カテゴリー「李氏朝鮮の史跡」の9件の記事

2008年12月21日 (日)

南漢山城(남한산성)再訪~発掘調査が明らかにした統一新羅時代の遺構

寝坊した。
ほぼ毎週末、まだ暗い内から早起きして、始発のバスや電車で郊外の山城に出かけるというパターンになっていたが、たまに寝過ごしてしまうこともある。

この日は、せっかくの好天だったがもう遠出は無理な時間だったので、近場でどこに行こうかと考え、南漢山城を再訪することにした。一年前に行ったが、南門から西門を経由して北門までの半分の区間を見ただけ。未見の区間と、昨年から発掘調査中の統一新羅時代の大型建物跡を見に行くことに。 統一新羅時代の大型建物跡(53.5m x 17.5m)は既に掘り出されていたが、ちょうどその建物跡から、長さ64cm、重さ19kgの超大型瓦が350枚も完形で発掘されたとのプレスリリースがあったばかりだった。

今回は、南門からスタートして、東門までの区間を歩いた。
甕城が三箇所、暗門数箇所、雉城、砲塁に、水門などなどテンコ盛り。城郭好きには面白い区間だったが、城壁が崩れたままのところがあったり、景色が地味だったりと、前回まわった南西区間に比べると少し寂しい感じである。

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統一新羅時代の大型建物跡は、李朝時代の行宮址の発掘現場で見付かった。行宮の復元整備に伴う発掘調査で偶然発見されたものである。南漢山城の初築が何時であるのか不明だが、この発掘成果で、ここが統一新羅時代の晝長城(別名日長城)であったと見て間違いあるまい。それにしても一枚19kgのバカでかい瓦と言い、53.5mという長大な建物と言い、ここが非常に重要な城であったろうことが推察される。

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▲統一新羅時代の建物跡の発掘現場

初築が百済との説もあり、初期百済の遺物も出ているようではあるが、城の立地、規模、プランからして、恐らく統一新羅の初築ではないだろうか。羅唐戦争時、この山城が漢江流域を守る防衛ラインで中心的な役割を果たしていたのかもしれない。

2007年11月18日踏査

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2008年6月29日 (日)

幸州山城(행주산성)~文禄の役の古戦場は、三国時代からの古城址

幸州山城はソウルの西隣、京畿道高陽市の、昌陵川が漢江に交わる河口部に小高く盛り上がった徳陽山(標高124.8m)山頂にある。このように支流が本流に交わる部分の丘陵地形は、少なくとも二方面を天然の堀で守られた要害であり、同時に水上交通の要衝でもあるから、三国時代からずっと重要な戦略地点となってきた。

1593年文禄の役では、権慄将軍が籠城したこの山城を、総大将宇喜多秀家、副将石田三成、吉川広家らが率いる三万の軍勢が攻めたが、落とすことができず退却した。韓国では文禄慶長の役での朝鮮側の三大勝利の一つとされ、映画やドラマなどでも大変有名な古戦場である。

しかしこの山城はそのはるか以前からあった古城である。三国時代の土器片が見つかっており、発掘の結果、統一新羅時代の城門跡も確認されている。しかし、文禄の役以前の文献の記録は無く、初築が何時であるのかははっきりしていない。近くの虎巖山城と共通した土器片が多く出ていることから見て、統一新羅初期に羅唐戦争に備えて初築、もしくは整備・再活用された城址ではないかと考えられているようだ。

Google

▲漢江流域の統一新羅時代の古城址を、幸州山城を中心に赤丸でマークしてみた。右のほうに青丸で印をつけたところは、漢城百済の王城があったと推定される地域。その下の南漢山城が統一新羅時代のこの地域の中心的山城であったと思われる。黄色で囲った範囲は李朝時代のソウル城郭であり、現在のソウル中心部でもある。

映画などでは、立派な石築の城郭が出てきたりするそうだが、この城は土城である。頂上を囲んだ小規模な鉢巻式山城と、その外郭を大きく囲む包谷式山城が組み合わさった二重構造で、外周約1kmとのこと。しかし現状では、1990年代に入ってから復元整備された西門跡を含む版築土塁420m以外には、城壁跡を辿って確認することはできなかった。
山頂付近の散策路では、色々な模様の土器片がごろごろ転がっていた。
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▲復元整備された版築土塁による城壁。発掘調査で、基底部に二段の石列が並べられているのが確認されている。日本の古代山城の土塁の基礎にも類似したものがみられる。土塁の基礎石列にはいくつかの種類があるようだが、やはり元祖は朝鮮半島の古代山城であろう。

2007年7月6日踏査

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2008年1月 2日 (水)

江華島北部の史跡~江華聖堂、江華山城、高麗宮址

江華島南部で三郎城などを見た帰りに北上して、島の北部を少し見物してから帰ることにした。 帰る前に数時間駆け足で見て回ったが、予想してなかったようなものもあり、短い時間になかなか面白かった。もとよりまだ見ていないものも多いので、いずれ再訪したい。

▼まずは高麗宮址。写真の通り、今はほとんど何も残らない。
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高麗朝時、元の侵略に抗戦してここに開城から1232年に遷都し、何と1270年までの39年間ここを都として持ちこたえた。元が高麗を従えて元寇に来たのが1274年である。高麗の抗戦が無ければ、元寇の時期はもっと早まっていただろうし、そうであれば鎌倉幕府が持ち堪えられたかどうか、神風は吹いたかどうか。
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▲次は江華山城の北門。
高麗時代の城郭は、もとの開城と同様に、内城・中城・外城と三重の城壁を築いたとのこと。そのうち、内城にあたる全長約7kmを李朝時代に土城から石城に改築し、内部に離宮を作ったのが今残る江華山城である。地図で見るとおり、南と北の二つの山を城壁で繋いだもので、その中間は平地になっており、そこが今も市の中心街になっていた。
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高麗の時にはこの城が落城する前に元に降伏したので城自体は無事だったようだが、李朝時代1637年に、清から攻撃され、時の守将は城を守りきれず、南門に火薬を仕掛けて爆死するという悲惨な最期だったらしい。この将、金尚容を顕彰する殉節碑が城内にあった。

 
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▲最後の写真はその殉節碑の近くに残る、聖公会江華聖堂。
1900年に建てられたカトリックの聖堂である。どういう経緯でここに建てられたのか背景がよく分からないが、大変興味深い建築だ。土台は日本の城を思わせるような2mほどの高い石垣が組んであり、その上に李朝建築と洋風の折衷様式のような、不思議な建物が建っている。本殿(?)は7.2mx18mの長方形で、李朝建築では少ない二階建てだ。この長方形の珍しい建物は、方舟をイメージしたデザインらしい。各層に窓ガラスが多用されていて、瓦、屋根、門などにあちこちに十字架の意匠が見られる。他にあまり例が無いのではと思う。

ちょっと歩き回っただけでこれだけ面白いものがごろごろしており、市内では発掘調査中のところもあって、これからもいろいろ出てきそうである。

2007年2月17日踏査

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2007年12月22日 (土)

江華島 三郎城(삼랑성)

三郎城は、江華島の南に位置する標高222mの山頂を2kmに渡って石築の城壁で囲んだ山城である。いつ築城されたものか分かっていない。高麗時代の史書によれば、建国の神である檀君が三人の息子に築城させたので、それにちなんで三郎城と呼ばれているそうである。当初は土築で後に石築になったらしい。李氏朝鮮末まで改築・修築を繰り返して使用されてきたためか、城壁の石の積み方は場所によってまちまちな印象がある。三国時代に最初に築城されたのではないかとの説があるがはっきりしない。
城内には高麗時代の仮宮の跡、やはり高麗時代の寺である伝燈寺、李朝時代の王家の史書や族譜を保管する史庫があった。

写真の南門楼閣は、李朝時代の城門を1976年に復元したものだが、ここで1866年にフランス軍との攻防が繰り広げられ、朝鮮軍が勝ってしまった。勝ってしまった、というのは、ここで薩摩や長州のように負けていれば、もっと早く欧米列強の近代化の力に気付いたのではないかということ。1500年以上も築き続け、朝鮮全土に2000箇所も残ると言われる山城。その長い歴史の最後の最後に、外敵を撃退するのに大きな役割を果たしたようだ。しかし、その結果が、近代化に遅れを取った一因になったとしたら皮肉なものである。

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2007年2月16日踏査

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2007年7月16日 (月)

堤川 德周山城 (덕주산성)

忠州市の南端にある水安堡温泉に一泊したついでに、近場の山城を探して訪ねた。
この温泉の辺りは、韓国の南北を結ぶ古街道の、峠の関を越えた北側に位置するが、今回訪ねた德周山城は、この古街道を守った山城である。新羅時代に最初に作られたと推定されているが、李朝時代まで増改築を重ねた結果、最終的には四重の城郭、全長9.8kmに渉る巨大な山城となった。城壁はかなり崩れているが所々修築して、今は南門、東門、北門が再現されている。
元軍が襲来した際、突然風雲乱れ、ひょうが降り注いだところ、神が守る地であると恐れをなして蒙古が逃げたという伝説が残る。
南門と東門付近を訪ねた。両方とも街道が通る谷間に作られている。北門は登山しないと行かれないとのことで、時間の関係もあって断念した。
山の稜線に沿って、ところどころ急峻な坂にも城壁の址が点在するのが遠くに見えた。この山城がある月岳山は国立公園として整備されており、秋には紅葉で美しく、登山客が多いらしい。

2006年12月30日踏査。

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2007年6月16日 (土)

北漢山城と新羅眞興王巡狩碑 (북한산성 과 신라진흥왕순수비)

北漢山城である。現在残る山城は、李朝時代の1711年に築造されたもので、全長12.7km。景福宮の後方、北側にそびえる、白い岩肌が目立つ北漢山(836m)にある。山自体が険峻で天然の要害となっているので城壁自体はそれほど高く積まれていない。登山案内のサイトによると、城壁を一周するにはいくつもの峰を越えねばならず、経験者と一緒に一泊二日でいくべきとのこと。 今回は南西の山麓に住む友人と一緒に彼の家の近くの登山道から入った。かなり遠回りのコース。城外に残る新羅眞興王巡狩碑(写真)がある碑峰(560m)を攻めてから、南側の城壁を廻った後、東門から城内に入り、王の離宮址を過ぎて城内を一直線に抜ける道を通り、西門から下山するコースを取った。全長何kmだったのか、6時間を超える行程で最後には足腰がガクガクになった。

北漢山には最初に百済が山城を築いたと言われているが、その頃の城跡がどこなのかは判明していない。最も時代が古く年代が明らかな遺跡としては、今回訪ねた新羅眞興王巡狩碑がある。6世紀に新羅が高句麗と百済に勝って漢江流域を獲得した記念に作った石碑である(新羅が高句麗と百済を滅ぼすのはそれから更に100年後)。この石碑、19世紀までその存在を忘れられていた。こんなに目立つ場所にあるのだが、そんなに古いものだとは誰も思わず、ろくに関心を持たれなかったのだろう。発見したのは、李朝後期の実学者で書芸家で金石文学者の秋史、金正喜。写真で見ての通り岩山のテッペンに据え付けられており、ここまで這い登るのは、経験者と一緒でなければ難しい。ちょっとしたロッククライミングのようで、両手両足を駆使して足場を慎重に探りながらやっと登りきった。登山靴とはこうやって使うのかと初めて分かった。1人でここまで登りきる経験も根性も無いのでガイドしてくれた友人に感謝。ちなみに今ある石碑は、この一ヶ月前に据え付けられたばかりの精巧なレプリカ。それまでは新羅眞興王巡狩碑遺址とだけ書かれている簡単な記念碑が置かれていた。本物は傷みが激しく、70年代から保存のために国立博物館で展示されている。 ちなみに眞興王巡狩碑は、他にも3つ、当時新羅が新たに獲得した各地に残っているらしい。三国時代の史書が現存しないので、こうした数少ない石碑の金石文や木簡などの考古資料だけが一次資料としてリアルタイムの三国時代を伝えてくれる。そういう意味で大変貴重な物である。

2006年11月18日踏査

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▲南西の登山口から登りはじめて、最初の峰の上からの眺め。

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▲尾根伝いに北漢山城に向かって北上する内に、遠くに碑峰が見えてくる。頂上に新羅眞興王巡狩碑が立っているのが小さく見える。

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▲碑峰を這い上がる友人。良く見ると下のほうに柵が見える。後から聞いたがこの南側の登り口は立ち入り禁止で、ここで命を落とした人もいたとのこと。決して真似しないでください。上に上ってから気付いたが、普通の登山客はこの真後ろ、北側からアプローチしていた。そちらはいくらかマシだが、それでも登山靴は必須。

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▲ひと月前に設置されたばかりの眞興王巡狩碑レプリカ。中々よく出来ている。秋史はよくこんなところまで登って調査したものである。

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▲登山客がいなくなった隙にやっと撮った。絶景。

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▲さらに尾根伝いに北上する途中で見た奇岩。

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▲やっと北漢山城の南側城壁、暗門の一つにたどり着く。

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▲暗門の解説版。青水洞暗門と名付けられている。

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▲尾根伝いに城壁が遠くまで連なっている。

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▲少し霞んでいたが、とにかくどこを見ても絵になる絶景。朝早く出発したのでマイペースで動けたが、遅くなると登山客で渋滞するほどとか。ソウル市民に人気の登山スポットである。

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▲大南門が見えてきた。

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▲「北漢山でイノシシに出会ったら・・・・」 虎が絶滅した後、韓国の野生動物ではイノシシが最強か??野生の熊の被害の話しはほとんど聞かない。

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▲大南門

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▲▼城壁は延々と続く。

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▲輔国門

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▲大東門。ここから城内に入って西門に向かって縦断した。

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▲▼行宮址。1915年8月の集中豪雨で消失した。

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▲中城門。1712年、城内にさらに内側の城郭である中城を築いた。

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▲▼中城門を外側から見る。切石で組んだ18世紀の堅固な城壁。左側に水門。

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▲下山して麓までくると飲食店が密集している。登山客に人気の山でよく見られる光景。

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▲豆腐屋で豆腐キムチを肴にマッコリを飲む。美味かった。

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▲チヂミ。表面がカリっとして香ばしい。これも山で飲むマッコリの肴の定番。

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▲下山して山を振り返る。

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▲後日、国立中央博物館で眞興王巡狩碑の実物を見る。一階、金石文の部屋の中央に鎮座している。

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▲碑文はかなり磨耗して判読が難しい。1500年間も山のテッペンで野ざらしになっていたにしてはよく残っているというべきか。朝鮮戦争の際にも破損したらしい。秋史が発見したときはもう少しマシな状態だったろうか。

2007年6月 3日 (日)

三田渡碑 または大清皇帝功徳碑 (삼전도비)

1636年、清の太宗ホンタイジが江南にやってきた、というと何やら妙に現実味が湧く。南漢山城に行った時に、「丙子胡乱の時に仁祖が籠城した」と説明版に書いてあるのを見て 丙子胡乱って何だ?と思い、調べて見たら怖い話。
 後金が清朝となり、中国皇帝を宣言したのを16代朝鮮王仁祖は認めなかった。中国皇帝は漢民族の明の皇帝だけで満州族は野蛮人だと。怒ったホンタイジは10万の兵で自ら朝鮮を攻め、わずか5日間で漢城を陥落。仁祖は漢江の南、三田渡でホンタイジに三跪九叩頭の礼(三度跪き、九度頭を地にこすりつける)という中国皇帝に対する臣従を示す礼を取らされた。さらに膨大な賠償金、王子を含む多数の人質などなどを差し出すことに。とどめがこの石碑を作らされたこと。「大清皇帝功徳碑」という恩着せがましい名称を見て分かるとおりの内容。仁祖の詫び状と、慈悲深く徳に満ちたホンタイジを褒め称える文章が、くどくも漢語、モンゴル語、満州語の三ヶ国語で書かれている。韓国ではあっさりと、三田渡碑と呼ばれる。
朝鮮の支配権を争った日清戦争で清が負けると、この屈辱的な石碑は清の使節をお迎えした迎恩門と同様に倒された(西大門区の独立門前に支柱のみ残存)が、その後、日本支配時代に日本人により元に戻されたという(これはやはり嫌がらせか)。日本の敗戦で、また倒されて捨てられるが、1960年代の漢江の洪水で再発見され、現在に至る。
何度捨てても蘇る不気味な石碑。朝鮮にコケにされたホンタイジの怒りの怨念は300年以上消えないのか??

百済の積石塚古墳がある石村洞の住宅地の児童公園にポツンと残っている。驚くのは、ホンタイジに土下座する仁祖のレリーフが横に併置されてること。自虐的に見えるけど、韓国側からすると、あの恨みと屈辱を忘れるな!って感じなのだろうか?・・・・どちらも恐ろしい。

それにしても、日本は島国で大陸と直結してなくて良かったなぁ、とつくづく思わされた。

2006年11月12日踏査

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▲地下鉄8号線石村駅6番出口から石村洞古墳のある西に歩いてすぐの路地を入る。路地の入り口にこの案内表示もある。

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▲住宅街の中にポツンと立っている。

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▲中国皇帝を象徴する龍のレリーフ。

2006_1112_150653aa_640▲漢字で大清皇帝功徳碑と読める。漢語が裏面になっている。

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▲ホンタイジに臣下の礼をとらされる仁祖のレリーフ。三田渡碑から少し離れたところに設置されている。「三田渡の受難」というタイトルと説明文、1982年12月の日付があった。

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▲石碑の台となる石亀は二つあるが、もう片方にどんな石碑が乗っていたのか分からない。

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▲満州文字かモンゴル文字のどちらかだが、筆者には区別できない。こちらが表面になる。

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2007年6月 2日 (土)

南漢山城 (남한산성) ~17世紀、山城の集大成

李朝時代の代表的な山城。これまで見に行った三国時代の山城とは違って後代にできただけに、流石に山城の集大成・完成形という感がある。首都ソウルの北に位置する北漢山城とあわせて、南北から首都を防御する要の城塞として機能した。
全長7.5km、規模も大きく、内部には王の離宮、寺、見張り台、貯水池などの施設が並び、4つの城門も城壁も立派なものである。避難用の秘密の門であった、暗門もいくつかある。南門から城壁に沿って西回りで北門まで約半周を回り、そこから城内をショートカットして東門を見た。これでほぼ半日かかった。

この城、こんなに立派なのに初築年代がはっきりしていない。かつては百済の城があったのではと言われていたが、それを裏付けるようなものは見付かっていない。三国史記で、新羅文武王13年(673)、漢山州に晝長城(別名日長城)を築いたとあるのが、この城ではないかと言われている。近年の発掘により、城内で統一新羅時代の大型建物跡が見付かっており、少なくともその時代までは遡るようだ。 高麗時代の記録は無く、その次はいきなり李朝初期の1410年、修築を議論した記録に飛んでいる。現在の城壁は、17世紀始めに、後金の侵略に備えて大々的に改築したものである。実際に時の王仁祖は、ホンタイジの軍に攻められてここで40日間籠城した。城自体は堅固で落ちなかったが、江華島を始めとして主要地を落とされたのと糧食の不足から、降伏して城門を空けることになった。

地下鉄8号線山城駅からバスで15分ほどで、城内中心地点のロータリーまで行くことが出来る。ロータリー周辺はたくさんの飲食店でにぎわっている。

2006年11月5日踏査

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▲左下の南門から左周りで上の北門まで行き、中心のロータリー経由で右下の東門を見て帰った。約半日の行程。

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▲城内から見た南門。

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▲いくつもある暗門の一つ。

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▲西側の城壁。

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▲▼西門

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▲西門を遠景で

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▲ソウル市内が遠くまで見晴らせる

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▲西の雉城。城壁の張り出し部で、側面から敵を攻撃するための構造。古くは高句麗の山城から見られる。2006_1105_095229aa_640

▲甕城と呼ばれる構造で、上掲の雉城近くから外側に細長く突き出している。これも城に迫る敵を側面から攻撃するためのものだ。

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▲甕城の先端部

2006_1105_095723aa_640 ▲甕城の先端部から城内を見たアングル。

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▲西門を過ぎると北門に向かって急斜面が続く。石垣は斜面に水平に築き、銃眼を備えた女墻(ひめがき)はレンガで山の斜面に平行して築いている。平衡感覚がおかしくなりそうだ。

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▲▼補修工事中の北門

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▲城内飲食店街の銀杏

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▲ロータリーから東門に向かう道

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▲ちょうど紅葉真っ盛りで行楽客で賑わっていた

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▲▼東門

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▲東門の南側は道路を通すために崩されていた。

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▲東門から南側城壁を見渡す。このあたりが谷になっている。

2007年5月24日 (木)

虎巖山城(호암산성)

虎巖山城は、ソウル市西南端に位置する衿川区の虎巖山(または衿州山、標高390m)頂上付近にある。統一新羅初期、唐との戦争に備えて築いた山城ではないかと言われている。外周1.25km。朝鮮の古代山城は、山の頂上や谷を城壁で囲んだ、主に篭城を目的とした城である。土塁や石塁で堅固な城壁を築いているが、相当な労力と経済力が伴わなければできなかったろう。当然、明確な目的が無ければ作れないだろうが、その割りに数が多すぎて珍しくないからなのか、何時誰が作ったのか分からなくなっているものが多い。 この城址も発掘調査で出た遺物から統一新羅時代と推定しているだけで、当時の記録があるわけではない。

さて、この山城は肝心の城壁は殆ど失われて、一部崩れた石塁が300mほど残っているとのことで行ってみたが、方向音痴の私には見つけられなかった。残念。しかし城内の石造の貯水池二箇所と、おそらく城を守護する動物(想像上の動物であるヘテともただの犬とも言われている)の石像だけは見ることができた。 「大井戸及び周辺山城址」として国家史跡第343号に指定されている。

山の麓にある虎圧寺は、風水地理説でこの山の山勢を虎に見立てて、その勢いを抑えるために建てた寺との伝説があり、李朝初期の創建と伝わる。李成桂の師である無学大師の伝説も残る寺だ。

薄曇だったが頂上からの景観は最高。登山道はよく整備されていて、近隣住民が気軽にハイキングに来る場所になっている。山頂までゆっくり登って30~40分ほど。虎巖山城の城壁が見つけられず、多くの人に尋ねたが、ここに山城があったことさえ知る人は少なく、こちらから説明させられる始末だった。

2006年10月28日踏査。

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虎圧寺の山門が登山口になる。

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案内図。右上の方に、虎厳山城が図示されているのだが・・・・。

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虎厳山の説明版。

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山門をくぐって少し坂道を登ると、虎圧寺がある。

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虎圧寺の説明版。

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寺の境内から仰ぎ見た虎厳山。韓国は岩山が多い。

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樹齢600年のケヤキ。虎圧寺創建のころから生き続ける。

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登山途中で麓のアパート群を見下ろす。

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冠岳山に連なる連峰を見晴らす。

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石狗像。ヘテとも犬とも言われているがどちらにも見えない。

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巻いた尻尾が意外な形で、とぼけていて良い。

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李朝時代の大井戸。石築が見事である。東西22m, 南北12m, 深さ1.2m。発掘の結果、この下から東西17.8m, 南北13.6m, 深さ2.5mの新羅の石築貯水池が出てきた。

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「大井戸及び周辺山城址」国家史跡第343号説明版。

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大井戸跡から南に200mのところにある、やはり石築の第二井戸。南北18.5m, 東西10mの長方形。ここから銘文のある青銅の匙が出土しており、それが統一新羅との年代推測の目安になっているようだ。

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もう一度石狗像のところに戻り、この近くにある筈の城壁跡を探したが、

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急傾斜の林のなかをずいぶん彷徨い歩いても見付からなかった。上掲写真に見える石積に、これか!と思ったが、どう見ても新しい物だった。

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