漢江南側、ソウル市東隣の河南市にあるニ聖山城を訪ねる。 標高209mの低い山に築いた包谷式山城で、外周1.6kmを石垣による城壁で囲んだものだ。発掘調査20周年記念ということで、市内の博物館で特別展示会もやっており、現地と博物館と両方見ることができた。
この山城は、戦前から日本の考古学者らによって、その地理的条件から漢城百済の遺跡との説が唱えられてきたが、この20年間10回に及んだ発掘調査の成果で百済の遺物はほとんど見付からず、新羅の城という説が有力になった。
発掘調査により、現在残る城壁は初築石垣が崩壊した後、その外側に新たに積み直されたものであることが判明した。初築城壁を百済とし、大規模な改築後の二次城壁を高句麗とする説もあるが、発掘で大量に出てきた土器、瓦、木簡などの遺物は全てこの城の主が新羅であったことを示している。 新羅が6世紀に高句麗と百済から漢江流域を勝ち取った後に築城し、統一新羅時代まで通して使用していたようである。
この山城には興味深い点がいくつかある。
一つは、城内のいくつかの建物跡の中で、8角、9角、12角形(!)の建物の礎石が見られること。韓国内では他に公州の公山城にやはり新羅時代と見られる12角建物跡があるが、日本でも熊本県の古代山城、鞠智城(7世紀)に8角建物の礎石が見つかっている。8、9、12が何かを表しているのか謎。 軍事用の建物にしては懲りすぎで、宗教施設の跡かと推測されている。
もう一つの点は、唐尺と高句麗尺の両方の実物が貯水池跡から発掘されたこと。唐が定めた物差しである唐尺は中国でもほとんど見つかってないらしい。建築で使う物差しが、三国時代の高句麗尺から、統一新羅の唐尺へと変わって行ったことが分かる。
それから高句麗の官職名が記載された木簡や、戊辰年(608か668年と推定)の記載がある木簡などが出土しており、遅くとも7世紀にはこの城が使われていたことがわかる。韓国に山城はいくらでもあるが、年代を文字で特定できるところは少ない。 そういう点でも、大変貴重な遺跡と言える。
2006年10月21日踏査
道路を挟んで南側から見た二聖山城。麓には写真のように飲食店が並ぶ。
露地を入ってすぐのところに二聖山城の案内板が立つ。下に見える小さい看板は全て飲食店の案内板。
上の案内板からほんの10分ほどなだらかな山道を進めば、この南壁にたどり着く。
南壁のアップ。改築後の二次城壁。基底部の数段しか残っていないが、石を少しずつ後ろにずらしながら積み上げているのが分かる。
南壁に残る、水口跡。板石で階段状に作った排水溝の底部が残っている。一番下の段は、城壁から舌を出すように飛び出しており、新羅の山城によくみられる様式。この上に城壁が残っていれば、独特の台形をした開口部になっていたと思われる。
城内に二箇所残る石築の貯水池。
建物跡の礎石群。
9角建物跡
東北側の崩壊した城壁跡。斜面に城壁の石が散乱している。
山頂から見た河南市内。軍事用の山城として、当然見晴らしが良い。
東側の雉城(突出部)を下から見る。発掘調査後、埋め戻されている。上部にわずかに露出する城壁も保護のためにビニールシートがかぶせられている。
東門址。
埋め戻されていているが、発掘調査で出てきた初築城壁の上部がわずかに見える。
発掘調査時の、東門初築城壁。改築後の二次城壁と違って、ほぼ垂直に積み上げている。
発掘調査時の、東門址全景。
西南に僅かに残る城壁の基底部。
岩盤の上に直接積み上げている。
巨岩をうまく囲うように城壁を積み上げている。
南西の城壁跡の緩やかなカーブを曲がると、
南の城壁に一周して戻る。
水口跡が二つ見える。
河南市博物館。公民館程度の規模だが、この特別展で二聖山城出土遺物を大量に展示しており、内容は素晴らしかった。
山城の推定復元模型。
慶州皇竜寺址から出土する土器と類似したものが多く発掘されたとのこと。
戊辰年木簡。南漢城の字も見える。


左が唐尺。右が高句麗尺。
貯水池跡からは木簡や尺だけでなく、木製の楽器が出てきた。高句麗古墳壁画にも描かれた腰鼓と同じものと考えられている。
こんな木製の人物像も出た。
最近のコメント