カテゴリー「扶余~百済最後の都」の4件の記事

2007年10月21日 (日)

扶余 青馬山城 (청마산성) ~全長10km??百済最大の山城

午前中に聖興山城を見た日に、昨年できた百済歴史文化館に行き、100年前の扶余の写真展を見た。国立中央博物館が所蔵している1910~1930年代のガラス乾板写真から、扶余を写したものを集めて展示する企画だった。写真集も購入。6,000ウォン。安い!
ここで青馬山城の写真を見た。時間もまだ昼過ぎで余裕がありそうだったので、この羅城の東側を守る山城にも思い切って行って見ることにした。

月明山(標高118m)の稜線上に築いた山城でこれまでは全長6kmと考えられていた。しかし最近の調査で、大小の山城が繋がった10kmに及ぶ巨大な複合式山城と判明した!とのこと。国家史跡34号にも指定されており、すぐ分かるだろうと高をくくって行ってみたが、どこだかさっぱり分からない。大雑把な観光案内板を目安に近くまでタクシーで移動し、そこからは人に道を聞き聞き訪ねた。 40分ほど山道を歩き回り、無駄に小山を一つ越えて、やっと青馬山城の説明版が立っているところにたどり着いた。しかし現地に残っていたのは稜線上の小高い小山に散在する崩れた石材だけ。それでも一応100年前の写真と同じ場所のような気はする。 他に大きな水門が写ったそそられる城壁の写真もあったが、これはどこで撮ったものか今でも判明していないらしい。その城壁はもう残っていないのかもしれない。
しかし、どこをどう調査して10kmと言っているのか、城の縄張りがさっぱり分からなかったのが残念だった。専門家にでも案内してもらわないと無理だ。恐らくさんざん歩いた稜線そのものが土城址だったのではないかと思うが。

2007年2月10日踏査

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扶余 聖興山城 (성흥산성) ~501年築城の加林城に比定

501年(百済東城王23年)8月、衛士佐平 白加が築城。この地方は当時加林郡と言ったので、加林城と呼ばれた。百済の城郭中、築城年がはっきりした唯一の城とのことである。 白加は、加林郡に送られたことを恨んで反乱を起こしたが、敗れて殺されたと三国史記にあるとのことだ。

この山城は、扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にある。外周1.5km。南側など一部の城壁は石築になっているが大部分は版築土塁で築いている。石築の南門と東門が残っている。ここは都である泗沘城全体を南から見晴らせる場所なのだが、霧が濃くて見られなかった。
泗沘(サビ)城は街全体が羅城で囲まれていたが、この羅城をさらに外側から囲むように、いくつも山城が築かれている。聖興山城はこの都のすぐ南を守る位置であるが、築城は泗沘城へ遷都した538年よりも37年も先立っている。遷都以前に既にこの地が百済にとって重要な地であったことが伺える。

2007年2月10日踏査

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2007年9月22日 (土)

扶余 羅城 (부여 나성) ~百済城郭都市の城壁

羅城とは中国式の都城制で街全体を囲む城壁のこと。
小説などでも有名な平安京の羅城門(羅生門)は、その羅城の南門にあたるのだが、平安京では街の区割りを碁盤の目にする条坊制は導入されたのに、街全体を囲む城壁は作られなかった。城門だけ。どうしてだろう。日本ではその後も羅城は一度も作られない。朝鮮ではこの百済を始めとして、その後羅城は李朝まで受け継がれていく。

百済では、この最後の都である扶余の泗沘城に初めて羅城が作られた。全長8.4kmと推定されている(下記追記注)。現在は一部のみが残っている。今回見てきたのは、陵山里古墳群近くの東門跡付近に数100m残る部分。写真の通り基本的には土城だが基礎部分が石積みになっている。唐が百済を滅ぼした記録に、まず郭に入って、次に城を囲む・・・・と書かれているそうで、街を囲む城郭があって、その中に王城があったことが文献からもわかる。しかし、せっかくこんな立派な城郭や、いくつもの山城で都城を守ったのに、いざ唐・新羅連合軍が来ると、この都は簡単に陥落してしまった。 これもまた謎である。

2007年1月20日踏査

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2007年10月28日追記;

この羅城の範囲及び総長については、諸説ある。「泗沘羅城研究の現段階;朴淳發著2007」によれば、80年代以降、現存しない西羅城、南羅城の存在が主張されていたが、1999年、2000年の発掘調査で西羅城の痕跡は認められなかったとのこと。結果、現在確認されている部分は、扶蘇山城と青山城を結ぶ北羅城0.9kmと、青山城から塩倉里までの東羅城5.4kmを足した総長6.3km。一番古い記録で、李朝初期の『東国與地勝覧』でも13,006尺(約6km)とあり現存の長さとほぼ合致するので、当初から西・南羅城は無かったと結論付けているようだ。韓国文化財庁のホームページの羅城の解説では総長84kmとなっているが、これは8.4kmの誤りで、80年代以降の説で西羅城を含む総長かと思われる。しかしこの最新の説によれば、泗沘の羅城は都市の外周を完全に囲ったものではなく、蛇行する錦江の半円の東側を閉じるような直線に近い構造ということになる。

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2007年9月 1日 (土)

扶蘇山城 (부소산성) ~百済最後の王城を守る山城

忠清南道扶余郡。538年から660年までの約120年間、百済最後の都があったところだ。百済の頃には泗沘と呼ばれた。新羅と唐の連合軍に徹底的に破壊されたためか、飛鳥文化の源流だった筈の百済文化は残念ながら僅かしか残っていない。 しかし、近年の発掘の成果で少しずつその姿を現しつつあると言って良いだろう。

まずは扶蘇山城。王宮があったと推定される地帯のすぐ北に位置する、標高100m程度の低い山に作った土城である。山の北側は錦江に面した天然の要害だ。百済時代をしのばせるのは、この山の頂上を囲む土城の城壁跡と、いくつかの建物址。 今回行ってみて意外だったのは、城壁の縄張りが思いのほか複雑だったこと。案内板によれば、一番外側の大きな外周部分、1.5kmが百済時代のものとのことである。内側に残るいくつかの城壁のラインは、その後の新羅時代と、高麗末~李朝初期に規模を縮小して作った部分だということが発掘調査の結果、分かってきたらしい。

山城の城壁のすぐ外の山腹に、寺跡が残る。西の山腹にあるから西腹寺と呼ぶが当時の名前は分からない。中門、仏塔、金堂の土台や礎石が残っている。伽藍配置は、これらの遺構が全て一直線に並ぶ、日本で四天王寺式と呼ばれる様式である。扶余にいくつも残る百済時代の寺跡は、大抵がこの伽藍配置である。日本では法隆寺の若草伽藍跡などの初期の寺がこの様式を取っている。

ちょっと面白かったのは、この山の南側山麓一帯を発掘中なのだが、これを一般公開していること。散策路が設けてあって、発掘現場を見て回れるようになっている。建物址、工房跡、大路跡、倉庫址などが散在しており、所々に簡単な解説版もあり、ここに百済の都があったことを想像させてくれる。百済の痕跡は、ほとんどが土の中である。

2007年1月20日踏査

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▲扶蘇山上から錦江を望む。

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