月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?
せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。
最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。
標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。
▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。
門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。
2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?
▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。
この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。
他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?
2007年10月27日踏査
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