カテゴリー「新羅の史跡」の30件の記事

2014年11月 3日 (月)

南山新城(남산신성)~南山新城碑 来日記念

韓国の古代山城を研究する上で、最重要な城の一つ、慶州 南山新城の築城碑である南山新城碑第1碑が、現在、佐倉の歴史民俗博物館に展示中だ(12月14日まで)。

http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html
文字がつなぐ-古代の日本列島と朝鮮半島-

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 この石碑は、これまで一部破片だけのものも含めて10個が見付かっている。
石碑の冒頭は、どれも591年2月26日の築城年月日と、三年以内に担当工区の城壁が崩れたら罰を受けることを誓約する文章で始まり、責任者や担当者の出身地域、官職・実名、寸単位まで書かれた担当工事区間が刻まれている。6世紀末に既にこれだけ明文化された労役調達体制が整備されていたとは驚きである。
 文体も他の6C新羅の大半の石碑同様、純漢文ではなく、新羅語の語順に合わせて書かれており、新羅人による新羅人の為の独自の新羅語表記の形が、ある程度できあがっていたことが覗われる。このように、石碑の方は新羅史の第一級資料である為、論文も多く、あちこちで取り上げられているが、南山新城自体がどういうものかについては、意外と情報が少なく探し難い。
 外周4.9kmの石築の山城であるが、城壁の大部分は崩れて整備もされておらず、登山道を外れて多少のヤブコギをしないと、数箇所で残っている壁面を見ることはできない。筆者は在韓中の2008年に新羅文化院 http://www.silla.or.kr/ の踏査会に参加する機会を得てほぼ一周することができた。詳細は、以下に。

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2008年12月25日 (木)

陰城 水精山城(수정산성)~三箇所の水口が復元された謎の城壁(?)

忠清北道陰城郡の水精山城を訪ねる。

韓国文化財庁のホームページで見た写真に、類例の少ない城壁外面の垂直溝のような微妙なものを見て、実物を確認してみようと思った。
標高396mの水精山の頂上に築いた石築の鉢巻式山城。外周は577mで、西側城壁の残存状態が良く、出土遺物から8~9世紀の統一新羅時代の城だろうとのことである。

陰城までは、東ソウル・バスターミナルから30分毎に直行バスが出ている。ソウルから1時間40分。水精山はバスターミナルのある中心街から東に2kmくらいのところにあって、地元の人たちの散歩コースのようで、場所はすぐに分かる。

行ってみてちょっとがっかりしたのは、西城壁がきれいに復元されていたこと。陰城郡記念物111号に指定されているが、よくこんな有名でもない城の復元に予算が付いたものだと思った。 この一年、あちこちの山城を回っているが、意外と山城の城壁を整備・復元する自治体が多いようだ。結構安く作れちゃうのかな??

~ネットで見つけたローカル新聞の「忠清毎日」2007年8月28日の記事によれば、陰城郡は水精山城に2002年から試掘調査と城壁補修を行って残存城壁の一次復元工事を完了させたのに続き、2007年に1億5千万ウォンを投入して城門跡の発掘調査を行うとのこと。また、2012年までには城の原型復元、探訪路の整備を行って歴史資料および観光資源として活用する計画とのことである。

しかし結局、見たかった垂直溝のような城壁は見つけられなかった。もしかして復元工事でつぶしちゃったのでは・・・。 最近になって1998年に刊行された水精山城の地表調査報告書(忠州産業大學校博物館刊)を図書館で見つけて残存城壁の写真を見たが、そんな垂直溝のある城壁はやはり無いし、報告書でも指摘されていない。文化財庁HPの写真は他の山城を誤って掲載したのだろうか??

さてこの復元城壁、水口が3個もそれっぽく復元してあった。城内の取水口もちゃんと石築で作ってあって、外まで水路を貫通させてあるようだ。水口は3個が、ほぼ等間隔で15mくらい(?)おきに並んでいる。城壁基底部からの高さはそれぞれ違う。城壁に向かって左端のは肩くらいの高さ、真ん中は2m以上、右端のは真ん中より少し低い。

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▲右端の三つ目の水口と、その下の水受け石(草に埋もれている)

水口の真下には、水受けの石が並べてあり、その延長線上の急斜面には、階段状に石が積んである。これは他では見たことが無い。かなり念入りな水対策だ。 上掲の1998年の地表調査ではこういった排水施設は見付かっていないが、2002年の試掘調査で発見されたものかもしれない。あてずっぽで作ったにしては良く出来過ぎのようだし。
李朝時代の記録では、当時既に廃城となっていた城内に井戸が一つ残っていたとのことだが、現存しない。3つの排水口や念入りな水対策から見て、山頂ながら水が豊富だったのだろうか??

そういえば山の名前も水にちなんでいる。この日はたまたまか、ずっと濃い朝霧がたち込めていて、全山真っ白で視界が狭く、確かに水っぽかったかな?

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2007年11月25日踏査

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2008年12月21日 (日)

南漢山城(남한산성)再訪~発掘調査が明らかにした統一新羅時代の遺構

寝坊した。
ほぼ毎週末、まだ暗い内から早起きして、始発のバスや電車で郊外の山城に出かけるというパターンになっていたが、たまに寝過ごしてしまうこともある。

この日は、せっかくの好天だったがもう遠出は無理な時間だったので、近場でどこに行こうかと考え、南漢山城を再訪することにした。一年前に行ったが、南門から西門を経由して北門までの半分の区間を見ただけ。未見の区間と、昨年から発掘調査中の統一新羅時代の大型建物跡を見に行くことに。 統一新羅時代の大型建物跡(53.5m x 17.5m)は既に掘り出されていたが、ちょうどその建物跡から、長さ64cm、重さ19kgの超大型瓦が350枚も完形で発掘されたとのプレスリリースがあったばかりだった。

今回は、南門からスタートして、東門までの区間を歩いた。
甕城が三箇所、暗門数箇所、雉城、砲塁に、水門などなどテンコ盛り。城郭好きには面白い区間だったが、城壁が崩れたままのところがあったり、景色が地味だったりと、前回まわった南西区間に比べると少し寂しい感じである。

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統一新羅時代の大型建物跡は、李朝時代の行宮址の発掘現場で見付かった。行宮の復元整備に伴う発掘調査で偶然発見されたものである。南漢山城の初築が何時であるのか不明だが、この発掘成果で、ここが統一新羅時代の晝長城(別名日長城)であったと見て間違いあるまい。それにしても一枚19kgのバカでかい瓦と言い、53.5mという長大な建物と言い、ここが非常に重要な城であったろうことが推察される。

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▲統一新羅時代の建物跡の発掘現場

初築が百済との説もあり、初期百済の遺物も出ているようではあるが、城の立地、規模、プランからして、恐らく統一新羅の初築ではないだろうか。羅唐戦争時、この山城が漢江流域を守る防衛ラインで中心的な役割を果たしていたのかもしれない。

2007年11月18日踏査

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2008年12月 7日 (日)

関門城(관문성)~日本の侵攻に備えた8世紀新羅の長城

慶州と蔚山の境にある関門城目指して、朝一番の電車に乗って慶州へ。
この関門城は、統一新羅初期の722年に日本の侵略に備えて築いた長城である。都である金城の南方20kmほどの地点に、東西12kmほどの城壁が所々残っている。新羅が築いた長城の内、今簡単に訪ねることができるのはここだけだ。
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慶州からは、国道7号線を南下する毛火里行き市内バスに約30分ほど乗って、終点で降りる。バスターミナル近くの線路に沿って南に数分歩くと、線路で分断された関門城の城壁が見えた。この線路と国道7号近くの城壁は近年復元整備されている。
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線路の西側でまた国道7号によって城壁が分断されているが、この辺りに城門があったらしい。
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▲国道7号で城壁が途切れている。慶尚南道と慶尚北道との境界点でもある。
この城壁を東にずっとたどって山を登って行くと、やはり統一新羅時代の山城、新垈里城が近くにある筈である。この新垈里城では銘文石が10個ほど見付かっており、ここを目指して関門城の跡を東に向かって行った。
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関門城は途中で痕跡を見失い(というか元々途中までしか無いらしいが)、その後、登山道が途絶えた山中を行きつ戻りつ2時間強。降参しましたがまん顔
方向音痴のくせにあまり下調べをしないでフラッと出かけてしまうので、幾度かこういう目に会っているあせあせ
後で聞いたところによると、やはり関門城からは新垈里城に行けないそうである。

722年というと日本はもう奈良時代。663年に白村江で新羅・唐に大敗してから60年ちかい。ちょうど太平洋戦争に負けた後の現代と同じくらい戦争の記憶が遠くなっていた頃だろう。学校で習った奈良時代の印象も、何となく平和な時代という感じだ。どうしてそんな頃に新羅は対日防衛の為に12kmもの長城を?と思ったが、ちょっと調べて見ると、とんでもない。
白村江以降の東アジアでは、唐・新羅戦争、渤海国の勃興、唐・渤海の戦争・・・と、緊張関係が継続していた。そんな中、日本も無関係ではなく、再び手を結んだ唐・新羅に対抗して、渤海と同盟を結び、両陣営の間で対立軸を形成していた。律令国家の徴兵制による軍団を完成・維持させ、渤海と結んで新羅征討計画を立て、756年には吉備真備が新羅征討の前哨基地としての怡土城を九州に築城している。
幸いにして戦争は起きなかったが、あと一歩の臨戦態勢にまで行っていたのではないだろうか。
2007年11月10日踏査

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2008年11月30日 (日)

丹陽 赤城(단양적성)~竹嶺を越えて高句麗領へ・・6C新羅の北進橋頭堡

忠清北道の北東端にある、丹陽郡。南漢江が流れ、小白山脈が通る場所に位置する、美しい観光地である。三国時代の6世紀前半までは、この小白山脈にある竹嶺が高句麗と新羅の境界であった。ここを越えて、北に領土を広げたのが真興王(在位540-576年)。高句麗で言えば広開土王のような王で、三国時代新羅の領土を最大限に広げた。550年頃に竹嶺を越え、半島の東側を北進して今の咸鏡南道にまで至っている。真興王は新たに獲得した領土に石碑を多く残しているので、今でもその足跡を確認することができる。

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▲当時の高句麗の首都であった平壌よりずっと北にまで新羅が侵攻していたことが、黄草嶺碑や磨雲嶺碑の存在で確認できる。この二つの碑を見るには北朝鮮に行かないとならない・・・。

さて、ここ丹陽に残る新羅の古城「赤城」では、1978年に真興王の頃の石碑が見付かった。国宝198号、赤城碑である。

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実物は今もこの山城に置いてあって、ここまで行かないと見られない。
どんなものだろうと、近付いて見ると、驚いたことに、上部が欠けてはいるが、表面は新品のようにピカピカ、碑文もくっきりとあざやかに見える!とても1500年前の碑文とは思えない。発見された時は、土の中に埋まっていて30cmほど外に露出していたのだそうだ。

碑文の内容は、一部が欠けている為にわからない部分もあるが、新羅に協力した赤城の高句麗遺民を顕彰し、法的に優遇することを示した内容らしい。碑文中、「國法」「赤城烟法」「赤城佃舎法」の三語が注目される。三国時代の法制については詳細が分かるものが残っていないが、「國法」と共に、占領地に特別に適用されたであろう「赤城烟法」「赤城佃舎法」 が存在したことを窺わせる。また、碑文に出てくるいくつかの人名中「武力」は、金庾信の祖父である金官伽耶国の武力に比定されている。

山城は、標高323mの山頂に外周900mで築いた石築の包谷式。竹嶺を越えて竹嶺川が南漢江に合流する地点の山上に築かれている。馬鞍型と呼ばれる、両端が高く中心部が谷になっている形状。城壁はほとんど崩れていたのをかなり復元して作ってある。元の城壁の石積み城壁はほんの一部だけしか残っていない。小さな割石を緻密に積み上げ、外壁基底部には補築の痕跡が残っており、新羅の古城の典型に見える。

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この城は、中央高速道路下りの丹陽休憩所の真後ろに位置する。全国でも唯一、なんと休憩所から直接行って見て来ることができる山城。車でこの方面に行く人は、是非お立ち寄りあれ。公共の交通機関だと、丹陽のバスターミナルからタクシーで20分程。

2007年11月4日踏査

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2008年7月13日 (日)

唐城(당성)~唐への海上交通の要衝地

京畿道華城市にある、唐城を訪ねる。
世界遺産の水原華城がある水原市から、ローカルバスで小一時間かかった。黄海に小さく突き出た南陽半島のちょうど真ん中、九峰山中腹にある。

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▲中央に赤丸で囲んだところが唐城。

三国時代から、中国に海から向かうルートの一つだった要衝地である。最初は百済の地であり、高句麗、新羅と持ち主が移っていった。三国史記にある党項城がこの城であろうと比定されている。 新羅末には唐城鎮が設置され、王京の慶州から尚州、報恩の三年山城を経由してこの地に至る道を、唐恩浦路と呼んだらしい。

国家指定史跡になっているので、道路脇に案内表示(下写真)はちゃんとあったが、その後が何も無い。

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何箇所かで枝分かれする道を何度も行きつ戻りつしながら、30分以上かけてやっと城跡にたどり着いた。 事前に調べた古い情報によれば、城壁はほとんど崩壊して残っておらず、土塁や僅かに残る石塁くらいの筈であったが、何時作ったものか、綺麗な石築の城壁(下写真)が数100mも再現(?)されていて、ちょっと興醒めした。

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発掘調査の結果、当初は多郭構造の山城と思われていたのが、時代をそれぞれ別にする三期の城郭であることが分かった。そのうち、一番古いものが山頂363mを囲んだ城壁で、基壇補築が確認されている。これは石築のようだ。出土する遺物は6~8世紀のものが大半とのこと。この山頂式山城を貫通する長方形の包谷式山城が、外周1.148km。こちらは基礎に石築が並べてあって、その上に版築土塁で城壁を作っている。出土遺物は新羅末のものが多いとのこと。

黄海を見渡せる、城の一番高い場所には建物跡の礎石があるとのことだが、夏草ボーボーで見つけられず。しかし、いろいろな模様の瓦片が転がっているのは確認できた。

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▲瓦片。生い茂る雑草の間からでもいくつか垣間見えた。

何となく、山城から海を見てみたかったので、一応目的は達成。山中の栗の木が早くもたわわに実っていて、栗の実がゴロゴロ登山道に転がっているのに驚かされた。韓国の短い秋がもう始まったのを実感した。
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▲城内最高所の建物跡からの眺め

2007年9月2日踏査

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2008年7月 5日 (土)

仁川 桂陽山城(계양산성)~論語の木簡が出た初期百済山城

「最近発掘された百済遺跡」という本を見て、仁川に面白そうな山城を見つけて行ってみようと思った。仁川市北東の桂陽区にある、桂陽山城だ。初期漢城時代(4~5世紀)の百済の土器が出ており、百済の初築の可能性があるとのことである。

仁川市は、江華島と仁川国際空港以外、訪ねたことが無い。
電車を乗り継ぎ、まだ新しい仁川市地下鉄に乗ってソウルから1.5時間ほどで目的の桂山駅に着いた。桂陽山は駅から徒歩5分ほどである。たくさんのハイカーが登山口に向かって歩いていたので、後について行った。

この山城はまだ一部しか発掘されていないが、1.5トン・トラック一台分もの瓦片が出土しており、近くに窯跡があるかもしれないとのこと。
また、石築の井戸からは木簡が出土しており、論語の公冶長編の文章が記されたものがいくつかあり、儒教や漢字文化が伝えられた時期を示唆している。 木簡は五角形に削られていて、五面に文字が記されている。韓国では木簡の出土例がまだ多くないが、このような多角形の木簡はここでしか見付かっていないらしい。書体は魏晋南北朝時代に流行した楷書であるが、これを3~4世紀の百済のものと見るかどうかは異論もあるらしい。

城壁についてはあまり事前情報が無く期待していなかったが、南西側の六角亭前の絶壁に城壁が残っていることが、現地の説明版と写真(下)でわかった。2007_0708_104349aacoloradjusted_800

しかし残念ながら、夏草でびっしり覆われていて城壁全体を見ることはかなわず。かろうじて城壁の端の方に近付くことができて、写真を撮ることができた。小ぶりの四角い切石を積み上げており、古城によく見るタイプである。発掘された土器は今のところ新羅のものが大多数らしい。 Southwallpanorama_1024

この城壁も統一新羅くらいと見るのが無理がなさそうな気がする。他の城壁があったらしきところには、崩れた石塁がところどころ斜面に散乱していた。おそらく北門跡と思われる場所に、特にたくさんの石塁が広がっていた。

この山は水が豊富で、特に緑が濃いと思った。全山、真緑に覆われている感じだ。韓国は岩山が多く、これだけ木々が鬱蒼としているところは久しぶりで、日本みたいだと思った。梅雨空で湿気が多かったので余計にそう感じたのかもしれないが。

曇ってはいたが、それでもなかなかの眺望。近隣住民の人気のハイキングコースのようで、こんな天気でもたくさんのハイカーで賑わっていた。
山城の中は共同墓地になっているのだが、仁川市は墓地の買収と移葬を進めており、ここを2007年中に国家史跡に登録して、2008年から山城の復元事業を本格化させる計画とのことであったが、一年後の今日現在、まだ国家史跡には登録されていないようだ。

2007年7月8日踏査

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2008年6月29日 (日)

幸州山城(행주산성)~文禄の役の古戦場は、三国時代からの古城址

幸州山城はソウルの西隣、京畿道高陽市の、昌陵川が漢江に交わる河口部に小高く盛り上がった徳陽山(標高124.8m)山頂にある。このように支流が本流に交わる部分の丘陵地形は、少なくとも二方面を天然の堀で守られた要害であり、同時に水上交通の要衝でもあるから、三国時代からずっと重要な戦略地点となってきた。

1593年文禄の役では、権慄将軍が籠城したこの山城を、総大将宇喜多秀家、副将石田三成、吉川広家らが率いる三万の軍勢が攻めたが、落とすことができず退却した。韓国では文禄慶長の役での朝鮮側の三大勝利の一つとされ、映画やドラマなどでも大変有名な古戦場である。

しかしこの山城はそのはるか以前からあった古城である。三国時代の土器片が見つかっており、発掘の結果、統一新羅時代の城門跡も確認されている。しかし、文禄の役以前の文献の記録は無く、初築が何時であるのかははっきりしていない。近くの虎巖山城と共通した土器片が多く出ていることから見て、統一新羅初期に羅唐戦争に備えて初築、もしくは整備・再活用された城址ではないかと考えられているようだ。

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▲漢江流域の統一新羅時代の古城址を、幸州山城を中心に赤丸でマークしてみた。右のほうに青丸で印をつけたところは、漢城百済の王城があったと推定される地域。その下の南漢山城が統一新羅時代のこの地域の中心的山城であったと思われる。黄色で囲った範囲は李朝時代のソウル城郭であり、現在のソウル中心部でもある。

映画などでは、立派な石築の城郭が出てきたりするそうだが、この城は土城である。頂上を囲んだ小規模な鉢巻式山城と、その外郭を大きく囲む包谷式山城が組み合わさった二重構造で、外周約1kmとのこと。しかし現状では、1990年代に入ってから復元整備された西門跡を含む版築土塁420m以外には、城壁跡を辿って確認することはできなかった。
山頂付近の散策路では、色々な模様の土器片がごろごろ転がっていた。
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▲復元整備された版築土塁による城壁。発掘調査で、基底部に二段の石列が並べられているのが確認されている。日本の古代山城の土塁の基礎にも類似したものがみられる。土塁の基礎石列にはいくつかの種類があるようだが、やはり元祖は朝鮮半島の古代山城であろう。

2007年7月6日踏査

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2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月20日 (金)

堂浦城(당포성)~臨津江沿岸の古城群-3

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六渓土城からまた北岸に戻り、臨津江沿いに東に進んで順番に見て行く。最初に見た瓠蘆古壘と同様、川に突き出た三角形の地形に作った城跡が二つ続くが、まずは堂浦城。発掘調査時の写真では見事な石垣の城壁が、階段状に三段に築かれているのが分かるが、現状は残念ながら埋め戻されており、なだらかな斜面にしか見えなかった。

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▲▼木が上にちょっとだけ生えている盛り上がりが、城壁である。

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▲対岸を見ると川に面した絶壁が続いているが、この城も同様の断崖状地形の上に位置している。二等辺三角形の長辺二つが、このような高さ13mの断崖で、陸地側の底辺に当たるところに人工の城壁を築いている。最初に見た瓠蘆古壘、堂浦城それに次の隱垈里城はどれも同様な地形上に築かれており、この特異なプランだけ見れば、どれも同一勢力によって同時期に築かれた可能性を窺わせる。高句麗による対百済の、南侵戦略拠点であったのかもしれない。

2007年6月16日踏査

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