カテゴリー「古墳」の3件の記事

2008年4月21日 (月)

忠州山城(충주산성)と忠州の史跡~韓国のへそは争奪戦の場

忠清北道忠州市を三度訪ねる。
今回は忠州山城が目的。忠州市街地から車で15分ほど南の、南山(標高636m)にある。外周1.1km、高さ5~8mの石城である。6世紀中頃以降の新羅の山城と推測されているようだ。 かなりの部分が近年復元されているが、特徴的で非常に興味深い構造部がいくつも見られた。

まず、複数箇所に復元されている排水溝と排水口。城壁外面の排水口は他の新羅系の城で見られるのと同じ、上部が狭い台形。ここでは更に城内の石築の排水溝も綺麗に復元されており、それと排水口の連携がよく分かった。外壁の排水口の中を覗くと、ひんやりと冷たい風が顔に当たった。119_640

城内の上方に向かって、登り階段状に水路が作ってあり、貫通させてあった。124_800

懸門式の城門も、特にこの城では独特である。
懸門式は新羅の城に多く見られる、はしごを掛けないと入れないように入り口を高く作った凹字型の門だが130_800 、ここではさらにその城門の城内側を丸く石築で囲んであり、城門から侵入して来る敵を隠れながら狙い撃ちする為の窪みが2箇所作ってある。107_800

さらに半円形の防御壁で区切られた空間がこの城門内の踊り場のようなところに作ってあって、ここに兵士を隠して侵入する敵を真正面から攻撃できるようにもなっていた。136_800 はしごを掛けて這い上がってきた敵は、この踊り場の中で、真正面と上部2箇所から集中攻撃を受けることになる。徹底的な防御構造だ。
他に、石築の大きな貯水池が復元されていた。水量を調節できるよう、池の排水溝が併設されていた。

南漢江が流れる忠州は、韓国のへそに当たる。陸路、水路共に開け、まさに中心地であったことから、三国時代には百済、新羅、高句麗の争奪戦の舞台となった。その後も元寇、文禄慶長の役、など戦史に事欠かない。また、山城跡以外にも様々な史跡が残り、見所が多いところである。この山城はまだそれほど有名ではないものの、城壁の残存状態も悪くなく、さらに復元城壁から古代朝鮮の巨大建造物がどうであったかのイメージをつかむのに一つの参考になるかと思う。

2007年4月8日踏査

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2007年11月 3日 (土)

益山の百済遺跡~武王遷都説

益山には百済武王(580-641)が遷都したとの説がある。『韓国の古代遺跡(田中俊明・東潮著)』によれば、文献上では、南斉の『観世音応験記』の日本にしか残っていない写本に、武広王が遷都したとのくだりが見付かっている。武王の別名、武康王と朝鮮語音が似ている。また、帝釈精舎が落雷で焼けたとの記述もあるが、益山で帝釈寺銘の瓦が出土した百済時代の寺跡があり、これに比定できるとのこと。この帝釈寺跡には行って見なかったが、他のいくつかの遺跡を見てまわった。

まずは、五層石塔で有名な王宮里遺跡を訪ねた。

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約500mx250mの長方形の土城が平地に築かれている。この中に五層石塔が残る。王宮里遺跡自体は、百済から高麗時代までの遺物が発掘調査で見付かっているが、どういう場所だったのかは不明で、今も継続中の発掘の成果を待つしかない。遺物の展示館があったが、残念ながら改装工事中で見られなかった。
この五層石塔は一見有名な扶余の定林寺石塔を思わせる百済様式だが、高麗時代の作とのこと。百済滅亡後も、百済の故地に作られる仏塔は百済様式を保ち続けていたようだ。また、この石塔が建てられる前には木塔が建っていたらしいことが最近の発掘調査で分かってきた。

次は、古墳。

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益山双陵と呼ばれる二基の古墳が残る。盗掘されていて木棺以外の遺物は見付かっておらず、被葬者も確定できないが、横穴式石室の様式などから百済後期の古墳と推定され、弥勒寺を創建した百済武王と王妃の墓ではないかと言われている。

最後にいくつか残る山城のうち、益山土城(五金山城)を訪ねた。

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標高125mの五金山に築いた周囲約700m程度の小規模な土城である。百済後期~高麗までの土器・瓦が発掘されている。南門跡など、後代に一部を石城に改築したことが発掘で確認されているが、これが百済時代かどうかは分からない。 土塁の基礎に、石列を並べてあることが発掘で明らかになり、日本の古代山城で見られる神籠石のルーツかと考えられる。

遷都説を裏付ける程のはっきりしたものはまだ見付かっていないが、これらの遺跡を見ていると、少なくとも離宮程度のものはあったのかもしれない、と思えてきた。

2007年1月28日踏査

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2007年5月 6日 (日)

漢城百済の痕跡-1 古墳群

百済の最初の都は漢城百済と言い、慰礼城という王城があったという。それがどこにあったか確定させるほどのものは見付かっていないが、漢江下流域で、現在のソウル市江南地区一帯にあったと推定されている。主に漢江の南側、オリンピック公園の周辺にいくつかの遺跡が残っている。

ソウル市松波区の芳夷洞古墳群には、9基の円墳が残っており、うち一基は横穴式石室を覗き見ることができるようにしてある。周囲は写真の通り近代的なアパート群が密集する住宅地。古墳公園として整備されており、近隣住民が散策していた。

同じソウル市松波区石村洞にある、石村洞古墳群はさながら古墳博物館だ。色々な様式の古墳が一箇所に集中している。

まずは、ここ以外では見たことがない百済初期の石積塚4基が、目を引く。

他に円墳が1基、土溝墓が一基残っている。かなり長い年月に渉っていろいろな階層の共同墓域として使われたようである。1916年の調査記録では、石積塚23基、墳丘墓66基の計89基もの古墳が残っていたとのことだが、開発で失われて現存するのはこれだけだ。

積石塚は、高句麗の初期の墓を思い起こさせる。百済の始祖が高句麗の分派であるとの話を裏付けるようだ。

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芳夷洞古墳群 一号墳と石室内部

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Img_0020_1024石村洞古墳群の石積塚

Img_0021_1024石村洞3号墳。高句麗の将軍塚よりも平面積が大きい。写真ではその大きさが分かりにくいが、東西49.6m, 南北43.7m, 高さ 4mの三段の石積塚だ。

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2006_0923_100159aa_800基壇部だけがかろうじて残った石積塚

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2006_0923_100534aa_640土溝墓

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