カテゴリー「高句麗の史跡」の7件の記事

2008年11月 9日 (日)

月坪洞山城(월평동산성)~5C高句麗南進の最南端地点か?

せっかく大田まで来たのだから、もう一箇所見ていくことにした。
月坪洞山城は、山に囲まれた大田盆地を南北に流れる甲川の、東岸の丘上にある。ちょうど川を挟んで西側に儒城温泉街がある。

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最近大田駅から儒城温泉まで繋がったばかりの地下鉄を使って行ってみた。大田駅から乗って、月坪洞駅でおりる。2番出口を出て南に10分程歩くと鶏龍路という大通りに出る。この通りを西に甲川の方にまたしばらく歩くと、大田日報のバス停の後に月坪洞山城の解説板が立っていた。

標高137mの低い丘陵地帯の頂上部、外周710mを版築土塁や石垣の城壁で囲んだ包谷式山城だ。石垣は西側の一部を発掘調査で掘り出した写真が説明板にあったが、保存のために埋め戻されたとのことで、見られなかった。2007_1027_142118aa_800

▲解説板の後ろに見える盛り上がりが、土塁城壁の跡。

門跡は東西北と三箇所見付かっているとのことだが、西門以外は確認できなかった。西門跡と思われるところには崩れた城壁の石材が散乱していた。
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▲土塁の切れ目のような所に石材が散らばっている。

2001年の発掘調査で、城壁の下層から高句麗土器片が若干だが26点ほど出ている。ソウルの夢村土城から出たものと似ているらしく、高句麗が漢城百済を滅ぼして漢江流域を獲得した475年から551年の間の南侵中に、ここまで来ていたのだろうか?

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▲5世紀後半の城跡から見た勢力図。黄色マークが百済、赤が高句麗、青が新羅。百済は475年に首都漢城(今のソウル)を高句麗に攻め落とされた為、急遽、熊津(公州)に逃げ込み、そこで国を立て直す。高句麗の痕跡が残る山城の配置を見ると、熊津を取り囲むような配置だ。

この月坪洞山城から出た土器の80%は百済系で、高句麗の土器片が若干あり、あとは統一新羅時代のもの。最下層からは漢城百済末~熊津初期の土器が出ている。初築は4~5世紀の百済で、一時的に高句麗に占拠されたのかもしれない。ほかに、木柵跡、地下木郭庫、城壁土塁の版築が発掘調査で確認されている。石築の城壁が作られたのは、6世紀後半以降らしい。

他に面白い出土物としては、伽耶琴の頭の部分が見付かっている。伽耶で生まれて新羅に引き継がれ、正倉院にも残っている伽耶琴が、百済の地にもあったようである。山城で楽器が見付かると言うのは珍しい例かなと思ったが、そういえば統一新羅時代の二聖山城でも腰鼓が出土しているし、戦に関連する祭祀などで、楽器を使うことがあったのだろうか・・・?

2007年10月27日踏査

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2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月20日 (金)

堂浦城(당포성)~臨津江沿岸の古城群-3

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六渓土城からまた北岸に戻り、臨津江沿いに東に進んで順番に見て行く。最初に見た瓠蘆古壘と同様、川に突き出た三角形の地形に作った城跡が二つ続くが、まずは堂浦城。発掘調査時の写真では見事な石垣の城壁が、階段状に三段に築かれているのが分かるが、現状は残念ながら埋め戻されており、なだらかな斜面にしか見えなかった。

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▲▼木が上にちょっとだけ生えている盛り上がりが、城壁である。

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▲対岸を見ると川に面した絶壁が続いているが、この城も同様の断崖状地形の上に位置している。二等辺三角形の長辺二つが、このような高さ13mの断崖で、陸地側の底辺に当たるところに人工の城壁を築いている。最初に見た瓠蘆古壘、堂浦城それに次の隱垈里城はどれも同様な地形上に築かれており、この特異なプランだけ見れば、どれも同一勢力によって同時期に築かれた可能性を窺わせる。高句麗による対百済の、南侵戦略拠点であったのかもしれない。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 4日 (水)

瓠蘆古壘(호로고루)~臨津江沿岸の古城群-1

持病の腰痛で一月程山城巡りを中断した後、リハビリ程度に、平地の古城をまとめて見に行った。
京畿道漣川郡。大韓民国の最北端、北朝鮮の開城から車で僅か10分ほどの国境地帯である。朝鮮戦争の時にはこの漣川郡を縦断する3号国道を、北朝鮮軍がソ連の戦車T34で南進した。そういうわけで朝鮮戦争の史跡ももちろん多いのだが、ここは遥か1500年以上昔の三国時代に、百済と高句麗が対峙した最前線でもあったようだ。

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▲漣川の観光地図に、古城跡を赤丸で書き込んでみた。クリックして拡大して見ていただきたい。漢江の北を東西に蛇行しながら流れる臨津江(イムジンガン)に沿って、その南北の両岸に10数箇所の要塞や山城跡が残っている。面白いことに、北岸に築かれた城には石築のものが多く、南岸には版築土塁で築いた土城が多い。同じ地域であり、入手できる建築材にも違いがなさそうなところから見ても、築城の先進国であった高句麗が北岸の城を石築で作り、南岸の土城は百済の手によるものではないかと思える。

まず訪ねたのは臨津江北岸の一番西側に位置する、瓠蘆古壘。これはこの地帯に独特な地形を活かした変わった形の城跡である。臨津江沿いは古代の火山活動で形成された火山岩でできた奇怪な形状の断崖や絶壁が多いが、この城も臨津江に突き出した細長い二等辺三角形のような玄武岩の絶壁上に築かれている。ちょうど三角形に切り取られたケーキそっくりの地形で、河に面する約20mの断崖はほぼ垂直である。
城壁はこの二等辺三角形の底辺にあたる、陸側を塞ぐような形で築かれている。なんとも不思議な形状である。

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同じような地形を利用した城跡は臨津江北岸にだけ他にも残っているが、それらと対峙するかのように、南岸にも主に土塁による城跡が残っている。これらの遺跡を見ると、この河が国境であったろうことが想像できる。

2007年6月16日踏査

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2008年3月27日 (木)

寧越 正陽山城(정양산성)~南漢江上流で最大規模の古代山城

江原道の南部、寧越郡の正陽山城を訪ねる。
ソウルから高速バスで2時間10分。ふもとから30分程の登山でたどり着けた。標高400mほどの正陽山の頂上近くの谷を、石築の城壁で囲んだ古城である。5~6世紀の新羅か高句麗の城と推定されている。この城の特徴は、何と言っても保存状態の良い、その雄大な高石垣だ。一番高いところで約12mほどもある。真下から見上げると、とても中に侵入することは不可能に思えるほどの圧倒的な迫力。上から見下ろすと柵も何もないので、ズルッと滑ったりしたら御陀仏だな、などど考えて足が震えた。忠清北道の三年山城に匹敵する規模だ。しかもこちらは三年山城と違って近年の修復が入っていないにもかかわらず、城壁の保存状態が思ったよりも良好で、10m級の石垣が何箇所も残っていた。構造からみると、懸門式の城門や、城壁基底部に補強のための二次城壁を外側に加える点など、新羅の城に多く見られる特徴が出ている。城壁の全長は内城が1,060m, 高麗以降に加えられた外城が 570m、合わせて1,630mとのことだが、この外城がどこを指すのか確認できなかった。また、北西に位置する正陽里から渓谷に沿って登る途中に5箇所、外城内に2∼3箇所の遮断壁があるとのことだが、これも未確認。登山途中に、数十mの土段状の地形を見たが、あれが遮断壁の一つだったかもしれない。
この城の城壁は、どうやって積み上げたのだろう、と思うような急斜面に築かれている部分が多い。しかも城壁が高い部分ほどそうだ。おそらくは、もとはなだらかな斜面で攻められ易かった所を掘土してほぼ垂直の絶壁を作り、石垣で固めたのだろうか。

それにしてもこんなに大げさな城壁を築いたのはそれだけ強い敵と対峙していたということだろう。この近辺は高句麗と新羅の激戦地であり、山城跡が多い。その中でもこの城が最大規模である。三国時代の古城を見たい人には是非お奨めしたいところだ。

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2007年4月1日踏査

<参考>
寧越郡の日本語HP;
韓国文化財庁のHP;

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2007年11月17日 (土)

泡川 半月山城 (반월산성)

ソウルから北に50kmほどの京畿道泡川市に残る、半月山城を訪ねる。地下鉄1号線議政府駅からバスで50分程北上した泡川市中心街から、川を挟んですぐ東側、青城山(283m)の頂上にある。 外周1,080mの石築山城だ。

李朝初期に修築した記録があり、言い伝えでは後高句麗の弓裔が築いたとのことだが、1995年から2001年まで6回に及んだ発掘調査の結果、それより遥かに古い城であることが確認された。発掘された遺物中、最も古いものは4世紀後半、漢城時代の百済土器である。長卵形土器などが出ている。続いて高句麗系の土器、新羅、統一新羅、高麗、李朝と、ほぼ全ての時代の遺物が次々に発掘された。そのうち、第1回の発掘で発見された銘文瓦が特に注目を集めている。「馬忽受蟹空口単」と書かれており、これは三国史記にある高句麗の地名、馬忽郡のことと考えられ、泡川が馬忽の地であることの裏付けになると考えられている。“受蟹空口単“は、馬忽の中の地名であろうとのこと(チェ・ビョンシク「最近発掘された百済遺跡(2007年)」)。

三国時代の山城としては大きい方で、周囲1,080mである。稜線に沿って細長く伸びた形状から半月城と呼ばれている。 眺望が四方に開けて天気が良ければ中々の景観だったろうが、残念ながらぐずついた曇り空だった。 近所の住民のハイキングコースになっているようで、朝から散歩する人たちが多かった。

現在残る城壁が何時の時代のものなのかは意見が分かれるようだ。懸門式の城門や、城壁基底部の補築などは新羅の山城に多く見られる特徴だが、百済土器はこの懸門式の城門の基底部から出ていたりして、どこからどこまでが何時の物か確定するのはかなり難しいだろうと思われる。

城壁は発掘調査後、かなりの部分が復元されていてあまり古城の面影を感じさせない。東側城壁の大半は失われていて、城の外周の全てを辿ることが出来なかった。

京畿道北部には高句麗の痕跡を残す遺跡が多く残っているが、規模としてはおそらくここが最大であろう。この城が百済から李朝時代まで継続して1,500年間も活用され続けたことから見ると、かつてこの地が南北の交通の要衝としていかに栄えたであろうかが想像できる。しかし北への交通が途絶え、単なる北辺の地に成り果てた今の泡川にはその面影も無く、寂れた地方都市の一つである。

2007年2月3日踏査

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2007年5月13日 (日)

漢城百済の痕跡-3 阿且山城 (아차산성)

カジノで有名な漢江沿いのウォーカー・ヒル・ホテルの裏山に、阿且山城(a-cha san-seong)はある。
三国時代に百済が対高句麗防衛の為に作ったのが最初であろうと推定され、その後高句麗、新羅と主人が代わっていったようだ。有名な高句麗の広開土王碑に、平らげた城の一つとして阿旦山城の名前を見ることが出来るが、それがこの阿且山城に比定されている。漢城百済が高句麗に攻め落とされた時、盖鹵王が捕まってこの城の下で殺されたといわれている。また、高句麗平原王の娘婿である温達将軍が新羅軍の矢に当たって戦死したとの伝説も残っており、三国が幾度も激戦を繰り広げた最前線だったようである。
 現在残る城壁はどの時代のものかまだ解明されていないもよう。調査が続いており、保護の為に城壁を柵で取り囲んで中に入れないようになっていて残念。城壁自体も森の中に埋もれていて、写真のように一部がちらりと垣間見えるだけである。とは言え山頂からの景色は中々のもので爽快。
ここからは漢江を南に挟んで、百済の旧都であろう夢村土城や風納土城を始め、周囲を遠くまで見渡すことができ、城塞として最適な場所だったことが分かる。他にもこの山脈沿いに高句麗の保塁址がいくつも点在していて、今後発掘と整備がさらに進むものと思われる。

2006年10月7日踏査

2006_1007_085549aa_800 案内板。城域の図と発掘調査で出てきた遺物の写真、阿且山城保存事業への理解を求める説明文が書いてある。

2006_1007_085835aa_800 僅かに垣間見える石垣のアップ。

2006_1007_091426aa_800 柵の外から西壁が見える。

2006_1007_091441aa_800 この城壁が見える範囲は数十mしかない。早く中を解放して欲しいものだ。

2006_1007_093414aa_800 城内には入れないので、すぐ隣の峰から見たソウル市内の展望。

写真をクリックすると大きく見られます。

2006_1007_100953aa_800_1 阿旦山第四保塁跡。阿旦山城を過ぎて、隣の峰に向かう途中にある。

高句麗が漢江流域を獲得したのは漢城百済を滅ぼした5世紀末から6世紀後半までの約80年間。その間に作った要塞跡が、この阿旦山一帯の連峰に点々と残っており、発掘調査が続いている。

2006_1007_101007aa_800 高句麗保塁の発掘調査の時の写真が見られる説明版がいくつも設置されている。現在はほとんど埋め戻されていて、見ることが出来ない。

2006_1007_101106aa_800 何と、オンドルの遺構もここで見付かっている。朝鮮では北国の高句麗がオンドルを使い始めたらしい。

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2006_1007_101405aa_800 門柱の礎石と思われる石が露出していた。

2006_1007_101604aa_800 山頂付近から漢江を望む。

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