カテゴリー「百済の史跡」の27件の記事

2021年8月17日 (火)

今シーズンに訪ねたい城:谷城 堂洞里山城 (곡성당동리산성)

さて、前回の書き込みから一年経ってしまい、何か書かないと更新できなくなるとのアラームメールが来ました.

何か書こうと考えてましたが、何しろ夏真っ盛りで最近どこにも踏査に行っておりません。とりあえず、今日たまたま見つけたYouTubeの城情報を上げておこうと思います。全羅南道谷城郡の堂洞里山城です。ここは一度訪ねたいと思っていた山城ですが、情報が少なくてちょっと後回しになっていました。

リンクの文化財庁ホームページに写真が上がっている城壁がどの位置にあるのか知りたかったのですが、このyoutube動画を見ると、東門の北側、急傾斜の地形に沿って階段状に石材を積み上げた部分のようです。2017年に試掘調査をした時の映像らしく、解説に登場する沈正輔先生によればこの階段状の積み方を「逆基壇」と呼んでいて、百済の特徴的な城壁だとしています。百済時代の郡の治所(兼軍事拠点)として築城されたのではないかと仰ってます。

またこの動画では、谷城郡の北西にあるソルサン山城(설산산성 )も紹介されています。こちらは文化財登録されておらず存在も知りませんでしたが、城の大部分が絶壁の地形を利用し、一部にだけ人工の城壁を築いてあるとのこと。統一新羅時代のようです。標高523mでちょっとしんどそうですが、余裕があれば堂洞里山城を訪ねる時に併せて訪ねてみたいです。

곡성당동리산성 (谷城 堂洞里山城)

곡성, 산성을만나다 6min

 

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堂洞里山城はKakaoMapに場所が登録されてます。ソル山山城は「ソル山」と登録されていて登山道が整備されてそうに見えます。

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2008年11月 9日 (日)

月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?

せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。

Photo

最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。

標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。2007_1027_142118aa_800

▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。

門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
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▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。

2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?

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▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。

この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。

他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?

2007年10月27日踏査

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2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年10月 5日 (日)

天安 黒城山城(흑성산성)~独立記念館の裏山にも古代山城

忠清南道天安市、独立記念館の裏山にある黒城山城(天安市文化財資料364号)は、黒城山(標高519m)の山頂を石築の城壁で囲んだ古城である。外周570m。李朝時代の記録にあるが、何時作られたものか不明である。城内にあたる山頂には米軍基地と放送塔があって一般人の立ち入りは禁止されている。最近、観光用にか、水原華城を模した城門や城壁が作られており、元の城壁はほとんど崩れてわずかに痕跡が残る程度らしい。

独立記念館の運動場を借りて会社の運動会が開かれたので、すぐ裏山だしと思い、このくらいの事前情報でとにかく行って見た。登山道はいくつもあるらしいが、独立記念館側から見て左側(おそらく西)から迂回するように登る「Bコース」というのを取った。このコースは”入山禁止”と看板に書いてあるのだが、登っても大丈夫とのネット情報を信じて、柵を越えて突入。 山城への案内表示は要所要所にあって、迷わず山頂近くにたどり着く。

山頂からの眺めは、最高の風水の明堂と言われる、独立記念館の敷地を後ろから一望に出来て中々爽快だった。
観光用(?)に作られたぴかぴかの城の、裏側に出た。裏からぐるりと回りこんでみたが、行き止まりのようだった。時間の関係でこの辺で終わりにして、下山しようとすると、来る時には気付かなかった、元の城壁の残存部が目に入った! Panorama2short_1024

観光用の城門は見られなかったが、こちらが本命なので、満足して下山。
思っていたよりもかなり遠く、独立記念館の運動場から往復二時間半近くかかってしまった。

ところで、この独立記念館の建設中に敷地内から発見された古代山城がある。木川土城と呼ばれた平山城だが、発掘調査で土塁の基礎に石列が並べられているのが発見され、日本の古代山城との関連が注目されている。しかし残念ながらこの広大な敷地のどこにあったものか、わからない。文化財の指定も受けていないので、記念館の建設と共に破壊されて残っていないだろうと思う。

天安市の観光地図を見ると、意外に山城がたくさんある。
新幹線(KTX)の駅も出来て、今はかなり大きな地方都市に急成長した天安市だが、このあたりは百済の領域だったところ。百済の土器が出ている山城や遺跡もいくつかあるので、また改めて山城めぐりに来たい場所である。

2007年10月13日踏査

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2008年9月23日 (火)

儀旺 慕洛山城(의왕모락산성)~これも漢城百済の初期山城?

ソウルから南に約20km、京畿道儀旺市の慕洛山城を訪ねる。
2002年、2005年に世宗大学博物館によって地表調査が行われ、4~5世紀の漢城百済期の土器が確認されたとのこと。ネットで調べたところ、城壁跡も一部残っている(下写真)ようなので、行ってみることにPhoto

ソウルの地下鉄4号線に乗って仁徳院駅下車。バスで5分ほど南下して、ロッテマートが見えてきたところで降り、そこから徒歩。

標高385mで小高く目立つ山である。登山ルートはいくつもあるが、ケウォン芸術大学後門近くの登山口から1時間のコースを取る。
片道一時間のコースはかなりしんどかったが、行ってみて分かったことがいくつか。

山城の案内図や表示は意外にもちゃんと立っていた。
儀旺市記念物第216号。山頂を地形に合わせて石築、または土石混築の城壁で囲んだ鉢巻式山城である。外周820m。
だが、山城のかなりの部分が韓国軍の基地になっていて、一般人立ち入り禁止であった。ネットで見た北側にあるという城壁も、登山客に聞きながら随分探し回ったが、見つけられなかった。残念。

もう一つ分かったのは、ここが朝鮮戦争の戦跡地であること。中国の人民解放軍がここに陣地を築いた。1951年1月30日から2月4日の間、国連軍が二度の攻撃で攻め落としたとの記念碑と解説板が立っていた。 2007_1006_092817aa_1024
「四日間の血戦で韓国軍1師団15連隊は中共軍663名を射殺し、90名の捕虜を獲得した。一方我が軍も戦死70名、負傷200余名の被害を受けた…」とのこと。激戦地だったようだ。

今は登山道がよく整備されていて誰でも登れるようになってはいるが、三国時代から朝鮮戦争まで、重い装備を背負って登るには相当厳しい、天然の要害だった筈である。

韓国に無数に残る古代山城中、ここのように1500年を経ても役割を終えることができず、軍の基地として現役なところがいくつもある。残念なことである。

2007年10月6日踏査

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2008年7月20日 (日)

大興任存城(대흥임존성)~百済復興運動の任存城比定地だったが・・・

忠清南道禮山郡に残る大興任存城を訪ねた。 鳳首山城ともいう。
忠清南道の真ん中辺り、公州市の北西に位置する。
百済が660年に滅んだ後、百済の残党による復興運動の最後の拠点地になったところと言われている。 しかし後で、徐程錫著「百済의城郭」学研文化社2002 をよく読んでみると、この比定にはあまり大した根拠も無いようで、彼が諸文献を詳細に検討し、現地踏査して出した結論によれば、真の任存城は西隣の洪城郡にある鶴城山城とのことである。私としてはこの説に軍配を上げたい。

さて、ソウルからバスで禮山のバスターミナルまで2時間だが、高速の事故渋滞で3時間もかかった。バスターミナルから任存城までは、市内バスで40~50分。バス停留場から任存城まで、山道を休み休みゆっくり登って40分。朝7時のバスでソウルを出発したが、城に着いた時にはお昼前になってしまった。

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鳳首山という標高483mの山の頂上を、2.4kmに渡って石築の城壁で囲んだ、鉢巻式山城である。百済のこのタイプの山城の中では最大規模である。上掲書では、一般的な百済の城に比べ、標高は高いし、規模も大きすぎるとしている。建物跡は20箇所ほども見付かっている。南門と北門跡が残っているとのことだが、北門跡は気付かずに通り過ぎてしまった。南門跡から城内に入ったが、独特な形の門だった。

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幅は2m程しかなく、大人二人が何とか並んで通れる程度だが、奥行きが10mほどもあって細長い。 この細長い門は、稜線からまっすぐ入りやすいところに位置しているが、多くの百済山城では接近が難しいところを選んで城門を設置しており、これも百済らしくない点として上掲書で指摘されている。城内にいくつか残る井戸跡中、一つを見つけた。綺麗な清水が滾々と湧き出ていた。この山、実に水が豊富で、あちこちに細流があってせせらぎを流れる水の音が絶えなかった。 水が豊富な山城らしく、排水口は南西に3箇所発見されているとのことだったが、一つも見つけられなかった。残念。城壁の少し高い位置に開口しているらしい。夏草に埋もれていたかもしれない。全体に、生い茂る雑草で城壁や遺構が覆われていて非常に見にくかった。やはり山城巡りは晩秋から初春までが良いと思った。
文化財庁HPの解説によれば百済の土器や瓦が見つかっているとのことだったが、それ以上の詳しい記載が無く、もしかしたら地表調査程度で、ちゃんとした発掘調査はまだ行われていないのかもしれない。本当はいつ作られた城だったのだろうか・・・。

それにしても、快晴の好天にも係わらず、他に登山客は1人しか出会わなかった。国家史跡90号に指定されて整備されているところなのだが、やはり皆さん、山城には関心無いようです。

2007年9月8日踏査

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2008年7月 5日 (土)

仁川 桂陽山城(계양산성)~論語の木簡が出た初期百済山城

「最近発掘された百済遺跡」という本を見て、仁川に面白そうな山城を見つけて行ってみようと思った。仁川市北東の桂陽区にある、桂陽山城だ。初期漢城時代(4~5世紀)の百済の土器が出ており、百済の初築の可能性があるとのことである。

仁川市は、江華島と仁川国際空港以外、訪ねたことが無い。
電車を乗り継ぎ、まだ新しい仁川市地下鉄に乗ってソウルから1.5時間ほどで目的の桂山駅に着いた。桂陽山は駅から徒歩5分ほどである。たくさんのハイカーが登山口に向かって歩いていたので、後について行った。

この山城はまだ一部しか発掘されていないが、1.5トン・トラック一台分もの瓦片が出土しており、近くに窯跡があるかもしれないとのこと。
また、石築の井戸からは木簡が出土しており、論語の公冶長編の文章が記されたものがいくつかあり、儒教や漢字文化が伝えられた時期を示唆している。 木簡は五角形に削られていて、五面に文字が記されている。韓国では木簡の出土例がまだ多くないが、このような多角形の木簡はここでしか見付かっていないらしい。書体は魏晋南北朝時代に流行した楷書であるが、これを3~4世紀の百済のものと見るかどうかは異論もあるらしい。

城壁についてはあまり事前情報が無く期待していなかったが、南西側の六角亭前の絶壁に城壁が残っていることが、現地の説明版と写真(下)でわかった。2007_0708_104349aacoloradjusted_800

しかし残念ながら、夏草でびっしり覆われていて城壁全体を見ることはかなわず。かろうじて城壁の端の方に近付くことができて、写真を撮ることができた。小ぶりの四角い切石を積み上げており、古城によく見るタイプである。発掘された土器は今のところ新羅のものが大多数らしい。 Southwallpanorama_1024

この城壁も統一新羅くらいと見るのが無理がなさそうな気がする。他の城壁があったらしきところには、崩れた石塁がところどころ斜面に散乱していた。おそらく北門跡と思われる場所に、特にたくさんの石塁が広がっていた。

この山は水が豊富で、特に緑が濃いと思った。全山、真緑に覆われている感じだ。韓国は岩山が多く、これだけ木々が鬱蒼としているところは久しぶりで、日本みたいだと思った。梅雨空で湿気が多かったので余計にそう感じたのかもしれないが。

曇ってはいたが、それでもなかなかの眺望。近隣住民の人気のハイキングコースのようで、こんな天気でもたくさんのハイカーで賑わっていた。
山城の中は共同墓地になっているのだが、仁川市は墓地の買収と移葬を進めており、ここを2007年中に国家史跡に登録して、2008年から山城の復元事業を本格化させる計画とのことであったが、一年後の今日現在、まだ国家史跡には登録されていないようだ。

2007年7月8日踏査

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2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 8日 (日)

六渓土城(육계토성)~臨津江沿岸の古城群-2

臨津江沿いに、瓠蘆古壘から始めて東に向かって順番に城址を訪ねた。Yeonchun_map_rev2_1024

瓠蘆古壘の対岸に対峙する位置にある二残眉城は、残念ながら韓国軍の基地になっていて、一般人は入ることができない。その東にある、六渓土城を目指した。蛇行する臨津江が北に大きく湾曲する場所であり、この辺りは浅瀬になっていて、朝鮮戦争の時には北朝鮮の戦車部隊が渡河したところらしい。当然、戦略的に抑えなければならない要地であるが、ここに、平地の土城である六渓土城の痕跡が残っている。

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Google Earthで見るとこんな感じである。岸沿いに、楕円形のような地割りが見える。資料を参考に城壁ラインを辿ってみると、下図のようになる。

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赤線が残存城壁が確認されている部分。黄色は城壁推定ライン。外周約1.7kmで、城内に220mの間隔を置いて、平行する二本の土塁線がある。推定門址は、東西南の三箇所。また、西門跡には東西に長く、南城壁中央まで伸びる低湿地が確認されており、川まで繋がる水路の存在が想定されている。臨津江から直接船で城内に入れるようにしてあったのではとのこと。

このような平地の土城は、三国時代のごく初期に作られたものと見られ、初期百済の王城と推定されている、ソウル市の風納土城が最も有名である。風納土城は規模こそ外周3.7kmと六渓土城の約二倍であるが、川沿い、漢江の南岸に立地している土城で、プランはよく似ている。平地に版築土塁で囲んだ城というのは、中国で発生した城郭という文化が、まだ直輸入状態のようでもある。

2007年6月16日踏査

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2008年4月13日 (日)

望夷山城(망이산성)~百済の土城を新羅が拡張改築

京畿道安城市一竹と忠清北道陰城郡の境界にある望夷山城を訪ねる。標高472mの山頂にある山城で、百済の築城になる小規模な鉢巻式土城を含む谷を、統一新羅時代の包谷式石城が2kmにわたって囲んでいる。
山頂近くに梅山寺という小さな庵程度の寺があり、そこまで麓から車一台がやっと通れる舗装路が続いている。そこからさらに徒歩で数100m上がれば、望夷山城にたどり着く。
統一新羅時代と言われる石垣は、下層部しか残っていない部分が大半だったが、城門跡三ヶ所や、雉城と呼ばれる城壁の突出部も五ヶ所が残っている。城内は水が豊富で今も水を湛える井戸が残っているだけでなく、小川が流れており湧き水が出るところも数箇所あった。 出土遺物は、青銅器時代後期から、百済、統一新羅、高麗、李朝と継続している。注目されるのは、鉄製短甲が出ていること。Photo 日本の古墳からも多く出土する武具である。青銅器時代の遺物が山頂から出る例は多くないようだが、三国時代以前、この山がどのような場所だったのか、興味深い。

また、残念ながらうまく場所を確認できなかったが、この城内の山頂あたりに李朝時代の烽火台跡がある。東蓬、忠州からの直烽と、南海、晋州方面からの間烽の二系統をソウルの南山烽火台に伝える重要な役割を担っていたようだ。

今ではこれという特徴も無い田舎町であるが、有史以来李朝末まで、交通・通信の拠点として重要な役割を担ってきた地であったろう。

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2007年4月7日踏査

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