カテゴリー「臨津江沿岸の史跡」の8件の記事

2008年6月22日 (日)

臨津江沿岸の古城群(임진강연안의 고성군)-4

臨津江を東に進んで堂浦城を過ぎると、やがて川は二股に分かれる。左に行けば臨津江の上流へ、右に進むと漢灘江である。古城跡は、この漢灘江に沿って続いている。隱垈里城(은대리성)瓠蘆古壘、堂浦城と同様に、三角形の断崖地形上に築かれている。しかし、先の二つの城とは異なる点がいくつか見られる。まず、城壁が独特な土石混築構造になっている点。また、現地で確認できなかったが、外城と内城の二重構造になっていること。三つ目に、ここからは瓦が出ていない点。出土遺物は比較的少ないようだが、5世紀頃の高句麗土器片が出ており、やはりここも高句麗の初築と考えられている。先の二城との築城法の違いが何によるのかは分からない。

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▲隱垈里城の城壁前に散策路と解説板が設けられているが、どこが遺構なのかこれだけでは分からない。作りっ放しで数年放置されているようで、荒んだ感じがした。

続いて、同じ漢灘江北岸にある全谷里先史遺跡地 (전곡리 선사유적지) を訪ねた。

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旧石器時代の遺跡として1978年に発見されて以来、10回の発掘を経て、遺跡公園として整備されている。旧石器時代の何時ごろかについては、20~30万年前、または10万年前と見解が分かれているようだが、ここには三国時代の土城跡も残っている。上記案内図の中央あたりに見える、④の直線の緑地がそれである。この城の詳細は余りよく分からない。

最後に、漢灘江を南に渡ったところにある、哨城里土城 (초성리토성)を目指した。

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朝鮮戦争の38度線突破記念碑のある辺りが城内で、河岸の平地に築いた土城の土塁跡が数100m残っているとのことで訪ねたのだが、ここでも城壁跡を確認することができなかった。記念碑は見つけたので城内にはたどり着いていた筈だが。城内には建物、耕作地、道路まで貫通しており、残存状態は悪い。外周500~600mと推定され、平地に版築土塁で方形に築いた城のようである。灰色軟質土器が出ているそうだ。プランから見て初期百済の城の可能性があるが、ちゃんとした発掘調査は行われていないのかもしれない。

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▲この哨城里から東の方を望むと、こんもりと盛り上がった山が見える。位置的に見て、大田里山城 (대전리산성)がここにある筈であるが、これは又の機会に。大田里山城は、新羅と唐の決戦の地である、買肖城の比定地の一つである。

これで臨津江沿岸の古城を訪ねる旅は終わり。他にも近くまで行って辿り着けなかったところも幾つかあるし、ここに挙げた以外にもまだまだ古城址はたくさんある。いつかまた万全の準備をした上でまとめて再訪したい。

この辺りは国境地帯の為に軍の施設が多く、立ち入り禁止区域があったり、朝鮮戦争の時の地雷もまだ残っているらしいので、整備されてない場所、未調査地域や登山道を外れるようなところは、歩き回らない方が良いだろう。今回、ちゃんと遺構を確認しきれない場所が多かったが、こういう事情もあってむやみに藪に入り込んだりはしなかった。

2007年6月16日踏査

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2008年6月20日 (金)

堂浦城(당포성)~臨津江沿岸の古城群-3

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六渓土城からまた北岸に戻り、臨津江沿いに東に進んで順番に見て行く。最初に見た瓠蘆古壘と同様、川に突き出た三角形の地形に作った城跡が二つ続くが、まずは堂浦城。発掘調査時の写真では見事な石垣の城壁が、階段状に三段に築かれているのが分かるが、現状は残念ながら埋め戻されており、なだらかな斜面にしか見えなかった。

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▲▼木が上にちょっとだけ生えている盛り上がりが、城壁である。

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▲対岸を見ると川に面した絶壁が続いているが、この城も同様の断崖状地形の上に位置している。二等辺三角形の長辺二つが、このような高さ13mの断崖で、陸地側の底辺に当たるところに人工の城壁を築いている。最初に見た瓠蘆古壘、堂浦城それに次の隱垈里城はどれも同様な地形上に築かれており、この特異なプランだけ見れば、どれも同一勢力によって同時期に築かれた可能性を窺わせる。高句麗による対百済の、南侵戦略拠点であったのかもしれない。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 8日 (日)

六渓土城(육계토성)~臨津江沿岸の古城群-2

臨津江沿いに、瓠蘆古壘から始めて東に向かって順番に城址を訪ねた。Yeonchun_map_rev2_1024

瓠蘆古壘の対岸に対峙する位置にある二残眉城は、残念ながら韓国軍の基地になっていて、一般人は入ることができない。その東にある、六渓土城を目指した。蛇行する臨津江が北に大きく湾曲する場所であり、この辺りは浅瀬になっていて、朝鮮戦争の時には北朝鮮の戦車部隊が渡河したところらしい。当然、戦略的に抑えなければならない要地であるが、ここに、平地の土城である六渓土城の痕跡が残っている。

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Google Earthで見るとこんな感じである。岸沿いに、楕円形のような地割りが見える。資料を参考に城壁ラインを辿ってみると、下図のようになる。

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赤線が残存城壁が確認されている部分。黄色は城壁推定ライン。外周約1.7kmで、城内に220mの間隔を置いて、平行する二本の土塁線がある。推定門址は、東西南の三箇所。また、西門跡には東西に長く、南城壁中央まで伸びる低湿地が確認されており、川まで繋がる水路の存在が想定されている。臨津江から直接船で城内に入れるようにしてあったのではとのこと。

このような平地の土城は、三国時代のごく初期に作られたものと見られ、初期百済の王城と推定されている、ソウル市の風納土城が最も有名である。風納土城は規模こそ外周3.7kmと六渓土城の約二倍であるが、川沿い、漢江の南岸に立地している土城で、プランはよく似ている。平地に版築土塁で囲んだ城というのは、中国で発生した城郭という文化が、まだ直輸入状態のようでもある。

2007年6月16日踏査

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2008年6月 4日 (水)

瓠蘆古壘(호로고루)~臨津江沿岸の古城群-1

持病の腰痛で一月程山城巡りを中断した後、リハビリ程度に、平地の古城をまとめて見に行った。
京畿道漣川郡。大韓民国の最北端、北朝鮮の開城から車で僅か10分ほどの国境地帯である。朝鮮戦争の時にはこの漣川郡を縦断する3号国道を、北朝鮮軍がソ連の戦車T34で南進した。そういうわけで朝鮮戦争の史跡ももちろん多いのだが、ここは遥か1500年以上昔の三国時代に、百済と高句麗が対峙した最前線でもあったようだ。

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▲漣川の観光地図に、古城跡を赤丸で書き込んでみた。クリックして拡大して見ていただきたい。漢江の北を東西に蛇行しながら流れる臨津江(イムジンガン)に沿って、その南北の両岸に10数箇所の要塞や山城跡が残っている。面白いことに、北岸に築かれた城には石築のものが多く、南岸には版築土塁で築いた土城が多い。同じ地域であり、入手できる建築材にも違いがなさそうなところから見ても、築城の先進国であった高句麗が北岸の城を石築で作り、南岸の土城は百済の手によるものではないかと思える。

まず訪ねたのは臨津江北岸の一番西側に位置する、瓠蘆古壘。これはこの地帯に独特な地形を活かした変わった形の城跡である。臨津江沿いは古代の火山活動で形成された火山岩でできた奇怪な形状の断崖や絶壁が多いが、この城も臨津江に突き出した細長い二等辺三角形のような玄武岩の絶壁上に築かれている。ちょうど三角形に切り取られたケーキそっくりの地形で、河に面する約20mの断崖はほぼ垂直である。
城壁はこの二等辺三角形の底辺にあたる、陸側を塞ぐような形で築かれている。なんとも不思議な形状である。

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同じような地形を利用した城跡は臨津江北岸にだけ他にも残っているが、それらと対峙するかのように、南岸にも主に土塁による城跡が残っている。これらの遺跡を見ると、この河が国境であったろうことが想像できる。

2007年6月16日踏査

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2008年3月20日 (木)

七重城(칠중성)~ここもボロボロです

京畿道坡州市積城面、七重城を訪ねる。

臨津江沿いの古城の一つで、標高149mの重城山の頂上にある。三国史記で何度も登場する城で、三国の熾烈な争奪戦の渦中にあった場所であり、国家史跡に指定されている。ここで新羅と高句麗が幾度も戦いを繰り広げ、三国統一後は羅唐戦争の舞台にもなっていたらしい。

実際に来て見ると、なるほど、たったの149mの高さとは思えない眺望の良さ。南北の陸路を遠くまで見通すことができ、臨津江の動きも見張ることが出来る。
この地の利は朝鮮戦争でも変わらず、国連軍の英国軍一個大隊がこの山に駐屯し、三万人余りの中国人民解放軍との戦いに臨んだとのこと。国連軍と言ってもほとんど米軍だろうと思ってしまうが、実際には複数の国が軍を派遣していたのだと実感する。

おそらく朝鮮戦争とその後の韓国軍の陣地造成に伴って、城跡はほとんど破壊され、残っていなかった。ごく一部に城壁の断片が残るのと、無数の土器片が散在していることが、わずかに昔をしのばせる。遺物は大半が新羅系のもの。高句麗のも少しでているらしいが、百済の遺物は出ていない。

山の頂上の外周には塹壕が張り巡らされているが、この陣地では塹壕の補強に、元の城壁の積み石と思われる石が大量に転用されていた。他の陣地では古タイヤで補強されているのをよく見るが、ここには城壁の石がふんだんに残されていたので、それをそのまま流用したのだろう。 トーチカの内部を覗いてみると、臨津江の向こう岸の地形と、敵陣らしきものが色付きで書かれていて、矢印が何本か敵陣に向かって記されている。大きな銃眼の両側には古臭い書体のハングルで、左に「初弾命中」、右に「初戦撲殺」と殺伐とした標語が書かれている。

近代戦の戦跡地は、どうも生々しすぎる。

2007年3月17日踏査

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2008年3月 5日 (水)

城洞里山城(성동리산성)~好きな所からまっすぐ登れ!

京畿道泡川市永中面城洞里。
東西南北の道路が交わり、臨津江に通じる支流が流れる小さな町。2006年末に出た「임진강주변 고구려城을 찾아서(臨津江周辺の高句麗城を訪ねて)」という本で、ここに古代山城の城壁が残ることを知って訪ねてみた。一ヶ月前に訪ねた泡川半月城の北、10数kmのところだ。
泰封山(標高180m)の山頂に周囲約400mほどを石築で囲んだ山城である。多様な土器片、瓦片が出ているが、統一新羅時代のものが主流とのこと。高麗以降のものは出ていないようだ。

本に書かれている説明と、ネットで探した断片的な情報をもとにバスで近くまで行ってみる。農作業をしている人をつかまえて聞くと、どの山かはすぐに分かった。2007_0303_151543aa_800
登山口を訊いたが、あのくらいの山、適当に正面から直線で登りなさい!大丈夫。といい加減な答え。しかし登山道が整備されるような山ではないかもしれないと思い、ままよと思って、道路に面した東側斜面を、ほぼ直線コースで登り始めた。
しかし、これは思ったよりきつかった。 2007_0303_152847aa_800_4
上に行くほど急斜面になり、後半は四つんばいで這い上がるようにして、少ない木の幹や岩を手・足がかりにしながら、なんとかかんとか20分くらいで登り切った。汗びっしょりである。

ほぼ登り切ったところで目に飛び込んできたのが東壁だ(下写真)。もっと近づいて正面から撮ろうと思ったが、城壁周囲は急斜面になっていて、足場が崩れやすく、これは本当に危険で諦めた。2007_0303_153658aa_800 ちなみに前記の本ではこの城壁を真正面からカメラに収めている。よく読むと、足場の傾斜が厳しくて、ずるずる滑り落ちそうに、と書いてある。危ない、危ない。よく撮ったものだ。
城内に入ると、さらに驚かされた。ここは韓国軍の要塞である!城壁に沿った頂上の外周全てに1~2mの深さの塹壕が掘られており、古代の城壁が、コンクリートと古タイヤで構築された現代の要塞と一体化している。2007_0303_154348aa_800 無人ではあったが、最近まで使っている様子で、ちゃんとメンテナンスされている。塹壕には10mおきくらいで、銃眼のついたコンクリート製の詰め所が作ってある。数えなかったが、30箇所くらいはあったと思う。
肝心の古代山城の城壁は、最初に見た東壁以外に北壁がよく残っていた。それ以外の部分は、この韓国軍の陣地で壊されていてよくわからなくなっていた。頂上の平地にはコンクリート製のトーチカ(上写真)まであり、まるで秘密基地だ。

東から入って北、西と巡り、南側の城門跡近辺にまで行くと、開けたゆるい傾斜になっていて、韓国軍が整備したと思われる登山口があった。ここから登ってくれば楽だったろうが、東の城壁は見つけられなかったろう、と思った。

下山すると、農家の爺さんから何しにきたんじゃ、と訊かれる。山城を見にきた、立派な城壁だったというと、嬉しそうに、本見てきたのか?そうだ、ちゃんと史跡に指定して管理すべきなのに、全然なってないんじゃ、と悔しそうだった。
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▲北壁をパノラマで。2007年3月3日踏査。

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2008年2月20日 (水)

月籠山城(월롱산성)~漢城百済の痕跡-7

坡州市統一展望台のある烏頭山城から東数kmの標高218mの岩山の頂上に、月籠山城がある。外周1.3km。百済が4世紀頃に築いた山城址と言われている。
築いたと書いたが、城壁らしい遺構はほとんど残っていない。まず、この山の頂のかなりの部分が数10mの絶壁に囲まれていて正に天然の要害である。人工の城壁を築くまでもなかったろう。また、絶壁になっていないところには城壁を築いた筈であるが、そこには韓国軍が古タイヤで築いた塹壕が構築されていて、もとの状態がどうだったのか想像するのは難しい。岩を階段状に削った城門址が二つあると聞いたが、ちょっと素人には判別できなかった。

本格的な発掘はまだされていないが、2002年と2003年に地表調査が行われている。収集された遺物は土器片が中心で、若干の瓦片、鉄器、陶磁器片も出ている。土器片1,193点が収集されたが、焼成温度の高い硬質土器が959点で大部分。文様は様々なものが出ているが格子文土器が多く、漢城百済の代表的な遺跡とされている夢村土城や風納土城から出る土器と共通性を見せているとのこと。高麗時代、李朝時代の土器・陶磁器も少し見つかっているが、大部分が4~5世紀の漢城百済時代の土器片と見られている。

韓国軍の手がかなり入っていたり、頂上の平坦地に公園が造成されたりしているので、ほとんどの遺構が破壊されている可能性もあるが、本格的な発掘調査が待たれる。

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2007年3月1日踏査。上写真は月籠山頂上と20mを越える断崖。

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2008年2月10日 (日)

烏頭山城(오두산성)~漢江と臨津江の交わる国境地帯

京畿道の北西部、坡州市にある烏頭山城を訪ねる。
この地域は漢江と臨津江が交わり、海につながる交通の要衝であり、三国時代から現代まで熾烈な戦闘が繰り返されてきたところである。

現在、この山城跡には統一展望台が建っている。展望台に上って河向こうの北朝鮮を望み見ると、右に臨津江、左が漢江で、正面の陸地が北朝鮮となる。この山城はこの二つの大河が交わるところに突き出た岬のような地形になっている。標高119mに過ぎないが、周囲に高い山が無く眺望は極めて良い。この辺りで要塞を作るなら正にここしかないだろう。

発掘された遺物も、この交通の要衝だけあって三国時代から李朝時代のものまで連続している。李朝時代から、この城の立地から推測して、392年に高句麗軍が20日間で陥落させた百済の関弥城に比定されてきたが、今のところそれを積極的に裏付けるような遺物は見つかっていない。遺物中、注目されるのは「元泉」「泉井」「草下」などの銘文が刻まれた瓦片。676年に、新羅が唐との決戦の前に戦った「泉城」との関連が指摘されている。

肝心の城の遺構であるが、残念ながら北側駐車場裏の斜面に10数m、ほんの数段の石積みが残るだけである。朝鮮戦争の際、激しく破壊されてこれしか残っていないとのこと。それ以前の写真があれば是非見てみたいものだ。

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2007年3月1日踏査

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