどくなって、途絶えたままになってしまいました。
もうちょっと気軽に書き込めるようにリニューアルしたいな、と思いつつ、何もしないままで過ぎてしまいましたので、いっそこのまま続きを軽く書いていこうかな、とも思います。
期間: | 2014年3月10日(月)~3月15日(土)=6日間 |
同行解説: | 向井一雄先生(古代山城研究会代表) |
旅行代金: | 173,000円(2名1室) |
一人部屋追加料金: 27,000円 | |
食事: | 全食付 |
最少催行: | 10名 |
定員: | 15名 |
添乗員: | 『トンボの眼・講演会会員』会の幹事・世話人の佐々木が羽田空港より同行いたします。 |
◆ 羽田空港集合・解散 | |
◆ 締切:2月7日(金) | |
◆ 企画:『トンボの眼』 |
■ 1日目 羽田空港(08:25)→JL091→(11:00)金浦空港・ソウル=論山(黄山原の戦い)から扶余へ(扶余羅城、扶余博物館、扶蘇山城) 扶余(泊) |
■ 2日目 扶余=青陽→洪城・石城山城・鶴城山城(忠南・洪城郡長谷面山城里)→大興・鳳首山城(任存城)→礼山→牙山湾(防潮堤を通って)→温陽 温陽(泊) |
■ 3日目 温陽=全義・雲住山城(忠南・世宗特別自治市全東面美谷里)→公州→扶余→林川・聖興山城(加林城)→韓山・乾芝山城(忠南・舒川郡韓山面)→白沙(忠南・舒川郡馬西面)→群山(錦江河口) 群山(泊) |
■ 4日目 群山=東津江→白山(全北・扶安郡白山面)→井邑・古阜旧邑城(全北・井邑市古阜面)→開岩寺(位金岩山城)→茁浦湾→来蘇寺→竹幕洞祭祀遺跡(全北・扶安郡辺山面格浦里)=格浦 格浦(泊) |
■ 5日目 格浦=扶安→碧骨堤(博物館)→金堤(僻城)→全州(博物館)→益山・王宮里、弥勒寺=ソウル ソウル(泊) |
■ 6日目 ソウル=ソウル・金浦空港(12:10)→JL092→(14:15)羽田空港・解散 |
鳳首山城(任存城)・聖興山城(加林城)・乾芝山城・錦江河口=白村江の周留城候補地
位金岩山城(禹金山城)・東津江河口=白村江の周留城候補地
古阜旧邑城・茁浦湾=白村江の周留城候補地
金堤(僻城[へのさし])
※ほとんどの山城まで自動車で上がれます。
乾芝山城、古阜旧邑城は100m台の丘陵に近い山です。
位金岩山城は健脚の方は徒歩、または遠望(開巌寺から遠望でもよく見えます)。
忠清北道陰城郡の水精山城を訪ねる。
韓国文化財庁のホームページで見た写真に、類例の少ない城壁外面の垂直溝のような微妙なものを見て、実物を確認してみようと思った。
標高396mの水精山の頂上に築いた石築の鉢巻式山城。外周は577mで、西側城壁の残存状態が良く、出土遺物から8~9世紀の統一新羅時代の城だろうとのことである。
陰城までは、東ソウル・バスターミナルから30分毎に直行バスが出ている。ソウルから1時間40分。水精山はバスターミナルのある中心街から東に2kmくらいのところにあって、地元の人たちの散歩コースのようで、場所はすぐに分かる。
行ってみてちょっとがっかりしたのは、西城壁がきれいに復元されていたこと。陰城郡記念物111号に指定されているが、よくこんな有名でもない城の復元に予算が付いたものだと思った。 この一年、あちこちの山城を回っているが、意外と山城の城壁を整備・復元する自治体が多いようだ。結構安く作れちゃうのかな??
~ネットで見つけたローカル新聞の「忠清毎日」2007年8月28日の記事によれば、陰城郡は水精山城に2002年から試掘調査と城壁補修を行って残存城壁の一次復元工事を完了させたのに続き、2007年に1億5千万ウォンを投入して城門跡の発掘調査を行うとのこと。また、2012年までには城の原型復元、探訪路の整備を行って歴史資料および観光資源として活用する計画とのことである。
しかし結局、見たかった垂直溝のような城壁は見つけられなかった。もしかして復元工事でつぶしちゃったのでは・・・。 最近になって1998年に刊行された水精山城の地表調査報告書(忠州産業大學校博物館刊)を図書館で見つけて残存城壁の写真を見たが、そんな垂直溝のある城壁はやはり無いし、報告書でも指摘されていない。文化財庁HPの写真は他の山城を誤って掲載したのだろうか??
さてこの復元城壁、水口が3個もそれっぽく復元してあった。城内の取水口もちゃんと石築で作ってあって、外まで水路を貫通させてあるようだ。水口は3個が、ほぼ等間隔で15mくらい(?)おきに並んでいる。城壁基底部からの高さはそれぞれ違う。城壁に向かって左端のは肩くらいの高さ、真ん中は2m以上、右端のは真ん中より少し低い。
▲右端の三つ目の水口と、その下の水受け石(草に埋もれている)
水口の真下には、水受けの石が並べてあり、その延長線上の急斜面には、階段状に石が積んである。これは他では見たことが無い。かなり念入りな水対策だ。 上掲の1998年の地表調査ではこういった排水施設は見付かっていないが、2002年の試掘調査で発見されたものかもしれない。あてずっぽで作ったにしては良く出来過ぎのようだし。
李朝時代の記録では、当時既に廃城となっていた城内に井戸が一つ残っていたとのことだが、現存しない。3つの排水口や念入りな水対策から見て、山頂ながら水が豊富だったのだろうか??
そういえば山の名前も水にちなんでいる。この日はたまたまか、ずっと濃い朝霧がたち込めていて、全山真っ白で視界が狭く、確かに水っぽかったかな?
2007年11月25日踏査
寝坊した。
ほぼ毎週末、まだ暗い内から早起きして、始発のバスや電車で郊外の山城に出かけるというパターンになっていたが、たまに寝過ごしてしまうこともある。
この日は、せっかくの好天だったがもう遠出は無理な時間だったので、近場でどこに行こうかと考え、南漢山城を再訪することにした。一年前に行ったが、南門から西門を経由して北門までの半分の区間を見ただけ。未見の区間と、昨年から発掘調査中の統一新羅時代の大型建物跡を見に行くことに。 統一新羅時代の大型建物跡(53.5m x 17.5m)は既に掘り出されていたが、ちょうどその建物跡から、長さ64cm、重さ19kgの超大型瓦が350枚も完形で発掘されたとのプレスリリースがあったばかりだった。
今回は、南門からスタートして、東門までの区間を歩いた。
甕城が三箇所、暗門数箇所、雉城、砲塁に、水門などなどテンコ盛り。城郭好きには面白い区間だったが、城壁が崩れたままのところがあったり、景色が地味だったりと、前回まわった南西区間に比べると少し寂しい感じである。
統一新羅時代の大型建物跡は、李朝時代の行宮址の発掘現場で見付かった。行宮の復元整備に伴う発掘調査で偶然発見されたものである。南漢山城の初築が何時であるのか不明だが、この発掘成果で、ここが統一新羅時代の晝長城(別名日長城)であったと見て間違いあるまい。それにしても一枚19kgのバカでかい瓦と言い、53.5mという長大な建物と言い、ここが非常に重要な城であったろうことが推察される。
▲統一新羅時代の建物跡の発掘現場
初築が百済との説もあり、初期百済の遺物も出ているようではあるが、城の立地、規模、プランからして、恐らく統一新羅の初築ではないだろうか。羅唐戦争時、この山城が漢江流域を守る防衛ラインで中心的な役割を果たしていたのかもしれない。
2007年11月18日踏査
忠清北道の北東端にある、丹陽郡。南漢江が流れ、小白山脈が通る場所に位置する、美しい観光地である。三国時代の6世紀前半までは、この小白山脈にある竹嶺が高句麗と新羅の境界であった。ここを越えて、北に領土を広げたのが真興王(在位540-576年)。高句麗で言えば広開土王のような王で、三国時代新羅の領土を最大限に広げた。550年頃に竹嶺を越え、半島の東側を北進して今の咸鏡南道にまで至っている。真興王は新たに獲得した領土に石碑を多く残しているので、今でもその足跡を確認することができる。
▲当時の高句麗の首都であった平壌よりずっと北にまで新羅が侵攻していたことが、黄草嶺碑や磨雲嶺碑の存在で確認できる。この二つの碑を見るには北朝鮮に行かないとならない・・・。
さて、ここ丹陽に残る新羅の古城「赤城」では、1978年に真興王の頃の石碑が見付かった。国宝198号、赤城碑である。
実物は今もこの山城に置いてあって、ここまで行かないと見られない。
どんなものだろうと、近付いて見ると、驚いたことに、上部が欠けてはいるが、表面は新品のようにピカピカ、碑文もくっきりとあざやかに見える!とても1500年前の碑文とは思えない。発見された時は、土の中に埋まっていて30cmほど外に露出していたのだそうだ。
碑文の内容は、一部が欠けている為にわからない部分もあるが、新羅に協力した赤城の高句麗遺民を顕彰し、法的に優遇することを示した内容らしい。碑文中、「國法」「赤城烟法」「赤城佃舎法」の三語が注目される。三国時代の法制については詳細が分かるものが残っていないが、「國法」と共に、占領地に特別に適用されたであろう「赤城烟法」「赤城佃舎法」 が存在したことを窺わせる。また、碑文に出てくるいくつかの人名中「武力」は、金庾信の祖父である金官伽耶国の武力に比定されている。
山城は、標高323mの山頂に外周900mで築いた石築の包谷式。竹嶺を越えて竹嶺川が南漢江に合流する地点の山上に築かれている。馬鞍型と呼ばれる、両端が高く中心部が谷になっている形状。城壁はほとんど崩れていたのをかなり復元して作ってある。元の城壁の石積み城壁はほんの一部だけしか残っていない。小さな割石を緻密に積み上げ、外壁基底部には補築の痕跡が残っており、新羅の古城の典型に見える。
この城は、中央高速道路下りの丹陽休憩所の真後ろに位置する。全国でも唯一、なんと休憩所から直接行って見て来ることができる山城。車でこの方面に行く人は、是非お立ち寄りあれ。公共の交通機関だと、丹陽のバスターミナルからタクシーで20分程。
2007年11月4日踏査
せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。
最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。
標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。
▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。
門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。
2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?
▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。
この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。
他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?
2007年10月27日踏査
忠清南道天安市、独立記念館の裏山にある黒城山城(天安市文化財資料364号)は、黒城山(標高519m)の山頂を石築の城壁で囲んだ古城である。外周570m。李朝時代の記録にあるが、何時作られたものか不明である。城内にあたる山頂には米軍基地と放送塔があって一般人の立ち入りは禁止されている。最近、観光用にか、水原華城を模した城門や城壁が作られており、元の城壁はほとんど崩れてわずかに痕跡が残る程度らしい。
独立記念館の運動場を借りて会社の運動会が開かれたので、すぐ裏山だしと思い、このくらいの事前情報でとにかく行って見た。登山道はいくつもあるらしいが、独立記念館側から見て左側(おそらく西)から迂回するように登る「Bコース」というのを取った。このコースは”入山禁止”と看板に書いてあるのだが、登っても大丈夫とのネット情報を信じて、柵を越えて突入。 山城への案内表示は要所要所にあって、迷わず山頂近くにたどり着く。
山頂からの眺めは、最高の風水の明堂と言われる、独立記念館の敷地を後ろから一望に出来て中々爽快だった。
観光用(?)に作られたぴかぴかの城の、裏側に出た。裏からぐるりと回りこんでみたが、行き止まりのようだった。時間の関係でこの辺で終わりにして、下山しようとすると、来る時には気付かなかった、元の城壁の残存部が目に入った!
観光用の城門は見られなかったが、こちらが本命なので、満足して下山。
思っていたよりもかなり遠く、独立記念館の運動場から往復二時間半近くかかってしまった。
ところで、この独立記念館の建設中に敷地内から発見された古代山城がある。木川土城と呼ばれた平山城だが、発掘調査で土塁の基礎に石列が並べられているのが発見され、日本の古代山城との関連が注目されている。しかし残念ながらこの広大な敷地のどこにあったものか、わからない。文化財の指定も受けていないので、記念館の建設と共に破壊されて残っていないだろうと思う。
天安市の観光地図を見ると、意外に山城がたくさんある。
新幹線(KTX)の駅も出来て、今はかなり大きな地方都市に急成長した天安市だが、このあたりは百済の領域だったところ。百済の土器が出ている山城や遺跡もいくつかあるので、また改めて山城めぐりに来たい場所である。
2007年10月13日踏査
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最近のコメント