カテゴリー「百済の史跡」の26件の記事

2008年11月 9日 (日)

月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?

せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。

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最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。

標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。2007_1027_142118aa_800

▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。

門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
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▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。

2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?

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▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。

この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。

他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?

2007年10月27日踏査

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2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年10月 5日 (日)

天安 黒城山城(흑성산성)~独立記念館の裏山にも古代山城

忠清南道天安市、独立記念館の裏山にある黒城山城(天安市文化財資料364号)は、黒城山(標高519m)の山頂を石築の城壁で囲んだ古城である。外周570m。李朝時代の記録にあるが、何時作られたものか不明である。城内にあたる山頂には米軍基地と放送塔があって一般人の立ち入りは禁止されている。最近、観光用にか、水原華城を模した城門や城壁が作られており、元の城壁はほとんど崩れてわずかに痕跡が残る程度らしい。

独立記念館の運動場を借りて会社の運動会が開かれたので、すぐ裏山だしと思い、このくらいの事前情報でとにかく行って見た。登山道はいくつもあるらしいが、独立記念館側から見て左側(おそらく西)から迂回するように登る「Bコース」というのを取った。このコースは”入山禁止”と看板に書いてあるのだが、登っても大丈夫とのネット情報を信じて、柵を越えて突入。 山城への案内表示は要所要所にあって、迷わず山頂近くにたどり着く。

山頂からの眺めは、最高の風水の明堂と言われる、独立記念館の敷地を後ろから一望に出来て中々爽快だった。
観光用(?)に作られたぴかぴかの城の、裏側に出た。裏からぐるりと回りこんでみたが、行き止まりのようだった。時間の関係でこの辺で終わりにして、下山しようとすると、来る時には気付かなかった、元の城壁の残存部が目に入った! Panorama2short_1024

観光用の城門は見られなかったが、こちらが本命なので、満足して下山。
思っていたよりもかなり遠く、独立記念館の運動場から往復二時間半近くかかってしまった。

ところで、この独立記念館の建設中に敷地内から発見された古代山城がある。木川土城と呼ばれた平山城だが、発掘調査で土塁の基礎に石列が並べられているのが発見され、日本の古代山城との関連が注目されている。しかし残念ながらこの広大な敷地のどこにあったものか、わからない。文化財の指定も受けていないので、記念館の建設と共に破壊されて残っていないだろうと思う。

天安市の観光地図を見ると、意外に山城がたくさんある。
新幹線(KTX)の駅も出来て、今はかなり大きな地方都市に急成長した天安市だが、このあたりは百済の領域だったところ。百済の土器が出ている山城や遺跡もいくつかあるので、また改めて山城めぐりに来たい場所である。

2007年10月13日踏査

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2008年9月23日 (火)

儀旺 慕洛山城(의왕모락산성)~これも漢城百済の初期山城?

ソウルから南に約20km、京畿道儀旺市の慕洛山城を訪ねる。
2002年、2005年に世宗大学博物館によって地表調査が行われ、4~5世紀の漢城百済期の土器が確認されたとのこと。ネットで調べたところ、城壁跡も一部残っている(下写真)ようなので、行ってみることにPhoto

ソウルの地下鉄4号線に乗って仁徳院駅下車。バスで5分ほど南下して、ロッテマートが見えてきたところで降り、そこから徒歩。

標高385mで小高く目立つ山である。登山ルートはいくつもあるが、ケウォン芸術大学後門近くの登山口から1時間のコースを取る。
片道一時間のコースはかなりしんどかったが、行ってみて分かったことがいくつか。

山城の案内図や表示は意外にもちゃんと立っていた。
儀旺市記念物第216号。山頂を地形に合わせて石築、または土石混築の城壁で囲んだ鉢巻式山城である。外周820m。
だが、山城のかなりの部分が韓国軍の基地になっていて、一般人立ち入り禁止であった。ネットで見た北側にあるという城壁も、登山客に聞きながら随分探し回ったが、見つけられなかった。残念。

もう一つ分かったのは、ここが朝鮮戦争の戦跡地であること。中国の人民解放軍がここに陣地を築いた。1951年1月30日から2月4日の間、国連軍が二度の攻撃で攻め落としたとの記念碑と解説板が立っていた。 2007_1006_092817aa_1024
「四日間の血戦で韓国軍1師団15連隊は中共軍663名を射殺し、90名の捕虜を獲得した。一方我が軍も戦死70名、負傷200余名の被害を受けた…」とのこと。激戦地だったようだ。

今は登山道がよく整備されていて誰でも登れるようになってはいるが、三国時代から朝鮮戦争まで、重い装備を背負って登るには相当厳しい、天然の要害だった筈である。

韓国に無数に残る古代山城中、ここのように1500年を経ても役割を終えることができず、軍の基地として現役なところがいくつもある。残念なことである。

2007年10月6日踏査

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2008年7月20日 (日)

大興任存城(대흥임존성)~百済復興運動の任存城比定地だったが・・・

忠清南道禮山郡に残る大興任存城を訪ねた。 鳳首山城ともいう。
忠清南道の真ん中辺り、公州市の北西に位置する。
百済が660年に滅んだ後、百済の残党による復興運動の最後の拠点地になったところと言われている。 しかし後で、徐程錫著「百済의城郭」学研文化社2002 をよく読んでみると、この比定にはあまり大した根拠も無いようで、彼が諸文献を詳細に検討し、現地踏査して出した結論によれば、真の任存城は西隣の洪城郡にある鶴城山城とのことである。私としてはこの説に軍配を上げたい。

さて、ソウルからバスで禮山のバスターミナルまで2時間だが、高速の事故渋滞で3時間もかかった。バスターミナルから任存城までは、市内バスで40~50分。バス停留場から任存城まで、山道を休み休みゆっくり登って40分。朝7時のバスでソウルを出発したが、城に着いた時にはお昼前になってしまった。

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鳳首山という標高483mの山の頂上を、2.4kmに渡って石築の城壁で囲んだ、鉢巻式山城である。百済のこのタイプの山城の中では最大規模である。上掲書では、一般的な百済の城に比べ、標高は高いし、規模も大きすぎるとしている。建物跡は20箇所ほども見付かっている。南門と北門跡が残っているとのことだが、北門跡は気付かずに通り過ぎてしまった。南門跡から城内に入ったが、独特な形の門だった。

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幅は2m程しかなく、大人二人が何とか並んで通れる程度だが、奥行きが10mほどもあって細長い。 この細長い門は、稜線からまっすぐ入りやすいところに位置しているが、多くの百済山城では接近が難しいところを選んで城門を設置しており、これも百済らしくない点として上掲書で指摘されている。城内にいくつか残る井戸跡中、一つを見つけた。綺麗な清水が滾々と湧き出ていた。この山、実に水が豊富で、あちこちに細流があってせせらぎを流れる水の音が絶えなかった。 水が豊富な山城らしく、排水口は南西に3箇所発見されているとのことだったが、一つも見つけられなかった。残念。城壁の少し高い位置に開口しているらしい。夏草に埋もれていたかもしれない。全体に、生い茂る雑草で城壁や遺構が覆われていて非常に見にくかった。やはり山城巡りは晩秋から初春までが良いと思った。
文化財庁HPの解説によれば百済の土器や瓦が見つかっているとのことだったが、それ以上の詳しい記載が無く、もしかしたら地表調査程度で、ちゃんとした発掘調査はまだ行われていないのかもしれない。本当はいつ作られた城だったのだろうか・・・。

それにしても、快晴の好天にも係わらず、他に登山客は1人しか出会わなかった。国家史跡90号に指定されて整備されているところなのだが、やはり皆さん、山城には関心無いようです。

2007年9月8日踏査

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2008年7月 5日 (土)

仁川 桂陽山城(계양산성)~論語の木簡が出た初期百済山城

「最近発掘された百済遺跡」という本を見て、仁川に面白そうな山城を見つけて行ってみようと思った。仁川市北東の桂陽区にある、桂陽山城だ。初期漢城時代(4~5世紀)の百済の土器が出ており、百済の初築の可能性があるとのことである。

仁川市は、江華島と仁川国際空港以外、訪ねたことが無い。
電車を乗り継ぎ、まだ新しい仁川市地下鉄に乗ってソウルから1.5時間ほどで目的の桂山駅に着いた。桂陽山は駅から徒歩5分ほどである。たくさんのハイカーが登山口に向かって歩いていたので、後について行った。

この山城はまだ一部しか発掘されていないが、1.5トン・トラック一台分もの瓦片が出土しており、近くに窯跡があるかもしれないとのこと。
また、石築の井戸からは木簡が出土しており、論語の公冶長編の文章が記されたものがいくつかあり、儒教や漢字文化が伝えられた時期を示唆している。 木簡は五角形に削られていて、五面に文字が記されている。韓国では木簡の出土例がまだ多くないが、このような多角形の木簡はここでしか見付かっていないらしい。書体は魏晋南北朝時代に流行した楷書であるが、これを3~4世紀の百済のものと見るかどうかは異論もあるらしい。

城壁についてはあまり事前情報が無く期待していなかったが、南西側の六角亭前の絶壁に城壁が残っていることが、現地の説明版と写真(下)でわかった。2007_0708_104349aacoloradjusted_800

しかし残念ながら、夏草でびっしり覆われていて城壁全体を見ることはかなわず。かろうじて城壁の端の方に近付くことができて、写真を撮ることができた。小ぶりの四角い切石を積み上げており、古城によく見るタイプである。発掘された土器は今のところ新羅のものが大多数らしい。 Southwallpanorama_1024

この城壁も統一新羅くらいと見るのが無理がなさそうな気がする。他の城壁があったらしきところには、崩れた石塁がところどころ斜面に散乱していた。おそらく北門跡と思われる場所に、特にたくさんの石塁が広がっていた。

この山は水が豊富で、特に緑が濃いと思った。全山、真緑に覆われている感じだ。韓国は岩山が多く、これだけ木々が鬱蒼としているところは久しぶりで、日本みたいだと思った。梅雨空で湿気が多かったので余計にそう感じたのかもしれないが。

曇ってはいたが、それでもなかなかの眺望。近隣住民の人気のハイキングコースのようで、こんな天気でもたくさんのハイカーで賑わっていた。
山城の中は共同墓地になっているのだが、仁川市は墓地の買収と移葬を進めており、ここを2007年中に国家史跡に登録して、2008年から山城の復元事業を本格化させる計画とのことであったが、一年後の今日現在、まだ国家史跡には登録されていないようだ。

2007年7月8日踏査

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2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 8日 (日)

六渓土城(육계토성)~臨津江沿岸の古城群-2

臨津江沿いに、瓠蘆古壘から始めて東に向かって順番に城址を訪ねた。Yeonchun_map_rev2_1024

瓠蘆古壘の対岸に対峙する位置にある二残眉城は、残念ながら韓国軍の基地になっていて、一般人は入ることができない。その東にある、六渓土城を目指した。蛇行する臨津江が北に大きく湾曲する場所であり、この辺りは浅瀬になっていて、朝鮮戦争の時には北朝鮮の戦車部隊が渡河したところらしい。当然、戦略的に抑えなければならない要地であるが、ここに、平地の土城である六渓土城の痕跡が残っている。

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Google Earthで見るとこんな感じである。岸沿いに、楕円形のような地割りが見える。資料を参考に城壁ラインを辿ってみると、下図のようになる。

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赤線が残存城壁が確認されている部分。黄色は城壁推定ライン。外周約1.7kmで、城内に220mの間隔を置いて、平行する二本の土塁線がある。推定門址は、東西南の三箇所。また、西門跡には東西に長く、南城壁中央まで伸びる低湿地が確認されており、川まで繋がる水路の存在が想定されている。臨津江から直接船で城内に入れるようにしてあったのではとのこと。

このような平地の土城は、三国時代のごく初期に作られたものと見られ、初期百済の王城と推定されている、ソウル市の風納土城が最も有名である。風納土城は規模こそ外周3.7kmと六渓土城の約二倍であるが、川沿い、漢江の南岸に立地している土城で、プランはよく似ている。平地に版築土塁で囲んだ城というのは、中国で発生した城郭という文化が、まだ直輸入状態のようでもある。

2007年6月16日踏査

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2008年4月13日 (日)

望夷山城(망이산성)~百済の土城を新羅が拡張改築

京畿道安城市一竹と忠清北道陰城郡の境界にある望夷山城を訪ねる。標高472mの山頂にある山城で、百済の築城になる小規模な鉢巻式土城を含む谷を、統一新羅時代の包谷式石城が2kmにわたって囲んでいる。
山頂近くに梅山寺という小さな庵程度の寺があり、そこまで麓から車一台がやっと通れる舗装路が続いている。そこからさらに徒歩で数100m上がれば、望夷山城にたどり着く。
統一新羅時代と言われる石垣は、下層部しか残っていない部分が大半だったが、城門跡三ヶ所や、雉城と呼ばれる城壁の突出部も五ヶ所が残っている。城内は水が豊富で今も水を湛える井戸が残っているだけでなく、小川が流れており湧き水が出るところも数箇所あった。 出土遺物は、青銅器時代後期から、百済、統一新羅、高麗、李朝と継続している。注目されるのは、鉄製短甲が出ていること。Photo 日本の古墳からも多く出土する武具である。青銅器時代の遺物が山頂から出る例は多くないようだが、三国時代以前、この山がどのような場所だったのか、興味深い。

また、残念ながらうまく場所を確認できなかったが、この城内の山頂あたりに李朝時代の烽火台跡がある。東蓬、忠州からの直烽と、南海、晋州方面からの間烽の二系統をソウルの南山烽火台に伝える重要な役割を担っていたようだ。

今ではこれという特徴も無い田舎町であるが、有史以来李朝末まで、交通・通信の拠点として重要な役割を担ってきた地であったろう。

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2007年4月7日踏査

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2008年2月20日 (水)

月籠山城(월롱산성)~漢城百済の痕跡-7

坡州市統一展望台のある烏頭山城から東数kmの標高218mの岩山の頂上に、月籠山城がある。外周1.3km。百済が4世紀頃に築いた山城址と言われている。
築いたと書いたが、城壁らしい遺構はほとんど残っていない。まず、この山の頂のかなりの部分が数10mの絶壁に囲まれていて正に天然の要害である。人工の城壁を築くまでもなかったろう。また、絶壁になっていないところには城壁を築いた筈であるが、そこには韓国軍が古タイヤで築いた塹壕が構築されていて、もとの状態がどうだったのか想像するのは難しい。岩を階段状に削った城門址が二つあると聞いたが、ちょっと素人には判別できなかった。

本格的な発掘はまだされていないが、2002年と2003年に地表調査が行われている。収集された遺物は土器片が中心で、若干の瓦片、鉄器、陶磁器片も出ている。土器片1,193点が収集されたが、焼成温度の高い硬質土器が959点で大部分。文様は様々なものが出ているが格子文土器が多く、漢城百済の代表的な遺跡とされている夢村土城や風納土城から出る土器と共通性を見せているとのこと。高麗時代、李朝時代の土器・陶磁器も少し見つかっているが、大部分が4~5世紀の漢城百済時代の土器片と見られている。

韓国軍の手がかなり入っていたり、頂上の平坦地に公園が造成されたりしているので、ほとんどの遺構が破壊されている可能性もあるが、本格的な発掘調査が待たれる。

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2007年3月1日踏査。上写真は月籠山頂上と20mを越える断崖。

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2008年2月10日 (日)

烏頭山城(오두산성)~漢江と臨津江の交わる国境地帯

京畿道の北西部、坡州市にある烏頭山城を訪ねる。
この地域は漢江と臨津江が交わり、海につながる交通の要衝であり、三国時代から現代まで熾烈な戦闘が繰り返されてきたところである。

現在、この山城跡には統一展望台が建っている。展望台に上って河向こうの北朝鮮を望み見ると、右に臨津江、左が漢江で、正面の陸地が北朝鮮となる。この山城はこの二つの大河が交わるところに突き出た岬のような地形になっている。標高119mに過ぎないが、周囲に高い山が無く眺望は極めて良い。この辺りで要塞を作るなら正にここしかないだろう。

発掘された遺物も、この交通の要衝だけあって三国時代から李朝時代のものまで連続している。李朝時代から、この城の立地から推測して、392年に高句麗軍が20日間で陥落させた百済の関弥城に比定されてきたが、今のところそれを積極的に裏付けるような遺物は見つかっていない。遺物中、注目されるのは「元泉」「泉井」「草下」などの銘文が刻まれた瓦片。676年に、新羅が唐との決戦の前に戦った「泉城」との関連が指摘されている。

肝心の城の遺構であるが、残念ながら北側駐車場裏の斜面に10数m、ほんの数段の石積みが残るだけである。朝鮮戦争の際、激しく破壊されてこれしか残っていないとのこと。それ以前の写真があれば是非見てみたいものだ。

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2007年3月1日踏査

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2008年2月 3日 (日)

雪城山城(설성산성)~漢城百済の痕跡-6

京畿道利川市の雪城山城を訪ねる。近くに雪峰山城がある。どちらも雪にちなんだ名前だ。利川市は全体に低い山がちらばる内陸の平地だが、確かにソウルと比べると雪がよく振る。たぶん大昔からそうだったのだろう。

雪城山は、標高290.4mのなだらかな山。山城は、頂上と隣の峰との間の谷を、石の城壁で約1kmに渉って囲んでおり、包谷式山城と分類されている。

1999年から始まった本格的な発掘調査が今も進行中である。3次調査までの2003年の調査報告書がネットで公開されていて、これが中々面白い。あくまでも途中経過の報告で今後の発掘調査完了まで結果は出せないと断りつつも、以下のような見解が述べられている。

1.発掘調査結果、最初に土城があって後から石城に改築した形跡は認められない。
  当初から石城として築いた可能性高い。
2.城壁基底部から出土する土器は4~5世紀の百済様式である。
3.新羅の土器は9世紀のものが中心で、8世紀のものが出ていない。
4.現時点で出土した土器の量はは百済式のものが大多数である。

4~5世紀というと、百済が最初の都を漢城(今のソウル)に構えた時代である。その頃の百済の城といえば版築土塁や木柵による土城ばかりで、石城はまだなかったのでは、と言われて来たが、この雪城山城の発掘調査によって書き換えられていくかもしれない。
近くの雪峰山城も、雪城山城と似ている点が多いとのことで、そちらの調査結果も見直すべきだとの話しが出ているらしい。

全7回の計画になっている今後の発掘調査結果が楽しみである。
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2007年2月24日踏査

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2007年11月17日 (土)

泡川 半月山城 (반월산성)

ソウルから北に50kmほどの京畿道泡川市に残る、半月山城を訪ねる。地下鉄1号線議政府駅からバスで50分程北上した泡川市中心街から、川を挟んですぐ東側、青城山(283m)の頂上にある。 外周1,080mの石築山城だ。

李朝初期に修築した記録があり、言い伝えでは後高句麗の弓裔が築いたとのことだが、1995年から2001年まで6回に及んだ発掘調査の結果、それより遥かに古い城であることが確認された。発掘された遺物中、最も古いものは4世紀後半、漢城時代の百済土器である。長卵形土器などが出ている。続いて高句麗系の土器、新羅、統一新羅、高麗、李朝と、ほぼ全ての時代の遺物が次々に発掘された。そのうち、第1回の発掘で発見された銘文瓦が特に注目を集めている。「馬忽受蟹空口単」と書かれており、これは三国史記にある高句麗の地名、馬忽郡のことと考えられ、泡川が馬忽の地であることの裏付けになると考えられている。“受蟹空口単“は、馬忽の中の地名であろうとのこと(チェ・ビョンシク「最近発掘された百済遺跡(2007年)」)。

三国時代の山城としては大きい方で、周囲1,080mである。稜線に沿って細長く伸びた形状から半月城と呼ばれている。 眺望が四方に開けて天気が良ければ中々の景観だったろうが、残念ながらぐずついた曇り空だった。 近所の住民のハイキングコースになっているようで、朝から散歩する人たちが多かった。

現在残る城壁が何時の時代のものなのかは意見が分かれるようだ。懸門式の城門や、城壁基底部の補築などは新羅の山城に多く見られる特徴だが、百済土器はこの懸門式の城門の基底部から出ていたりして、どこからどこまでが何時の物か確定するのはかなり難しいだろうと思われる。

城壁は発掘調査後、かなりの部分が復元されていてあまり古城の面影を感じさせない。東側城壁の大半は失われていて、城の外周の全てを辿ることが出来なかった。

京畿道北部には高句麗の痕跡を残す遺跡が多く残っているが、規模としてはおそらくここが最大であろう。この城が百済から李朝時代まで継続して1,500年間も活用され続けたことから見ると、かつてこの地が南北の交通の要衝としていかに栄えたであろうかが想像できる。しかし北への交通が途絶え、単なる北辺の地に成り果てた今の泡川にはその面影も無く、寂れた地方都市の一つである。

2007年2月3日踏査

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2007年11月 3日 (土)

益山の百済遺跡~武王遷都説

益山には百済武王(580-641)が遷都したとの説がある。『韓国の古代遺跡(田中俊明・東潮著)』によれば、文献上では、南斉の『観世音応験記』の日本にしか残っていない写本に、武広王が遷都したとのくだりが見付かっている。武王の別名、武康王と朝鮮語音が似ている。また、帝釈精舎が落雷で焼けたとの記述もあるが、益山で帝釈寺銘の瓦が出土した百済時代の寺跡があり、これに比定できるとのこと。この帝釈寺跡には行って見なかったが、他のいくつかの遺跡を見てまわった。

まずは、五層石塔で有名な王宮里遺跡を訪ねた。

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約500mx250mの長方形の土城が平地に築かれている。この中に五層石塔が残る。王宮里遺跡自体は、百済から高麗時代までの遺物が発掘調査で見付かっているが、どういう場所だったのかは不明で、今も継続中の発掘の成果を待つしかない。遺物の展示館があったが、残念ながら改装工事中で見られなかった。
この五層石塔は一見有名な扶余の定林寺石塔を思わせる百済様式だが、高麗時代の作とのこと。百済滅亡後も、百済の故地に作られる仏塔は百済様式を保ち続けていたようだ。また、この石塔が建てられる前には木塔が建っていたらしいことが最近の発掘調査で分かってきた。

次は、古墳。

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益山双陵と呼ばれる二基の古墳が残る。盗掘されていて木棺以外の遺物は見付かっておらず、被葬者も確定できないが、横穴式石室の様式などから百済後期の古墳と推定され、弥勒寺を創建した百済武王と王妃の墓ではないかと言われている。

最後にいくつか残る山城のうち、益山土城(五金山城)を訪ねた。

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標高125mの五金山に築いた周囲約700m程度の小規模な土城である。百済後期~高麗までの土器・瓦が発掘されている。南門跡など、後代に一部を石城に改築したことが発掘で確認されているが、これが百済時代かどうかは分からない。 土塁の基礎に、石列を並べてあることが発掘で明らかになり、日本の古代山城で見られる神籠石のルーツかと考えられる。

遷都説を裏付ける程のはっきりしたものはまだ見付かっていないが、これらの遺跡を見ていると、少なくとも離宮程度のものはあったのかもしれない、と思えてきた。

2007年1月28日踏査

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益山 弥勒寺址(미륵사지)~韓国最古・最大の石塔

全羅北道益山市を訪ねる。百済の最後の都があった扶余の南方、錦江の南側に位置し、百済の遺跡が多く残っているところである。

弥勒寺は、7世紀始め百済武王の頃に作られた、百済最大規模の寺。行って見ると、まず寺域が広大なことに驚かされる。また、伽藍配置も三塔三金堂で独特なもの。特に仏塔は、真ん中に巨大な木塔、東西にこれも巨大な石塔を二つ配するという豪華なものだが、残念ながらこのうち一部でも残ったのは石造の西塔だけである。元来9重の塔だったと言われるが残った部分は6層まで。それだけでも高さが14mもある。朝鮮半島に残る、どの石塔とも似ていない、大型で且つ細工が細かいのが特徴である。木塔を、石材でできる限り模倣して造ったのだろうといわれている。朝鮮の最古・最大の石塔とのこと。
崩壊寸前の状況(写真)2007_0128_112628aa_800_2  だったのを1915年に日本がセメントで補強して保存したが、1999年から10年計画で解体修復中である。2008年までに完了させる予定だが、他に例も無く、非常に複雑な構造(内部構造まで木塔に似せてあるらしい)のこの石塔、本当にあと2年で終わるのかな?と思わせるような進捗状況だった。戦前の日本の学者も、おそらくパズルが解けずに降参し、とりあえず崩壊防止だけ考えてセメントで固めたのではないだろうか。

おそらく百済の最新の技術の粋を集めたであろうこの弥勒寺、どうして都である扶余でなく、益山に作られたのかが謎である。扶余にもこれほどの規模の寺跡は残っていない。この疑問に対する答えの一つとして、ここに一時的にでも遷都したことがあるのではないか、という説がある。その説を支えている、いくつかの遺跡を続いて回ってみた。

2007年1月28日踏査

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2007年10月21日 (日)

扶余 青馬山城 (청마산성) ~全長10km??百済最大の山城

午前中に聖興山城を見た日に、昨年できた百済歴史文化館に行き、100年前の扶余の写真展を見た。国立中央博物館が所蔵している1910~1930年代のガラス乾板写真から、扶余を写したものを集めて展示する企画だった。写真集も購入。6,000ウォン。安い!
ここで青馬山城の写真を見た。時間もまだ昼過ぎで余裕がありそうだったので、この羅城の東側を守る山城にも思い切って行って見ることにした。

月明山(標高118m)の稜線上に築いた山城でこれまでは全長6kmと考えられていた。しかし最近の調査で、大小の山城が繋がった10kmに及ぶ巨大な複合式山城と判明した!とのこと。国家史跡34号にも指定されており、すぐ分かるだろうと高をくくって行ってみたが、どこだかさっぱり分からない。大雑把な観光案内板を目安に近くまでタクシーで移動し、そこからは人に道を聞き聞き訪ねた。 40分ほど山道を歩き回り、無駄に小山を一つ越えて、やっと青馬山城の説明版が立っているところにたどり着いた。しかし現地に残っていたのは稜線上の小高い小山に散在する崩れた石材だけ。それでも一応100年前の写真と同じ場所のような気はする。 他に大きな水門が写ったそそられる城壁の写真もあったが、これはどこで撮ったものか今でも判明していないらしい。その城壁はもう残っていないのかもしれない。
しかし、どこをどう調査して10kmと言っているのか、城の縄張りがさっぱり分からなかったのが残念だった。専門家にでも案内してもらわないと無理だ。恐らくさんざん歩いた稜線そのものが土城址だったのではないかと思うが。

2007年2月10日踏査

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扶余 聖興山城 (성흥산성) ~501年築城の加林城に比定

501年(百済東城王23年)8月、衛士佐平 白加が築城。この地方は当時加林郡と言ったので、加林城と呼ばれた。百済の城郭中、築城年がはっきりした唯一の城とのことである。 白加は、加林郡に送られたことを恨んで反乱を起こしたが、敗れて殺されたと三国史記にあるとのことだ。

この山城は、扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にある。外周1.5km。南側など一部の城壁は石築になっているが大部分は版築土塁で築いている。石築の南門と東門が残っている。ここは都である泗沘城全体を南から見晴らせる場所なのだが、霧が濃くて見られなかった。
泗沘(サビ)城は街全体が羅城で囲まれていたが、この羅城をさらに外側から囲むように、いくつも山城が築かれている。聖興山城はこの都のすぐ南を守る位置であるが、築城は泗沘城へ遷都した538年よりも37年も先立っている。遷都以前に既にこの地が百済にとって重要な地であったことが伺える。

2007年2月10日踏査

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2007年9月22日 (土)

扶余 羅城 (부여 나성) ~百済城郭都市の城壁

羅城とは中国式の都城制で街全体を囲む城壁のこと。
小説などでも有名な平安京の羅城門(羅生門)は、その羅城の南門にあたるのだが、平安京では街の区割りを碁盤の目にする条坊制は導入されたのに、街全体を囲む城壁は作られなかった。城門だけ。どうしてだろう。日本ではその後も羅城は一度も作られない。朝鮮ではこの百済を始めとして、その後羅城は李朝まで受け継がれていく。

百済では、この最後の都である扶余の泗沘城に初めて羅城が作られた。全長8.4kmと推定されている(下記追記注)。現在は一部のみが残っている。今回見てきたのは、陵山里古墳群近くの東門跡付近に数100m残る部分。写真の通り基本的には土城だが基礎部分が石積みになっている。唐が百済を滅ぼした記録に、まず郭に入って、次に城を囲む・・・・と書かれているそうで、街を囲む城郭があって、その中に王城があったことが文献からもわかる。しかし、せっかくこんな立派な城郭や、いくつもの山城で都城を守ったのに、いざ唐・新羅連合軍が来ると、この都は簡単に陥落してしまった。 これもまた謎である。

2007年1月20日踏査

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2007年10月28日追記;

この羅城の範囲及び総長については、諸説ある。「泗沘羅城研究の現段階;朴淳發著2007」によれば、80年代以降、現存しない西羅城、南羅城の存在が主張されていたが、1999年、2000年の発掘調査で西羅城の痕跡は認められなかったとのこと。結果、現在確認されている部分は、扶蘇山城と青山城を結ぶ北羅城0.9kmと、青山城から塩倉里までの東羅城5.4kmを足した総長6.3km。一番古い記録で、李朝初期の『東国與地勝覧』でも13,006尺(約6km)とあり現存の長さとほぼ合致するので、当初から西・南羅城は無かったと結論付けているようだ。韓国文化財庁のホームページの羅城の解説では総長84kmとなっているが、これは8.4kmの誤りで、80年代以降の説で西羅城を含む総長かと思われる。しかしこの最新の説によれば、泗沘の羅城は都市の外周を完全に囲ったものではなく、蛇行する錦江の半円の東側を閉じるような直線に近い構造ということになる。

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2007年9月 1日 (土)

扶蘇山城 (부소산성) ~百済最後の王城を守る山城

忠清南道扶余郡。538年から660年までの約120年間、百済最後の都があったところだ。百済の頃には泗沘と呼ばれた。新羅と唐の連合軍に徹底的に破壊されたためか、飛鳥文化の源流だった筈の百済文化は残念ながら僅かしか残っていない。 しかし、近年の発掘の成果で少しずつその姿を現しつつあると言って良いだろう。

まずは扶蘇山城。王宮があったと推定される地帯のすぐ北に位置する、標高100m程度の低い山に作った土城である。山の北側は錦江に面した天然の要害だ。百済時代をしのばせるのは、この山の頂上を囲む土城の城壁跡と、いくつかの建物址。 今回行ってみて意外だったのは、城壁の縄張りが思いのほか複雑だったこと。案内板によれば、一番外側の大きな外周部分、1.5kmが百済時代のものとのことである。内側に残るいくつかの城壁のラインは、その後の新羅時代と、高麗末~李朝初期に規模を縮小して作った部分だということが発掘調査の結果、分かってきたらしい。

山城の城壁のすぐ外の山腹に、寺跡が残る。西の山腹にあるから西腹寺と呼ぶが当時の名前は分からない。中門、仏塔、金堂の土台や礎石が残っている。伽藍配置は、これらの遺構が全て一直線に並ぶ、日本で四天王寺式と呼ばれる様式である。扶余にいくつも残る百済時代の寺跡は、大抵がこの伽藍配置である。日本では法隆寺の若草伽藍跡などの初期の寺がこの様式を取っている。

ちょっと面白かったのは、この山の南側山麓一帯を発掘中なのだが、これを一般公開していること。散策路が設けてあって、発掘現場を見て回れるようになっている。建物址、工房跡、大路跡、倉庫址などが散在しており、所々に簡単な解説版もあり、ここに百済の都があったことを想像させてくれる。百済の痕跡は、ほとんどが土の中である。

2007年1月20日踏査

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▲扶蘇山上から錦江を望む。

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2007年8月19日 (日)

公山城 (공산성)~百済の臨時首都

ソウルからバスで1.5時間ほど南の、忠清南道公州市を訪ねる。百済が最初の都である漢城を5世紀末に高句麗に攻め落とされたため、急遽都とした場所である。5世紀末から6世紀にかけての約60年間、百済再興の中心地となった。 公山城は、錦江南岸にある標高110mの丘陵を2.6kmに渉って城壁で囲んだ山城で百済が最初に築いた。三国時代の山城と言えば外周数百mから1km以内のものが大半であり、当時としてはかなり大規模なものである。王宮が城内にあったと推定されており、他の多くの山城が緊急避難用の逃げ込み城として作られていることとは性格からして異なる。 百済時代は土城であったが、李朝時代に大部分を石城に改築した。東北側に一部だけ土城が残っており、百済時代の景観が見られるのはここだけのようだ。

錦江沿岸にあって、交通の要衝であり続けたため、その後も李朝時代まで各王朝が継続して使用したようだ。特に興味を引いたのは、新羅時代の遺構である十二角建物址。1990年の発掘で発見されたとのこと。京畿道河南市の二聖山城にも同じものがあったが、山城と十二角建物の組み合わせの意味が謎を呼ぶ。また、貯水池は李朝時代の大規模なものの他に、百済王宮推定地に円形の小規模な石造貯水池が残っていた。

公山城は、近年の比較的新しい発掘の成果まで、各時代の遺構が案内板でいちいち解説されており、朝鮮史に関心があれば、それらを読みながら散策するだけでもガイド要らずでかなり楽しめる。

2007年1月13日踏査

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2007年7月 1日 (日)

忠州 薔薇山城 (장미산성)~漢城百済の痕跡-5

曇天、時々雨との予報にめげず、遠出をした。 韓国のへそ、忠清北道忠州市まで高速バスで二時間弱。南漢江沿いにあるいくつかの遺跡を見るのが目的。その中の目玉が薔薇山城だ。薔薇山にある山城だからそう呼ばれてるだけで昔の名前は分からない。忠州は南漢江沿いに位置し、古代から水路・陸路ともに発達した交通の要衝であったことから、三国が激しく争奪戦を繰り広げたであろうことが想像される。

2007年に出版された「最近発掘された百済遺跡」崔ビョンシク著 によれば、2004年の発掘で以下の点が明らかになった。

・5世紀以前の漢城時代の百済式土器が大量に出たが、高句麗や新羅の遺物はほとんど出ていない。

・城壁の内側に数箇所、戦闘時に投石用に使うにぎりコブシ大の石が集められていた。これは他の山城でも出土例がある。

・木柵用の柱穴列が、北側城壁の回折部で2列見付かった。城壁から外側に11mほどの長さで突出しており、柱穴の間隔は約185cn。木柵による雉城ではないかと推測されているが、石城と木柵雉城の組み合わせは高句麗と新羅では前例が無い。石城との年代前後関係がまだわかっていないが、百済では清原南城ゴル遺跡で発見された例があるとのこと。

この山城のすぐ近くで、有名な中原高句麗碑が見付かっていることから、当初この山城は高句麗の遺跡であると思われてきた。しかし2004年の発掘結果は、この城が百済の城であることを示している。漢城百済時代には石城の技術はなかったとの説がこれまでは常識であったが、近年の利川雪峰山城、利川雪城山城の発掘結果も薔薇山城と同じ様相を見せており、漢城百済時代の百済の経済力や建築技術の常識が書き換えられようとしている。考えてみれば、4世紀の百済は近肖古王の治世時に平壌まで攻め込んで、高句麗王を戦死させたほどの実力を持っていたのであり、その版図もこの時が最大であったようである。遺物は少ないが、漢城百済の実力をもっと大きく見るべきかもしれない。

それにしても凄い規模の山城だった。標高337m、決して高い山ではないが、険しいこと険しいこと。そしてその険しい山におびただしい数の石を積み上げて全長約3kmにも渉って築き上げられている。三国時代の山城は、外周1km以内のものが大半であることを考えれば、当時この城がいかに巨大であったかが想像できる。城壁の大半は崩れて、崖や急峻な斜面にその残骸が大量に散らばって苔むしているが、それにしてもとんでもない量の石だった。薄曇で今にも振り出しそうな空の下でますます鬼気迫る感じであった。 発掘調査で見付かった石造の排水路が、城壁の内側に長く廻らされていて珍しかった。かなり本格的な山城だ。こんな険しい山奥にこれだけ膨大な量の石を運び込んで3kmもの石造の城壁を巡らし、排水施設まで石造で完備していることからみても、この地の重要性が窺い知れる。 城壁は残存部でも、基底部だけ残って、上部が崩れているところが多い。城壁の内部は結構乱雑に石を積み上げて、外側を長方形の切石で綺麗に揃える作りのようだ。城壁が崩れかかったあちこちで、この石の結晶のような剥き出し部をたくさん見ることができた。

それにしても、こんなに険しい山なのだから、そこまで石を積み上げなくても天然の要塞なのにどうして、と考えさせられる。執拗で、何かに憑り付かれて徹底せずにはいられなかったかのような、築城主の意志を感じた。これ程の城を作らずにはいられない程の、三国の激しい争奪戦があったに違いない。こんなところを本気で攻め登って来る奴らの神経も、想像するだに恐ろしい。

2006年11月26日踏査

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▲薔薇山登山案内図。左端②が中原高句麗碑。こちらの登山口から登り始めたが30分ほどで道を見失い、断念。下山して中央下の登山口①▼から登り直した。

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▲登山案内板のすぐ近くにある登り口。冗談のように激しい傾斜。まさかこれではないだろうと通り過ぎて直進して違う山道を進んでしまった。ここでも小一時間のロスタイム。

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▲ひとしきり登ってまた間違えたかと不安になったころに案内表示が。まっすぐ行けば薔薇山。後ろは高句麗碑。もう一つの火薬庫?というのが何だか分からない。

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▲そして右に行くと池址とある。山城の貯水池跡だろう。

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▲かなり大きなクレーターのような丸い窪地があった。これが貯水池跡。

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▲この辺りから城壁の跡と思われる斜面に石が散らばっているのが見え始める。

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▲▼石塁の量が段々密集して多くなってくる。苔むしている。

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▲石塁が延々と続く。傾斜は段々ゆるやかになってくる。

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▲城内側の石積みが若干残っている部分。

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▲石築の排水路。2006_1126_110033aa_640

▲排水路は城壁に沿って長々と続いている。

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▲排水路というよりは斜面に沿って下の貯水池に水を集める集水路かもしれない。とにかく長い。

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▲頂上が近付いてきたあたりの見晴らしの良いところに墓があった。南漢江を見下ろす。山城も朝鮮の伝統的な墓も、どちらも見晴らしの良さが要件になっているので、山城めぐりをすると必ずいくつもの墓に出会う。

2006_1126_120251aa_640 ▲変わった墓碑だ。わざわざ朝鮮学生とあるのは植民地時代のものか?分からない・・・。

2006_1126_115108aa_640 ▲薔薇山頂上。標高336.9m。案内板に書いてある通り、麓から一時間近くかかった。距離は1.4kmだが、急傾斜が多いので、汗だくになって休み休み登った。

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▲薔薇山城案内板。1997年に史跡400号に指定された。「百済時期の遺物がたくさん発見されているが、このような山城の源流は高句麗系統に属するもので、中原高句麗碑と関連して高句麗勢力の南下に関連する大変重要な遺跡として評価されている。」この先の発掘調査で高句麗の遺物が出てくればそうも言えるだろうが、無理のある言い回しである。

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▲解説版は頂上付近に設置されている。北側の山を見晴らす。

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▲北側の城壁の回折部。ここから突出する二列の木柵柱穴が発掘されたと後で分かった。柱穴は埋め戻されていたので分からなかった。ここを右側に進んで回り込むと、上記の解説版の下の城壁に出ることができる。

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▲▼城壁に沿って進む途中で水口らしき部分を見つけたが、単に石が抜け落ちているだけのようにも見える。

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▲石積みが残るのは主に下段の基底部で、上部はほとんど崩壊している。

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▲城壁内部に詰め込んだ内込め石は不定形だが、石の結晶のようにびっしりと詰め込まれている。はらわたが剥き出しになってようで不気味だった。

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▲6~7mくらいの高さだろうか。崩壊した城壁に沿って元来た道を戻るようにさらに進む。

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▲城壁外側の下部にも排水路がめぐらされていた、と思ったのだが、これはもしかしたら韓国軍が作ったものかという気もしてきた。よく山中で軍が作った塹壕を見かけるが、これは塹壕には狭く浅すぎて、やはり排水路にしか見えない。2006_1126_113600aa_1024

▲もっとも城壁の残存状態が良い北西部の城壁が見えてきた。

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▲▼斜面に沿って延々と続く城壁。

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▲城壁基底部は、岩盤を削ったところに粘土を押し固め、そこに第一段の石が積まれているとのこと。初段の石は、半分以上粘土に埋まっている。初段だけが少し外に飛び出していて、二段目以降はほぼ垂直に積み上げている。

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▲大岩は削らずにそのままよけて石が積まれている。

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▲崩壊部分の接写。

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▲▼城壁に沿って大分降りてきた。山頂部を見上げる。

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▲そのまま斜面に沿って下山する。

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▲薔薇山を振り返る。トラックの見える辺りが登山口。

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▲中原高句麗碑近くのバス停。イプソク。立石、かな?忠州市内の北、車で15~20分ほどのところだ。

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▲忠州市バスターミナル。東ソウル・バスターミナルから頻繁にバスが出ている。

2007年6月25日 (月)

利川 雪峰山城 (설봉산성)~漢城百済の痕跡-4

東ソウル・バス・ターミナルから高速バスで東南方向に1時間弱で行ける京畿道利川市は陶磁器と温泉で有名で、観光コースにもなっているところ。雪峰山城は、陶磁器エキスポが開催された雪峰公園一帯の、低くなだらかな山の頂にある。利川バス・ターミナルからタクシーで10分とかからない。

三国時代の土器が多数発掘されており、城壁基底部から出た土器から見て、4世紀頃の漢城百済の山城との説が有力になってきている。ここから出た土器は、4~5世紀の百済系のものと、6~8世紀の新羅系のものが多い。高句麗系の土器は出ていない。発掘計画は全7回で、既に6回の発掘調査を終えている。一方で、その頃の百済なら土城がほとんどで、石築山城の技術はまだ無かったはずとの意見も根強いらしく、学会の意見が分かれているように見える。私見では、木簡や碑文などの文字資料が出ない限りは、ものさしとして使えるのは土器の編年しかないのであるから、まずはそれに従うべきだと思うのだが。反論があれば土器の編年を崩す論証を上げないと意味が無いと思う。

こういう見方で近年の山城の発掘成果を見ていくと、京畿道から忠清道にかけての南漢江流域に、初期百済の手になる山城と見てよさそうな城跡が増えてくる。これまで石築の古城と言えば、新羅か高句麗か、という目で見られていたようだが、4世紀の漢城時代の初期百済が相当な実力と高い築城技術を持っていたことが明らかになりつつあると言って良いだろう。

さて、この城は周囲1kmくらいの山城だが、1/3ほどが復元された真っ白い城壁で、公園としてよく整備されている。しかし、どうしても昔の城壁が残っている部分が見たくて、藪の中に棘を掻き分け掻き分け歩き回り、やっと見つけたのが僅かに北側に残る城壁の一部と、西側崖下の少し長い城壁だ。城内には建物跡や烽火台跡、八角形の社稷壇などが残る。そして驚いたのは城内に積み上げられた大量の土器片。最初、なにかの土俗信仰に関連したものかと思って近づいて見たところ、様々な文様が表面に刻まれた土器片の山でびっくり。まわりにもかけらと思われるものがポロポロ落ちていた。

2006年11月25日踏査

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▲雪峰公園の湖と、雪峰山。

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▲雪峰公園案内図。山城は右端の方にある。

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▲20分ほど登ると、東門の復元された白い城壁が見えてくる。

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▲東門

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▲史跡第423号 雪峰山城解説版

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▲東門から見渡した利川市内

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▲東門付近

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▲カル・パウィ(刀岩);この付近に建物跡などがある。

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▲カル・パウィ(刀岩)の後ろから利川市内を望む

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▲烽火台 李朝時代のものか

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▲社稷壇;八角形の石積みの祭壇。ソウルの王宮の西にある李朝時代の社稷壇とは形状も大きさも異なる。いつの時代のものだろうか。

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▲中国の春秋戦国時代に始まった社稷信仰は、朝鮮には三国時代に伝わったとのこと。

社=地の神、稷=穀物の神であって、先祖の宗廟とあわせて国家が祭るべき神である。日本には社稷ということばだけが国家を表すものとして伝わっているが、信仰自体は受け入れられなかったのだろうか。

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▲社稷壇のあたりから市内を遠望

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▲▼東西14.3m、南北5.7mの南将台址。統一新羅末頃の見張台である。

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▲城内の建物跡などを見た址で、東門にもどり、左回りで城壁を一周して見る。

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▲▼2006_1125_084158aa_800 北側に回りこむ途中の急斜面に石垣が僅かに残る。

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▲復元城壁部分

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▲土器片の山

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▲いろいろな模様の土器が混在している。

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▲土器片はいくらでも散らばっている。こんな白っぽいのもある。

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▲井戸の跡。今でも水が湧き出ている。

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▲北側に残る古い城壁

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▲よく整えた形状の長方形の石を「品」字型に積み上げている。

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▲復元された北側城壁。斜面や大岩のある地形に沿って城壁を構築している。

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▲▼わかりにくいが西側の谷に積まれた城壁が下に見える。

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▲▼下まで降りて西壁に近付くが、潅木が密集していて容易ではない。

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▲古い西壁の真ん前まで何とか近付く。切石は大きさが完全に規格化されてはいないが、厚さは同一にそろえたものを積んでおり、ほぼ水平になっている。やはり品の字型に積んでいる。

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▲▼同じ場所から左右を写す。

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▲城壁の回りこみ部分。2006_1125_094653aa_800_1

▲▼一周して東門に戻る。

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▲城壁は数度の修・改築を経ているらしいが、近年の復元部分と古い城壁の区別しかできなかった。より古い部分は下層に埋め戻されているのかと思う。地形は意外と複雑で、城壁が途切れている部分も多く、全体の構造が今一つ掴めなかった。

2007年5月27日 (日)

陽川古城址 (양천고성지)

  陽川古城址は、金浦空港から遠くない、江西区の漢江南岸にある弓山 (74.3m) の上にある。 小さな山であるが、周辺が平坦なため、遠くからでもこんもりと盛り上がったこの山が見えた。平らな山頂をぐるりと囲んだ、鉢巻型と呼ばれる形式の山城である。北側は漢江を見下ろす絶壁で天然の要害になっている。城壁は殆ど残っておらず、残骸かと思われる石が多少転がっているくらい。百済や、その後の統一新羅時代の土器片が見つかっているそうで、古くは百済が対高句麗戦の為に築いたらしい。その後も続けて使われ、文禄慶長の役では義兵の集結地として記録があり、新しいところでは朝鮮戦争で韓国軍が駐屯した。一方でこの見晴らしの良さは戦略的価値が高いだけでなく、絶景としても有名で、昔から有名な文人が詩を読んだり絵を描いたりしたとのこと。
さて、今は近隣住民の憩いの場で、公園として整備されている。この日も幼稚園児たちが遠足に来ていた。のどかで結構。ここにまた軍人が集結することが無いように祈るばかりだ。
残念ながら雨が降る前の曇り空で遠くまで見渡せなかったが、晴天ならばかなりの眺望の筈。

踏査日;2006年11月6日

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▲陽川郷校。李朝時代に各地に作られた儒教教育機関。山城の南側麓に位置する。

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▲陽川郷校を横に通り過ぎると、史跡372号、陽川古城址へ向かう道となる。

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▲ゆるい傾斜の山道を10分も進めば頂上だ。

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▲頂上は広い平坦地となっている。もともとの地形か整地したものか分からない。

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▲城跡の外周に沿って散策路や見晴台が設けられている。この右側は漢江に向かって断崖になっており、天然の要害をなしている。

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▲頂上から見晴らした漢江。恐らく対岸に見える山がそうだと思うが、これも三国時代からあると言われている幸州山城がある。左下に見える道路がオリンピック道路で、漢江の南岸に沿って通っている。仁川空港から車でソウル市内に向かう時に、必ず通る道路である。気をつけて車窓から見れば、この山城がある弓山が見える。

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▲城址を東側から見上げる。

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▲李朝時代の望楼が再現されている。

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▲望楼から見た漢江。

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▲東南から城跡を見上げるが、城壁の跡を見出すのは難しい。

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▲▼南側斜面に石が散乱している。城壁の名残か。

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▲南側の上り口から見下ろす。

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▲城隍廟だ。ピカピカの新品だが、横の説明版によれば李朝初期(1530年)の記録にこの山に廟があったことが記されているとのこと。城隍廟は中国の道教から来ており、城(=町や村)の守り神のようなものであるが、朝鮮に入って、土着の山神信仰と結びついたようで、平地ではなくこのように山中に廟を構えていることが多い。山城めぐりをしているとよく目にする。

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2007年5月13日 (日)

漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성)

カジノで有名な漢江沿いのウォーカー・ヒル・ホテルの裏山に、阿且山城(a-cha san-seong)はある。
三国時代に百済が対高句麗防衛の為に作ったのが最初であろうと推定され、その後高句麗、新羅と主人が代わっていったようだ。有名な高句麗の広開土王碑に、平らげた城の一つとして阿旦山城の名前を見ることが出来るが、それがこの阿且山城に比定されている。漢城百済が高句麗に攻め落とされた時、盖鹵王が捕まってこの城の下で殺されたといわれている。また、高句麗平原王の娘婿である温達将軍が新羅軍の矢に当たって戦死したとの伝説も残っており、三国が幾度も激戦を繰り広げた最前線だったようである。
 現在残る城壁はどの時代のものかまだ解明されていないもよう。調査が続いており、保護の為に城壁を柵で取り囲んで中に入れないようになっていて残念。城壁自体も森の中に埋もれていて、写真のように一部がちらりと垣間見えるだけである。とは言え山頂からの景色は中々のもので爽快。
ここからは漢江を南に挟んで、百済の旧都であろう夢村土城や風納土城を始め、周囲を遠くまで見渡すことができ、城塞として最適な場所だったことが分かる。他にもこの山脈沿いに高句麗の保塁址がいくつも点在していて、今後発掘と整備がさらに進むものと思われる。

2006年10月7日踏査

2006_1007_085549aa_800 案内板。城域の図と発掘調査で出てきた遺物の写真、阿且山城保存事業への理解を求める説明文が書いてある。

2006_1007_085835aa_800 僅かに垣間見える石垣のアップ。

2006_1007_091426aa_800 柵の外から西壁が見える。

2006_1007_091441aa_800 この城壁が見える範囲は数十mしかない。早く中を解放して欲しいものだ。

2006_1007_093414aa_800 城内には入れないので、すぐ隣の峰から見たソウル市内の展望。

写真をクリックすると大きく見られます。

2006_1007_100953aa_800_1 阿旦山第四保塁跡。阿旦山城を過ぎて、隣の峰に向かう途中にある。

高句麗が漢江流域を獲得したのは漢城百済を滅ぼした5世紀末から6世紀後半までの約80年間。その間に作った要塞跡が、この阿旦山一帯の連峰に点々と残っており、発掘調査が続いている。

2006_1007_101007aa_800 高句麗保塁の発掘調査の時の写真が見られる説明版がいくつも設置されている。現在はほとんど埋め戻されていて、見ることが出来ない。

2006_1007_101106aa_800 何と、オンドルの遺構もここで見付かっている。朝鮮では北国の高句麗がオンドルを使い始めたらしい。

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2006_1007_101405aa_800 門柱の礎石と思われる石が露出していた。

2006_1007_101604aa_800 山頂付近から漢江を望む。

2007年5月 6日 (日)

漢城百済の痕跡-2 土城址

百済初期の都、慰礼城がソウル市松波区のオリンピック公園辺りにあったろうと推定されており、二つの土城址が残っている。その一つが地下鉄千戸駅近くにある風納土城。全周3.7kmに渉り、土を幾層にも突き固めた版築土塁の城壁で平地を囲んだもの。現在は西側の一部が1925年の漢江の洪水で失われたり、南側や東側がかなり表土が失われて高さが低くなったりもしているが、1500年の風雪に耐えて一応半分以上が残っている。北側は結構高さを保っており、約7m程か。東側は4箇所城壁が途切れて道路が通っているが、ここには城門があったと推定されている。
発掘調査では、三国時代の百済の遺物は言うに及ばず、先史時代の土器も見つかり、この漢江沿いの一帯が先史時代から人が暮らしてきた豊かな土地だったということが分かる。三国時代には百済、高句麗、新羅がこの地域の争奪戦を繰り広げたらしい。そのころ暮らしていた人々がどんな顔でどんな言葉を話していたのか、興味は尽きない。
現在、この城壁の内側はどうなっているかというと、完全に生活空間である。マンションと住宅地が密集して大半を占め、北側にはトッケビ(おばけ)市場と呼ばれる、アメ横のように狭い路地が延々と続く田舎臭い市場が残っている。先史時代から2000年以上、この国でずっと人口密度が高いところなのだろう。

この風納土城の南側、オリンピック公園の敷地内に残る夢村土城は、海抜45mの丘陵地をうまく利用して全長2.7kmの版築土塁で囲んだ、百済初期城郭跡である。ここでは土塁上に木柵を築いた痕跡が残っている。発掘された土器などから、中心年代が4~5世紀と推測されている。西晋の錢文陶器片が出ていることから上限を3世紀末とし、高句麗の南進で475年に漢城百済が滅ぼされるまで続いたものと思われる。

2006_1005_094054aa_800map 風納土城地図。漢江のすぐ南岸に位置する。

2006_1005_090714aa_800 風納土城東側の土塁跡。土塁が途切れたところは道路が通っているが、城門跡と推測されている。

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2006_1005_091828aa_800 トッケビ市場。左手前の魚は、クルビと呼ばれるイシモチの干物。

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狭い露地に、店舗だけでなく露天商も軒を連ねる。

2006_1005_094441aa_800 犬鍋の店。看板がユーモラス。

犬の絵の下に、「俺、トンケ・・」と書いてある。トンケは直訳すると何なのだが、食用犬とでもしておけば良いのかな?

2006_1005_094456aa_800風納土城の北西の城壁が途切れる辺りは駐車場になっている。 

2006_1005_094756aa_800風納土城で一番残存状態が良い北側の土塁。

2006_0923_103602aa_800 オリンピック公園入口の不思議なモニュメント。ちょっと理解できないセンス。

2006_0923_104135aa_800南側から見た夢村土城。丘陵地を掘が囲んでいる。

2006_0923_104954aa_800夢村土城の土塁。散策路が設けられ、公園として整備されている。中には竪穴式住居跡や、歴史資料館もある。

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2006_0923_114049aa_800 写真は木柵の柱穴が見付かった場所に、柵を復元したもの。

漢城百済の痕跡-1 古墳群

百済の最初の都は漢城百済と言い、慰礼城という王城があったという。それがどこにあったか確定させるほどのものは見付かっていないが、漢江下流域で、現在のソウル市江南地区一帯にあったと推定されている。主に漢江の南側、オリンピック公園の周辺にいくつかの遺跡が残っている。

ソウル市松波区の芳夷洞古墳群には、9基の円墳が残っており、うち一基は横穴式石室を覗き見ることができるようにしてある。周囲は写真の通り近代的なアパート群が密集する住宅地。古墳公園として整備されており、近隣住民が散策していた。

同じソウル市松波区石村洞にある、石村洞古墳群はさながら古墳博物館だ。色々な様式の古墳が一箇所に集中している。

まずは、ここ以外では見たことがない百済初期の石積塚4基が、目を引く。

他に円墳が1基、土溝墓が一基残っている。かなり長い年月に渉っていろいろな階層の共同墓域として使われたようである。1916年の調査記録では、石積塚23基、墳丘墓66基の計89基もの古墳が残っていたとのことだが、開発で失われて現存するのはこれだけだ。

積石塚は、高句麗の初期の墓を思い起こさせる。百済の始祖が高句麗の分派であるとの話を裏付けるようだ。

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芳夷洞古墳群 一号墳と石室内部

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Img_0020_1024石村洞古墳群の石積塚

Img_0021_1024石村洞3号墳。高句麗の将軍塚よりも平面積が大きい。写真ではその大きさが分かりにくいが、東西49.6m, 南北43.7m, 高さ 4mの三段の石積塚だ。

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2006_0923_100159aa_800基壇部だけがかろうじて残った石積塚

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2006_0923_100534aa_640土溝墓

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