カテゴリー「高麗の史跡」の8件の記事

2008年10月19日 (日)

寶文山城(보문산성)~ピカピカに復元された百済後期の山城

忠清南道と忠清北道の間、南寄りに位置する大田広域市。
百済と新羅の境界地帯だったことから、市内の山々に城跡が40箇所も見付かっている。山城の密集地帯だ。
最大規模の鶏足山城を訪ねて以来、再訪しようと思っていたが、やっと来ることができた。二箇所を回って来たが、まず一つ目が寶文山城だ。大田駅南方、遊園地+動物園がある場所の、裏山にある。標高406mの山頂に築いた石築の鉢巻式山城で、外周は僅かに300mほど。山城というより砦くらいの感じだ。周囲に散在する山城と連携して、全体で防御陣を築いていたのだろう。しかしありがたくないことに、「1991年に4億8千万ウォンをかけて、百済山城としては全国で始めて完全復元した」と記念碑に書かれている通り、しらじらしくもピカピカの山城だったがく~(落胆した顔)元の城壁も残っていた筈なのだが、ぜんぶ綺麗にしちゃったようである涙

入口は、北西門と南門の二箇所。南門は後代に塞がれていたのが、発掘調査で見付かり、復元されている。どちらの門も、門脇の両袖を丸く仕上げているが、百済後期山城の特徴のようである。
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発掘の結果、百済の遺物は当然ながら、城壁の下層から韓国の青銅器時代後期(BC300~100)の土器などが出てきたとのこと。標高400mの高地から出てくるのはかなり珍しい例らしい。

しかし古城の趣は無いものの、城からの眺望は文句無しに良かった。
この山も山城も、格好のハイキング場所になっていて、家族や友人、小学生のグループなどが弁当を広げていた。この景色を見ながら食べるごはんは格別だろうなぁ、と思いつつ下山。今度はルートを変えて、山腹にある高麗時代の磨崖仏坐像を見物したが、これはちょっとイマイチだった。
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2007年10月27日踏査

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2008年10月13日 (月)

新昌鶴城山城(신창학성산성)~真の任存城と思ったら・・・

忠清南道牙山市 新昌鶴城山城を訪ねる。
標高183mの低い山の頂上、約500mを石築の城壁で囲んだ山城である。牙山市文化財資料244号に指定されている。

百済復興運動の拠点であった任存城は、先に訪ねた禮山郡の鳳首山城ではなく、鶴城山城であるとの説(徐正錫著「百済의城郭」)を人から教えてもらい、早速見に行ってきた。う~ん、これが百済末の有名な城かぁ。さすがに堅固な城壁だ、などと思って見てきたのだが・・・。
しかし勘違い!名前は同じ鶴城山城だけど、場所が全然違ったがまん顔
帰宅してから上掲書をちゃんと読み返してみたら、忠清南道洪城郡長谷面とある。禮山郡の鳳首山城にずっと近い。

う~、鶴城山城違いか泣き顔

しかし勘違いとは言え、これはこれで中々立派な城で見応えがあった。

牙山市は天安市の西隣で、温陽温泉が有名なところ。温陽温泉駅前の観光案内所で地図をもらって、タクシーで20分くらい西に向かったところに鶴城山はあった。今は木が鬱蒼と茂っているが、タクシーの運転手さんが子供の頃、40~50年前にはほとんど木は無く、麓から城壁がよく見えたという。

登山道を20分も登ると、もう山頂である。整備工事中だから云々・・・と観光案内所で聞いていたが、ゲッ!作りたての真っ白な城壁が完成しつつある状態だ!
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元のままに放っておいてくれれば良いものを・・・と思いつつ、元の城壁が残っている筈の南東方向に城壁を回り込んで行くと、あった!古い城壁が数10mも残っていた。それもかなり緻密で堅固な城壁だ。
高さは6mというが、もっと高く見えた。長方形の切石が僅かな傾斜を付けて緻密に積み上げられている。城壁のあちこちから木がニョキッと突き出して伸びているがびくともしないようである。
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土器や瓦片がたくさん落ちていたが、いつの時代の山城なのかはっきりしていない模様。解説板によると、「高麗の初め、盗賊の被害が激しく、収穫した食料をここに保管するために築城した」との言い伝えがあるとのことである。

しかし、盗賊の難を避けるため、と言うには立派過ぎる城壁だと思った。

いつのものだろうか。
2007年10月20日踏査

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2008年4月21日 (月)

忠州山城(충주산성)と忠州の史跡~韓国のへそは争奪戦の場

忠清北道忠州市を三度訪ねる。
今回は忠州山城が目的。忠州市街地から車で15分ほど南の、南山(標高636m)にある。外周1.1km、高さ5~8mの石城である。6世紀中頃以降の新羅の山城と推測されているようだ。 かなりの部分が近年復元されているが、特徴的で非常に興味深い構造部がいくつも見られた。

まず、複数箇所に復元されている排水溝と排水口。城壁外面の排水口は他の新羅系の城で見られるのと同じ、上部が狭い台形。ここでは更に城内の石築の排水溝も綺麗に復元されており、それと排水口の連携がよく分かった。外壁の排水口の中を覗くと、ひんやりと冷たい風が顔に当たった。119_640

城内の上方に向かって、登り階段状に水路が作ってあり、貫通させてあった。124_800

懸門式の城門も、特にこの城では独特である。
懸門式は新羅の城に多く見られる、はしごを掛けないと入れないように入り口を高く作った凹字型の門だが130_800 、ここではさらにその城門の城内側を丸く石築で囲んであり、城門から侵入して来る敵を隠れながら狙い撃ちする為の窪みが2箇所作ってある。107_800

さらに半円形の防御壁で区切られた空間がこの城門内の踊り場のようなところに作ってあって、ここに兵士を隠して侵入する敵を真正面から攻撃できるようにもなっていた。136_800 はしごを掛けて這い上がってきた敵は、この踊り場の中で、真正面と上部2箇所から集中攻撃を受けることになる。徹底的な防御構造だ。
他に、石築の大きな貯水池が復元されていた。水量を調節できるよう、池の排水溝が併設されていた。

南漢江が流れる忠州は、韓国のへそに当たる。陸路、水路共に開け、まさに中心地であったことから、三国時代には百済、新羅、高句麗の争奪戦の舞台となった。その後も元寇、文禄慶長の役、など戦史に事欠かない。また、山城跡以外にも様々な史跡が残り、見所が多いところである。この山城はまだそれほど有名ではないものの、城壁の残存状態も悪くなく、さらに復元城壁から古代朝鮮の巨大建造物がどうであったかのイメージをつかむのに一つの参考になるかと思う。

2007年4月8日踏査

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2008年3月 2日 (日)

灌燭寺 石造弥勒菩薩立像(관촉사석조미륵보살입상)~水木しげるが鬼太郎に登場させた仏像

忠清南道論山市、灌燭寺に残る弥勒菩薩像。高麗時代の石仏で、高さは韓国最大の18m。一度見たら忘れられない顔である。高麗時代の仏像の顔は、新羅の石仏に比べると、このように土着化が進んだ個性が出てきて、味があって良い。特にこの灌燭寺の仏像は、ただ大きいだけでなくて、完成度も高いと思う。

ゲゲゲの鬼太郎に朝鮮魔法という回があって、「アリランさま」と呼ばれる妖怪が出てくるが、この仏像が、ほとんどそのままで使われている。水木しげるは、実際にここまで見に来たのだろうか。

論山へは韓国の新幹線、KTXで行ける。駅からタクシーで20分くらいだったか。扶余観光の帰りに立ち寄った。

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2006年10月4日踏査

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2008年3月 1日 (土)

坡州龍尾里石仏立像(파주용미리석불입상)~イザベラ・バードが見た石仏

坡州市で統一展望台や月籠山城を訪ねた帰りにこの仏像を見に行った。ソウル・坡州間のバス・ルート上にあって、途中下車したバス停のすぐ近くだった。

これはなかなか見応えがあった。高麗時代の石仏だが、土俗的な顔立ちの中にもかなり洗練された印象を受ける。高さ17.4mで、近くで見るとかなりの迫力。韓国で、他にこれに類した石仏を見たことが無い。

19世紀末の興味深く貴重な朝鮮紀行文である、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」に、この石仏が詳しく描写されている。1895年、ソウルから開城へ向かう道中の記事の中に挿絵付で紹介されている。朝鮮各地を旅行しながら、あまり史跡や遺跡にお目にかかれなかった彼女に、とても印象深かったようである。森から頭二つを突き出すこの仏像の挿絵を見て、実物を探して見てみたところ、このようにちゃんと残っていた。しかし顔面をよくみると、疱瘡の痕のように黒い点がいくつも。朝鮮戦争の時の弾痕かもしれない。

坡州から臨津江を越えれば、開城はもう目の前である。もちろん、バードは開城、そして平壌まで北上しているが、同じように旅行ができないのが100年後の現在かと思えば、実に残念なことである。バードはこの平壌へ向かう旅の途中でいくつかの山城跡も見ているが、うらやましい限りだ。

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2007年3月1日踏査

朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫) 朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期 (講談社学術文庫)

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2008年1月 2日 (水)

江華島北部の史跡~江華聖堂、江華山城、高麗宮址

江華島南部で三郎城などを見た帰りに北上して、島の北部を少し見物してから帰ることにした。 帰る前に数時間駆け足で見て回ったが、予想してなかったようなものもあり、短い時間になかなか面白かった。もとよりまだ見ていないものも多いので、いずれ再訪したい。

▼まずは高麗宮址。写真の通り、今はほとんど何も残らない。
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高麗朝時、元の侵略に抗戦してここに開城から1232年に遷都し、何と1270年までの39年間ここを都として持ちこたえた。元が高麗を従えて元寇に来たのが1274年である。高麗の抗戦が無ければ、元寇の時期はもっと早まっていただろうし、そうであれば鎌倉幕府が持ち堪えられたかどうか、神風は吹いたかどうか。
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▲次は江華山城の北門。
高麗時代の城郭は、もとの開城と同様に、内城・中城・外城と三重の城壁を築いたとのこと。そのうち、内城にあたる全長約7kmを李朝時代に土城から石城に改築し、内部に離宮を作ったのが今残る江華山城である。地図で見るとおり、南と北の二つの山を城壁で繋いだもので、その中間は平地になっており、そこが今も市の中心街になっていた。
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高麗の時にはこの城が落城する前に元に降伏したので城自体は無事だったようだが、李朝時代1637年に、清から攻撃され、時の守将は城を守りきれず、南門に火薬を仕掛けて爆死するという悲惨な最期だったらしい。この将、金尚容を顕彰する殉節碑が城内にあった。

 
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▲最後の写真はその殉節碑の近くに残る、聖公会江華聖堂。
1900年に建てられたカトリックの聖堂である。どういう経緯でここに建てられたのか背景がよく分からないが、大変興味深い建築だ。土台は日本の城を思わせるような2mほどの高い石垣が組んであり、その上に李朝建築と洋風の折衷様式のような、不思議な建物が建っている。本殿(?)は7.2mx18mの長方形で、李朝建築では少ない二階建てだ。この長方形の珍しい建物は、方舟をイメージしたデザインらしい。各層に窓ガラスが多用されていて、瓦、屋根、門などにあちこちに十字架の意匠が見られる。他にあまり例が無いのではと思う。

ちょっと歩き回っただけでこれだけ面白いものがごろごろしており、市内では発掘調査中のところもあって、これからもいろいろ出てきそうである。

2007年2月17日踏査

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2007年12月22日 (土)

江華島 三郎城(삼랑성)

三郎城は、江華島の南に位置する標高222mの山頂を2kmに渡って石築の城壁で囲んだ山城である。いつ築城されたものか分かっていない。高麗時代の史書によれば、建国の神である檀君が三人の息子に築城させたので、それにちなんで三郎城と呼ばれているそうである。当初は土築で後に石築になったらしい。李氏朝鮮末まで改築・修築を繰り返して使用されてきたためか、城壁の石の積み方は場所によってまちまちな印象がある。三国時代に最初に築城されたのではないかとの説があるがはっきりしない。
城内には高麗時代の仮宮の跡、やはり高麗時代の寺である伝燈寺、李朝時代の王家の史書や族譜を保管する史庫があった。

写真の南門楼閣は、李朝時代の城門を1976年に復元したものだが、ここで1866年にフランス軍との攻防が繰り広げられ、朝鮮軍が勝ってしまった。勝ってしまった、というのは、ここで薩摩や長州のように負けていれば、もっと早く欧米列強の近代化の力に気付いたのではないかということ。1500年以上も築き続け、朝鮮全土に2000箇所も残ると言われる山城。その長い歴史の最後の最後に、外敵を撃退するのに大きな役割を果たしたようだ。しかし、その結果が、近代化に遅れを取った一因になったとしたら皮肉なものである。

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2007年2月16日踏査

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2007年10月 3日 (水)

塹星壇(참성단)~檀君神話の聖地

これを書いている今日は、韓国の数少ない祝日の一つ、開天節である。檀君神話に基づいた、古朝鮮の建国を祝う日だ。この日には檀君が祭天の儀式を行ったという伝説が残る、普段は立ち入り禁止の塹星壇と呼ばれる祭壇が解放される。

この塹星壇は江華島の南部、標高468mの摩尼山の頂上にある。檀君が天を祭るために作ったとの伝説だが、いつ作られたものか明らかでない。史書に残る一番古い記録は李朝初期らしい。恐らく高麗時代に作ったものであろうか。記録上では、醮祭という、道教式の星に関する祭祀を高麗、李王朝が行っていたようである。

岩山のてっぺんに石築で作られているが、下段部は楕円形に、上段部は方形をなしている。円形は天を表し、方形は地を表すとのことだが、こんな様式の祭壇は他で見たことが無い。誰がどういう思想でこういう構造物を山頂に築いたのか、当初はどういう祭祀がここで行われていたのか、非常に興味深い。

遺跡保存のために1月1日の初日の出と開天節の10月3日以外は立ち入り禁止になっており、柵の外から見るしかない。
しかし離れて見ても、古色蒼然として何だか妖しいオーラがむんむんしている気がした。霊気溢れるこの場所は、檀君を信仰する人たちの聖地であり、韓国で一番の強い気が集まるスポットだそうである。

2007年2月16日踏査

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