カテゴリー「寺院・宗教」の12件の記事

2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年3月 2日 (日)

灌燭寺 石造弥勒菩薩立像(관촉사석조미륵보살입상)~水木しげるが鬼太郎に登場させた仏像

忠清南道論山市、灌燭寺に残る弥勒菩薩像。高麗時代の石仏で、高さは韓国最大の18m。一度見たら忘れられない顔である。高麗時代の仏像の顔は、新羅の石仏に比べると、このように土着化が進んだ個性が出てきて、味があって良い。特にこの灌燭寺の仏像は、ただ大きいだけでなくて、完成度も高いと思う。

ゲゲゲの鬼太郎に朝鮮魔法という回があって、「アリランさま」と呼ばれる妖怪が出てくるが、この仏像が、ほとんどそのままで使われている。水木しげるは、実際にここまで見に来たのだろうか。

論山へは韓国の新幹線、KTXで行ける。駅からタクシーで20分くらいだったか。扶余観光の帰りに立ち寄った。

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2006年10月4日踏査

ゲゲゲの鬼太郎 3 少年マガジン/オリジナル版 (3) (講談社漫画文庫 み 3-7) ゲゲゲの鬼太郎 3 少年マガジン/オリジナル版 (3) (講談社漫画文庫 み 3-7)

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2008年3月 1日 (土)

坡州龍尾里石仏立像(파주용미리석불입상)~イザベラ・バードが見た石仏

坡州市で統一展望台や月籠山城を訪ねた帰りにこの仏像を見に行った。ソウル・坡州間のバス・ルート上にあって、途中下車したバス停のすぐ近くだった。

これはなかなか見応えがあった。高麗時代の石仏だが、土俗的な顔立ちの中にもかなり洗練された印象を受ける。高さ17.4mで、近くで見るとかなりの迫力。韓国で、他にこれに類した石仏を見たことが無い。

19世紀末の興味深く貴重な朝鮮紀行文である、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」に、この石仏が詳しく描写されている。1895年、ソウルから開城へ向かう道中の記事の中に挿絵付で紹介されている。朝鮮各地を旅行しながら、あまり史跡や遺跡にお目にかかれなかった彼女に、とても印象深かったようである。森から頭二つを突き出すこの仏像の挿絵を見て、実物を探して見てみたところ、このようにちゃんと残っていた。しかし顔面をよくみると、疱瘡の痕のように黒い点がいくつも。朝鮮戦争の時の弾痕かもしれない。

坡州から臨津江を越えれば、開城はもう目の前である。もちろん、バードは開城、そして平壌まで北上しているが、同じように旅行ができないのが100年後の現在かと思えば、実に残念なことである。バードはこの平壌へ向かう旅の途中でいくつかの山城跡も見ているが、うらやましい限りだ。

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2007年3月1日踏査

朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫) 朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

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2008年1月 2日 (水)

江華島北部の史跡~江華聖堂、江華山城、高麗宮址

江華島南部で三郎城などを見た帰りに北上して、島の北部を少し見物してから帰ることにした。 帰る前に数時間駆け足で見て回ったが、予想してなかったようなものもあり、短い時間になかなか面白かった。もとよりまだ見ていないものも多いので、いずれ再訪したい。

▼まずは高麗宮址。写真の通り、今はほとんど何も残らない。
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高麗朝時、元の侵略に抗戦してここに開城から1232年に遷都し、何と1270年までの39年間ここを都として持ちこたえた。元が高麗を従えて元寇に来たのが1274年である。高麗の抗戦が無ければ、元寇の時期はもっと早まっていただろうし、そうであれば鎌倉幕府が持ち堪えられたかどうか、神風は吹いたかどうか。
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▲次は江華山城の北門。
高麗時代の城郭は、もとの開城と同様に、内城・中城・外城と三重の城壁を築いたとのこと。そのうち、内城にあたる全長約7kmを李朝時代に土城から石城に改築し、内部に離宮を作ったのが今残る江華山城である。地図で見るとおり、南と北の二つの山を城壁で繋いだもので、その中間は平地になっており、そこが今も市の中心街になっていた。
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高麗の時にはこの城が落城する前に元に降伏したので城自体は無事だったようだが、李朝時代1637年に、清から攻撃され、時の守将は城を守りきれず、南門に火薬を仕掛けて爆死するという悲惨な最期だったらしい。この将、金尚容を顕彰する殉節碑が城内にあった。

 
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▲最後の写真はその殉節碑の近くに残る、聖公会江華聖堂。
1900年に建てられたカトリックの聖堂である。どういう経緯でここに建てられたのか背景がよく分からないが、大変興味深い建築だ。土台は日本の城を思わせるような2mほどの高い石垣が組んであり、その上に李朝建築と洋風の折衷様式のような、不思議な建物が建っている。本殿(?)は7.2mx18mの長方形で、李朝建築では少ない二階建てだ。この長方形の珍しい建物は、方舟をイメージしたデザインらしい。各層に窓ガラスが多用されていて、瓦、屋根、門などにあちこちに十字架の意匠が見られる。他にあまり例が無いのではと思う。

ちょっと歩き回っただけでこれだけ面白いものがごろごろしており、市内では発掘調査中のところもあって、これからもいろいろ出てきそうである。

2007年2月17日踏査

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2007年11月 3日 (土)

益山の百済遺跡~武王遷都説

益山には百済武王(580-641)が遷都したとの説がある。『韓国の古代遺跡(田中俊明・東潮著)』によれば、文献上では、南斉の『観世音応験記』の日本にしか残っていない写本に、武広王が遷都したとのくだりが見付かっている。武王の別名、武康王と朝鮮語音が似ている。また、帝釈精舎が落雷で焼けたとの記述もあるが、益山で帝釈寺銘の瓦が出土した百済時代の寺跡があり、これに比定できるとのこと。この帝釈寺跡には行って見なかったが、他のいくつかの遺跡を見てまわった。

まずは、五層石塔で有名な王宮里遺跡を訪ねた。

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約500mx250mの長方形の土城が平地に築かれている。この中に五層石塔が残る。王宮里遺跡自体は、百済から高麗時代までの遺物が発掘調査で見付かっているが、どういう場所だったのかは不明で、今も継続中の発掘の成果を待つしかない。遺物の展示館があったが、残念ながら改装工事中で見られなかった。
この五層石塔は一見有名な扶余の定林寺石塔を思わせる百済様式だが、高麗時代の作とのこと。百済滅亡後も、百済の故地に作られる仏塔は百済様式を保ち続けていたようだ。また、この石塔が建てられる前には木塔が建っていたらしいことが最近の発掘調査で分かってきた。

次は、古墳。

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益山双陵と呼ばれる二基の古墳が残る。盗掘されていて木棺以外の遺物は見付かっておらず、被葬者も確定できないが、横穴式石室の様式などから百済後期の古墳と推定され、弥勒寺を創建した百済武王と王妃の墓ではないかと言われている。

最後にいくつか残る山城のうち、益山土城(五金山城)を訪ねた。

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標高125mの五金山に築いた周囲約700m程度の小規模な土城である。百済後期~高麗までの土器・瓦が発掘されている。南門跡など、後代に一部を石城に改築したことが発掘で確認されているが、これが百済時代かどうかは分からない。 土塁の基礎に、石列を並べてあることが発掘で明らかになり、日本の古代山城で見られる神籠石のルーツかと考えられる。

遷都説を裏付ける程のはっきりしたものはまだ見付かっていないが、これらの遺跡を見ていると、少なくとも離宮程度のものはあったのかもしれない、と思えてきた。

2007年1月28日踏査

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益山 弥勒寺址(미륵사지)~韓国最古・最大の石塔

全羅北道益山市を訪ねる。百済の最後の都があった扶余の南方、錦江の南側に位置し、百済の遺跡が多く残っているところである。

弥勒寺は、7世紀始め百済武王の頃に作られた、百済最大規模の寺。行って見ると、まず寺域が広大なことに驚かされる。また、伽藍配置も三塔三金堂で独特なもの。特に仏塔は、真ん中に巨大な木塔、東西にこれも巨大な石塔を二つ配するという豪華なものだが、残念ながらこのうち一部でも残ったのは石造の西塔だけである。元来9重の塔だったと言われるが残った部分は6層まで。それだけでも高さが14mもある。朝鮮半島に残る、どの石塔とも似ていない、大型で且つ細工が細かいのが特徴である。木塔を、石材でできる限り模倣して造ったのだろうといわれている。朝鮮の最古・最大の石塔とのこと。
崩壊寸前の状況(写真)2007_0128_112628aa_800_2  だったのを1915年に日本がセメントで補強して保存したが、1999年から10年計画で解体修復中である。2008年までに完了させる予定だが、他に例も無く、非常に複雑な構造(内部構造まで木塔に似せてあるらしい)のこの石塔、本当にあと2年で終わるのかな?と思わせるような進捗状況だった。戦前の日本の学者も、おそらくパズルが解けずに降参し、とりあえず崩壊防止だけ考えてセメントで固めたのではないだろうか。

おそらく百済の最新の技術の粋を集めたであろうこの弥勒寺、どうして都である扶余でなく、益山に作られたのかが謎である。扶余にもこれほどの規模の寺跡は残っていない。この疑問に対する答えの一つとして、ここに一時的にでも遷都したことがあるのではないか、という説がある。その説を支えている、いくつかの遺跡を続いて回ってみた。

2007年1月28日踏査

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2007年10月21日 (日)

扶余 聖興山城 (성흥산성) ~501年築城の加林城に比定

501年(百済東城王23年)8月、衛士佐平 白加が築城。この地方は当時加林郡と言ったので、加林城と呼ばれた。百済の城郭中、築城年がはっきりした唯一の城とのことである。 白加は、加林郡に送られたことを恨んで反乱を起こしたが、敗れて殺されたと三国史記にあるとのことだ。

この山城は、扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にある。外周1.5km。南側など一部の城壁は石築になっているが大部分は版築土塁で築いている。石築の南門と東門が残っている。ここは都である泗沘城全体を南から見晴らせる場所なのだが、霧が濃くて見られなかった。
泗沘(サビ)城は街全体が羅城で囲まれていたが、この羅城をさらに外側から囲むように、いくつも山城が築かれている。聖興山城はこの都のすぐ南を守る位置であるが、築城は泗沘城へ遷都した538年よりも37年も先立っている。遷都以前に既にこの地が百済にとって重要な地であったことが伺える。

2007年2月10日踏査

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2007年10月 3日 (水)

塹星壇(참성단)~檀君神話の聖地

これを書いている今日は、韓国の数少ない祝日の一つ、開天節である。檀君神話に基づいた、古朝鮮の建国を祝う日だ。この日には檀君が祭天の儀式を行ったという伝説が残る、普段は立ち入り禁止の塹星壇と呼ばれる祭壇が解放される。

この塹星壇は江華島の南部、標高468mの摩尼山の頂上にある。檀君が天を祭るために作ったとの伝説だが、いつ作られたものか明らかでない。史書に残る一番古い記録は李朝初期らしい。恐らく高麗時代に作ったものであろうか。記録上では、醮祭という、道教式の星に関する祭祀を高麗、李王朝が行っていたようである。

岩山のてっぺんに石築で作られているが、下段部は楕円形に、上段部は方形をなしている。円形は天を表し、方形は地を表すとのことだが、こんな様式の祭壇は他で見たことが無い。誰がどういう思想でこういう構造物を山頂に築いたのか、当初はどういう祭祀がここで行われていたのか、非常に興味深い。

遺跡保存のために1月1日の初日の出と開天節の10月3日以外は立ち入り禁止になっており、柵の外から見るしかない。
しかし離れて見ても、古色蒼然として何だか妖しいオーラがむんむんしている気がした。霊気溢れるこの場所は、檀君を信仰する人たちの聖地であり、韓国で一番の強い気が集まるスポットだそうである。

2007年2月16日踏査

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2007年9月 1日 (土)

扶蘇山城 (부소산성) ~百済最後の王城を守る山城

忠清南道扶余郡。538年から660年までの約120年間、百済最後の都があったところだ。百済の頃には泗沘と呼ばれた。新羅と唐の連合軍に徹底的に破壊されたためか、飛鳥文化の源流だった筈の百済文化は残念ながら僅かしか残っていない。 しかし、近年の発掘の成果で少しずつその姿を現しつつあると言って良いだろう。

まずは扶蘇山城。王宮があったと推定される地帯のすぐ北に位置する、標高100m程度の低い山に作った土城である。山の北側は錦江に面した天然の要害だ。百済時代をしのばせるのは、この山の頂上を囲む土城の城壁跡と、いくつかの建物址。 今回行ってみて意外だったのは、城壁の縄張りが思いのほか複雑だったこと。案内板によれば、一番外側の大きな外周部分、1.5kmが百済時代のものとのことである。内側に残るいくつかの城壁のラインは、その後の新羅時代と、高麗末~李朝初期に規模を縮小して作った部分だということが発掘調査の結果、分かってきたらしい。

山城の城壁のすぐ外の山腹に、寺跡が残る。西の山腹にあるから西腹寺と呼ぶが当時の名前は分からない。中門、仏塔、金堂の土台や礎石が残っている。伽藍配置は、これらの遺構が全て一直線に並ぶ、日本で四天王寺式と呼ばれる様式である。扶余にいくつも残る百済時代の寺跡は、大抵がこの伽藍配置である。日本では法隆寺の若草伽藍跡などの初期の寺がこの様式を取っている。

ちょっと面白かったのは、この山の南側山麓一帯を発掘中なのだが、これを一般公開していること。散策路が設けてあって、発掘現場を見て回れるようになっている。建物址、工房跡、大路跡、倉庫址などが散在しており、所々に簡単な解説版もあり、ここに百済の都があったことを想像させてくれる。百済の痕跡は、ほとんどが土の中である。

2007年1月20日踏査

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▲扶蘇山上から錦江を望む。

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2007年5月27日 (日)

陽川古城址 (양천고성지)

  陽川古城址は、金浦空港から遠くない、江西区の漢江南岸にある弓山 (74.3m) の上にある。 小さな山であるが、周辺が平坦なため、遠くからでもこんもりと盛り上がったこの山が見えた。平らな山頂をぐるりと囲んだ、鉢巻型と呼ばれる形式の山城である。北側は漢江を見下ろす絶壁で天然の要害になっている。城壁は殆ど残っておらず、残骸かと思われる石が多少転がっているくらい。百済や、その後の統一新羅時代の土器片が見つかっているそうで、古くは百済が対高句麗戦の為に築いたらしい。その後も続けて使われ、文禄慶長の役では義兵の集結地として記録があり、新しいところでは朝鮮戦争で韓国軍が駐屯した。一方でこの見晴らしの良さは戦略的価値が高いだけでなく、絶景としても有名で、昔から有名な文人が詩を読んだり絵を描いたりしたとのこと。
さて、今は近隣住民の憩いの場で、公園として整備されている。この日も幼稚園児たちが遠足に来ていた。のどかで結構。ここにまた軍人が集結することが無いように祈るばかりだ。
残念ながら雨が降る前の曇り空で遠くまで見渡せなかったが、晴天ならばかなりの眺望の筈。

踏査日;2006年11月6日

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▲陽川郷校。李朝時代に各地に作られた儒教教育機関。山城の南側麓に位置する。

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▲陽川郷校を横に通り過ぎると、史跡372号、陽川古城址へ向かう道となる。

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▲ゆるい傾斜の山道を10分も進めば頂上だ。

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▲頂上は広い平坦地となっている。もともとの地形か整地したものか分からない。

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▲城跡の外周に沿って散策路や見晴台が設けられている。この右側は漢江に向かって断崖になっており、天然の要害をなしている。

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▲頂上から見晴らした漢江。恐らく対岸に見える山がそうだと思うが、これも三国時代からあると言われている幸州山城がある。左下に見える道路がオリンピック道路で、漢江の南岸に沿って通っている。仁川空港から車でソウル市内に向かう時に、必ず通る道路である。気をつけて車窓から見れば、この山城がある弓山が見える。

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▲城址を東側から見上げる。

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▲李朝時代の望楼が再現されている。

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▲望楼から見た漢江。

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▲東南から城跡を見上げるが、城壁の跡を見出すのは難しい。

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▲▼南側斜面に石が散乱している。城壁の名残か。

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▲南側の上り口から見下ろす。

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▲城隍廟だ。ピカピカの新品だが、横の説明版によれば李朝初期(1530年)の記録にこの山に廟があったことが記されているとのこと。城隍廟は中国の道教から来ており、城(=町や村)の守り神のようなものであるが、朝鮮に入って、土着の山神信仰と結びついたようで、平地ではなくこのように山中に廟を構えていることが多い。山城めぐりをしているとよく目にする。

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