江華島南部で三郎城などを見た帰りに北上して、島の北部を少し見物してから帰ることにした。 帰る前に数時間駆け足で見て回ったが、予想してなかったようなものもあり、短い時間になかなか面白かった。もとよりまだ見ていないものも多いので、いずれ再訪したい。
▼まずは高麗宮址。写真の通り、今はほとんど何も残らない。
高麗朝時、元の侵略に抗戦してここに開城から1232年に遷都し、何と1270年までの39年間ここを都として持ちこたえた。元が高麗を従えて元寇に来たのが1274年である。高麗の抗戦が無ければ、元寇の時期はもっと早まっていただろうし、そうであれば鎌倉幕府が持ち堪えられたかどうか、神風は吹いたかどうか。
▲次は江華山城の北門。
高麗時代の城郭は、もとの開城と同様に、内城・中城・外城と三重の城壁を築いたとのこと。そのうち、内城にあたる全長約7kmを李朝時代に土城から石城に改築し、内部に離宮を作ったのが今残る江華山城である。地図で見るとおり、南と北の二つの山を城壁で繋いだもので、その中間は平地になっており、そこが今も市の中心街になっていた。
高麗の時にはこの城が落城する前に元に降伏したので城自体は無事だったようだが、李朝時代1637年に、清から攻撃され、時の守将は城を守りきれず、南門に火薬を仕掛けて爆死するという悲惨な最期だったらしい。この将、金尚容を顕彰する殉節碑が城内にあった。
▲最後の写真はその殉節碑の近くに残る、聖公会江華聖堂。
1900年に建てられたカトリックの聖堂である。どういう経緯でここに建てられたのか背景がよく分からないが、大変興味深い建築だ。土台は日本の城を思わせるような2mほどの高い石垣が組んであり、その上に李朝建築と洋風の折衷様式のような、不思議な建物が建っている。本殿(?)は7.2mx18mの長方形で、李朝建築では少ない二階建てだ。この長方形の珍しい建物は、方舟をイメージしたデザインらしい。各層に窓ガラスが多用されていて、瓦、屋根、門などにあちこちに十字架の意匠が見られる。他にあまり例が無いのではと思う。
ちょっと歩き回っただけでこれだけ面白いものがごろごろしており、市内では発掘調査中のところもあって、これからもいろいろ出てきそうである。
2007年2月17日踏査
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