北漢山城である。現在残る山城は、李朝時代の1711年に築造されたもので、全長12.7km。景福宮の後方、北側にそびえる、白い岩肌が目立つ北漢山(836m)にある。山自体が険峻で天然の要害となっているので城壁自体はそれほど高く積まれていない。登山案内のサイトによると、城壁を一周するにはいくつもの峰を越えねばならず、経験者と一緒に一泊二日でいくべきとのこと。 今回は南西の山麓に住む友人と一緒に彼の家の近くの登山道から入った。かなり遠回りのコース。城外に残る新羅眞興王巡狩碑(写真)がある碑峰(560m)を攻めてから、南側の城壁を廻った後、東門から城内に入り、王の離宮址を過ぎて城内を一直線に抜ける道を通り、西門から下山するコースを取った。全長何kmだったのか、6時間を超える行程で最後には足腰がガクガクになった。
北漢山には最初に百済が山城を築いたと言われているが、その頃の城跡がどこなのかは判明していない。最も時代が古く年代が明らかな遺跡としては、今回訪ねた新羅眞興王巡狩碑がある。6世紀に新羅が高句麗と百済に勝って漢江流域を獲得した記念に作った石碑である(新羅が高句麗と百済を滅ぼすのはそれから更に100年後)。この石碑、19世紀までその存在を忘れられていた。こんなに目立つ場所にあるのだが、そんなに古いものだとは誰も思わず、ろくに関心を持たれなかったのだろう。発見したのは、李朝後期の実学者で書芸家で金石文学者の秋史、金正喜。写真で見ての通り岩山のテッペンに据え付けられており、ここまで這い登るのは、経験者と一緒でなければ難しい。ちょっとしたロッククライミングのようで、両手両足を駆使して足場を慎重に探りながらやっと登りきった。登山靴とはこうやって使うのかと初めて分かった。1人でここまで登りきる経験も根性も無いのでガイドしてくれた友人に感謝。ちなみに今ある石碑は、この一ヶ月前に据え付けられたばかりの精巧なレプリカ。それまでは新羅眞興王巡狩碑遺址とだけ書かれている簡単な記念碑が置かれていた。本物は傷みが激しく、70年代から保存のために国立博物館で展示されている。 ちなみに眞興王巡狩碑は、他にも3つ、当時新羅が新たに獲得した各地に残っているらしい。三国時代の史書が現存しないので、こうした数少ない石碑の金石文や木簡などの考古資料だけが一次資料としてリアルタイムの三国時代を伝えてくれる。そういう意味で大変貴重な物である。
2006年11月18日踏査
▲南西の登山口から登りはじめて、最初の峰の上からの眺め。
▲尾根伝いに北漢山城に向かって北上する内に、遠くに碑峰が見えてくる。頂上に新羅眞興王巡狩碑が立っているのが小さく見える。
▲碑峰を這い上がる友人。良く見ると下のほうに柵が見える。後から聞いたがこの南側の登り口は立ち入り禁止で、ここで命を落とした人もいたとのこと。決して真似しないでください。上に上ってから気付いたが、普通の登山客はこの真後ろ、北側からアプローチしていた。そちらはいくらかマシだが、それでも登山靴は必須。
▲ひと月前に設置されたばかりの眞興王巡狩碑レプリカ。中々よく出来ている。秋史はよくこんなところまで登って調査したものである。
▲登山客がいなくなった隙にやっと撮った。絶景。
▲さらに尾根伝いに北上する途中で見た奇岩。
▲やっと北漢山城の南側城壁、暗門の一つにたどり着く。
▲暗門の解説版。青水洞暗門と名付けられている。
▲尾根伝いに城壁が遠くまで連なっている。
▲少し霞んでいたが、とにかくどこを見ても絵になる絶景。朝早く出発したのでマイペースで動けたが、遅くなると登山客で渋滞するほどとか。ソウル市民に人気の登山スポットである。
▲大南門が見えてきた。
▲「北漢山でイノシシに出会ったら・・・・」 虎が絶滅した後、韓国の野生動物ではイノシシが最強か??野生の熊の被害の話しはほとんど聞かない。
▲大南門
▲▼城壁は延々と続く。
▲輔国門

▲大東門。ここから城内に入って西門に向かって縦断した。
▲▼行宮址。1915年8月の集中豪雨で消失した。
▲中城門。1712年、城内にさらに内側の城郭である中城を築いた。
▲▼中城門を外側から見る。切石で組んだ18世紀の堅固な城壁。左側に水門。
▲下山して麓までくると飲食店が密集している。登山客に人気の山でよく見られる光景。
▲豆腐屋で豆腐キムチを肴にマッコリを飲む。美味かった。
▲チヂミ。表面がカリっとして香ばしい。これも山で飲むマッコリの肴の定番。
▲下山して山を振り返る。
▲後日、国立中央博物館で眞興王巡狩碑の実物を見る。一階、金石文の部屋の中央に鎮座している。
▲碑文はかなり磨耗して判読が難しい。1500年間も山のテッペンで野ざらしになっていたにしてはよく残っているというべきか。朝鮮戦争の際にも破損したらしい。秋史が発見したときはもう少しマシな状態だったろうか。
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